タイトル----婦女の略奪を禁じる。第1957号 26.05.05(月)
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婦女の略奪を禁じる。『宋名臣言行録』
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昨日も『宋名臣言行録』よりご紹介しましたが、今回も続いてご紹介します。
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【コメント】
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曹彬が蜀を討ったときのこと。ようやく成都が陥ちると、将兵のなかに婦女の略奪をやるものが出た。かれは、略奪された婦女をことごとくある屋敷に閉じ込め、一カ所だけ食事の出し入れをする穴をつくった。そして将兵に向かって、こう言いわたした。
「朝廷に献上するゆえ、ひそかに保護せよ」
やがて戦火がおさまると、女たちを、親のあるものは親もとへ帰し、親を失ったものは正式の婚礼をあげてやって片付かせた。
蜀から凱旋したとき、曹彬はおひただしい荷駄をもちかえった。
「あれはすべて得がたい財宝です」
こう中傷するものがあって、太祖はひそかにさぐらせてみた。ところが、どれも書物ばかりで、
金銀財宝のたぐいはなにひとつなかった。『宋名臣言行録』頁57
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『天保おすわり事件』(第13回)
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経済学博士黒正巌氏は、その著「百姓一揆史談」の中に、左の如くのべてゐる。
「徳川時代の百姓騒動といへば、政治的又は経済的理由によりて、時の支配階級たる武士
に對する自暴自棄の反抗であるを常とする。然るに天保十一、二年に起った羽前荘内の百
姓騒動は、全く之と類を異にするものである。百姓が徒黨を組み、物物しき旗印を押し立て
て団体運動を試み、その代表者は、死を決して屡屡江戸に上り、幕府の大官に直訴すめに
至った。
しかも此の運動は、秩序整然たるもので、他の百姓一揆と異り、富豪商家を略奪するが如
き暴挙に出づる事なく、領主の失政を憤り、又武士に反抗する徒党でもなかった。農民が領
主の轉封を惜み、命令の撤回を幕府に嘆願し、その主張を貫徹せんが為に団結し、示威運
動をなさんとする一揆である、」云々。
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何といふ美しい君臣の情誼であらう。此君にして此民あり、此民にして此君あり、私が特にラヂオに、講演に雑誌に、屡屡此の事件をとりあげ、荘内の百姓道を天下に紹介し、之を称揚して居るのはこれがためである。
ボーッと燃えた一本のマッチ、それが、燎原を焼く火とならないと誰が保証し得よう。昭和十五年の春、煙突から出た火の粉が、静岡市の六千七百戸を焼き、六月廿日の落雷で、大蔵省、厚生省をはじめ、九つの官庁が廃墟となったではないか。
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