味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

未だ形われざるに諫むる者は上なり。

2014-05-03 15:36:28 | ブログ

タイトル----未だ形われざるに諫むる者は上なり。第1955号 26.05.03.(土)

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 未だ形(あら)われざるに諫(いさ)むる者は上なり。『忠経』

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 人を諌めるならば、過ちの兆しの現われないうちに諌めるのが効果があって最もよい。

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 【コメント】

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 今朝の学問館で道徳について議論しました。学校教育現場では道徳の時間は設けているそうですが、時間が足りなくなったような場合、道徳の時間を削り調整することもあるのだということをお聞きしました。

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 上の『忠経』の言葉は大変大事なことだと思います。特に男の子は、長ずるにつれて悪戯をしがちです。だから私は、門下生には、悪戯をしたらどういうことになるかを教えてあげているのです。

 子どもの頃、血の気の多い港町・枕崎は悪戯ガキが多かったものです。私などもガキ大将のあとからついて行ったものです。経済的に豊かな税理士の息子で手におえないのもおりました。今、思うに両親が「悪い事をしたら駄目だぞ」という躾の言葉はなかったようです。それに比べて私の母は厳しい厳しい母でした。

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 だから学校では道徳優先であるべきだと思うのですが、先生方がガキ同様の人がいると何時も聞いています。

 先ずは『名君忠徳公』を学校の先生に学ばせなければならないと私は思っています。そして正直者になった方が長い一生ではよい人生を送れるのです、ということを教えるべきだと思うのです。。

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 『天保おすわり事件』(第11回)

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 忠徳公は、早くもそれとおさとりになったが、併し表面はどこまでも臺命である。理由の如何を問はず、将軍の臺命に背けば反逆者とならねばならぬ。御不審のかどあっての臺命とあれば、死を以て争ふも辞する所ではないが、理由なしの臺命では、どうする事も出来ない。みすみす水野の小細工と御承知ありながら、それをどうする事もおできにならなかったのである。

「感情は感情、臺命は臺命である。一時の激情に走って公儀に弓を引くやうな結果になっては、家名は断絶、多数の藩士を路頭に迷わせねばならぬ。それでは、御先祖様の御位牌に對して相すまぬ。」

 忠徳公はさう思ひかへされて、煮えくりかへる御胸をさすって、臺命を拝受せらるると同時に、藩士一同に諭して、立つ鳥のあとを濁さぬやう、萬端の準備ぬかりのなく取り計ふうやう、苟も公儀に對し、不敬不穏がましき言動を慎むやう、固く申渡されたのである。

 藩士は泣いて君命を奉じたが、おさまらないのは領内二十萬人のお百姓である。御先祖忠徳公の御善政に悦服してゐた三群のお百姓達は、一つには御主家の大事、一つには自分達の死活問題だと信じて蹶起したのである。それだけに、彼らの言動は、あくまでも真剣であった。

「磔(たく)、拷問、水牢はもとより覚悟の前だ。百姓たりと雖も二君に事へず、生命がけでお願ひしたら、天地神明もよもや傍観はなさるまい。」

 さう確信して、彼等は思ひ思ひにたちあがったのである。

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 短歌の紹介

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戦争が起こると荘内二青年

               決然として従軍を望 6759 『臥牛 菅実秀』

篠原は郷里帰れと進めるも

               われら一身師に預けたと言う 6760 『臥牛 菅実秀』