タイトル----主を欺かず。第1956号 26.05.04(日)
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主を欺(あざむ)かず。『宋名臣言行録』の中にある「曹彬」(そうひん)の人格を紹介した言葉。
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【コメント】
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昨日は、『宋名臣言行録』(和田武司訳)を通読し、深い感銘を覚えました。20年前に購入し、数回読んできたのですが、今回は特に深く感動した次第でした。一部、ご紹介したいと思います。
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「曹彬」
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後期の姻戚にあたる、名門の武将。後周の世宗のとき普州兵馬都監(親軍の幕僚)となり、のち太祖に招かれ、蜀・江南の平定に功をたて、枢密使(軍政長官)となった。
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幼児のエピソードとして、一歳の誕生日に、親がたくさんのおもちゃを並べて、好きなおもちゃをえらばせたところ、左手にほこを取り、右手に俎豆(祭祀に用いる器具)を取った。それから、さらに宰相の印をとって、ほかのおもちゃは見向きもしなかったという。
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公と私とのけじめをわきえた謹厳清廉な人柄で、南方平定にあたって、殺戮をこととしない慎重な戦略によって、太祖の統一事業をスムースに進めた。
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主 を 欺 か ず
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太祖がまだ後周の世宗に仕えて渲州にいたとき、曹彬は世宗の親任を受けた財務官として茶や酒の専売を管理していた。
そのころ、太祖は曹彬のところへ出かけて、酒をねだったことがある。
『ここの酒は官の酒でありますから、差し上げるわけにはいきませぬ』
曹彬はこう断わり、その代わりに自腹を切って酒を買い、太祖にふるまった。
のちに太祖は、即位すると、群臣に語った。
『世宗の旧政権に仕えた役人で、主人を裏切らなかったのは、曹彬くらいのものだ』
これが機縁となって、曹彬は腹心にくわえられ、蜀征討軍の軍政長官に命ぜられたのである。.
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『名君忠徳公』も美談として語り継ぐに足る史実ですが、『宋名臣言行録』にも、それに比肩する美談が紹介されています。お互いこれらを拝読し、日々に生かしたいものです。
少なくとも、大参事発生に際しても、隣の国みたいに、狭量であってはならないと思います。
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『天保おすわり事件』(第12回)
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六
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史を按ずるに、徳川時代に起った百姓争議だけでも、随分ある。記録に残ってゐる義民の重だったものだけを拾っても、四十余人を數へる事が出來る。
上州沼田領の磔茂左衛門
常陸の片岡萬平
若狭の松木莊左衛門
大和八條村與十郎
新潟の湧井莊五郎
柏崎の生田萬
周防の松原清介
佐倉の木内宗吾
等、等、等。
そのいづれもが、無理解なる領主や、没義道なる代官悪吏の非道、暴逆に對する百姓の義憤の爆發であり、血と涙に彩られたる反抗の悲劇である。よし願意の一部は貫徹されても、彼等の拂った犠牲は、言語に絶するものがあった。血ぬられたる蓆旗と竹槍とは、空しく泥土にふみにじられ、義民の重だった者は、例外なしに、家族もろとも極刑に行はれたのである。
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ひとり荘内藩のお百姓によりて起された天保おすわり事件のみは、これ等と全然類を異にし、重恩の君家にお別れするに忍びないといふのである。滅私奉國、あくまで主君と生死を一にしようといふのである。
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