タイトル----賢徳に居りて俗を善くす。第1954号 26.05.02(金)
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賢徳に居りて俗を善くす。『易経』
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君子は正しい立派な徳を持して変わることなく、さらにその徳をもって一般の風俗を感化する。まずおのれをよく修めて、しかるのち人を教化する。
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【コメント】
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連日、『名君忠徳公』に引き続き、『天保おすわり事件』をご紹介しています。
上にある〈君子は正しい立派な徳を持して〉とあるのが、私が20年の間、お導き戴いた荘内南洲会の先生方のお姿であったからです。
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忠徳公の生き方、荘内に根付いた郷土としての美風は、人々が、それを参考にして日常的に活用すれば、健康にして長生きにつながる要件が説かれていると思うのです。
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他人様にはおだやかに話し、そして良い言葉を提供し、実践することは至誠の情であり、相手も自分も気持ちよい日々に生きることが、天の道だと天風師は説いているのです。少なくとも『南洲翁遺訓』を改竄しようなどと、売名的で不届きなことをするのとでは対照的であるのです。
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この20年間、自分で録音したテープを山林を歩く時など聞いてきました。どれほど勇気づけられたか、計り知れないのです。
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理子先生、『運命を拓く』をお読みになられて、そうお思いになりませんか。ゆき子・御母上様はそうお思いになりませんか。
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日本空手道少林流円心会の保護者の皆様は、天風師の教えを喜んで学んでいます。
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『天保おすわり事件』(第10回)
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青天の霹靂、轉封の臺命に接した江戸の藩邸は、上を下への大騒ぎとなった。
當時、忠器公は御在国中であったので、江戸の御留守居役矢口彌平は、取るものも取りあえず、早駕籠で、奥州街道をひた走りに、十一月七日の夕刻鶴岡の城下に到着した。百二十余里を、夜を日についでかけつけたのだから大變だ。お使者の鬢髪は、霜の如く白かった。
「おそれながら臺命にござりまする。」
「ハッ!」とばかりに、居ならぶ藩士は一様に、額を畳にすりつけた。
荘内から長岡へ-----。それは荘内の君臣にとりて、まことに寝耳に水の臺命であった。
尤も、大名の國替へ、轉封はありがちの事で、格別異とするに足らない。現に、酒井家でも、荘内に封ぜられる前に、三河の吉田から、上州の高崎へ、高崎から越後の高田へ、高田から信州の松代に、都合三度も所替を命ぜられてゐるが、それも所によりれりである。
三河以來の親藩、御譜代中の御譜代、血をわけた御一門の酒井家を、一言の豫告もなしに、突然の轉封沙汰は法外である。そこに何らかの魂膽がなくてはならぬ。
「さては水野越前の小細工だな。長岡の牧野は、水野と京都所司代を争った仇敵で川越の松平は大御所様にゆかりの竆臣だ。自分を長岡へ、牧野を川越に、松平を荘内にまわして一石二鳥を狙った水野の策謀に違ひない。おのれ卑怯者めが!」 頁七
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短歌の紹介
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熊本の鎮台目指す軍の中
伴・榊原二青年も居り 6757 『臥牛 菅実秀』
私学校優秀人材フランスへ
伴・榊原選抜をされ 6758 『臥牛 菅実秀』