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書評・F機関-アジア解放を夢見た特務機関長の手記 藤原岩市・バジリコ㈱

2020-03-17 16:12:10 | 大東亜戦争

F機関-アジア解放を夢見た特務機関長の手記 

 古今東西これほど高潔な軍人がいた、と言う事をこの本を読むまで知らなかった事は恥じ入る限りである。最も重要なのは弱冠三十三歳の藤原少佐の編成した少数のF機関の働きがインド国民軍(INA)の設立を促し(P132)、INAがインパール作戦に参加したことである。戦後INAが英印軍に対して反乱を起こしたとして、裁判にかけられたことがきっかけで収拾がつかない全国的な暴動が発生し膨大な死傷者を出したために、英国は統治権を返還、つまりインド独立を認めざるを得なかった。

F機関ひいては大東亜戦争がインド独立の直接の契機であったのは間違いない。F機関が高潔で私心のない藤原少佐に率いられたからこそ、インドやビルマの人たちを結束させたのである。そんな組織を作った陸軍の見識も見事である。本人が経験も資質もないと誇示するのに敢えて命令したのは、軍幹部もそれなりの見識があったのに違いないのである。軍のバックアップには問題があったにしても、全ての軍人に藤原氏の高潔を求めるのは、理想主義に過ぎる。F機関の創設をさせたということだけで、国家組織としては充分高潔と言える。もし大東亜戦争がなければインドの独立は三十年遅れたとも書かれているが、単に遅れただけでは済まない。現在でもインドの公用語には英語もあるように、独立が遅ければ遅いほど、インド文化は喪失していったであろう。三十年は恐ろしく長い時間なのである。日本軍によるアジア侵略と信じ込まされている人たちはこの本を読んで、よく考えていただきたい。

日本軍人の責任感の強さを伝えるエピソードがある。二名の日本兵が、若干の銀製食器類とマレイドルをマレイ人家庭から略奪したが、藤原少佐が咎めて部隊長に報告するよう命じて帰したところ、その日のうちに自決した、というのである(P106)。他にもマレーで略奪を行った日本兵を処罰する場面がある(P169)シンガポール占領の際、山下将軍は混乱を避けるため、市内には治安維持のための一部の憲兵を入れただけで、軍の主力は郊外に駐留した(P217)。

これは米軍のフィリピン侵攻の際に、山下将軍が市内を無防備都市宣言をして市街戦を避け郊外で戦おうとしたことと同じで、市民の被害を極限しようとしたのである。ところが海軍の反対で市街戦を戦ったためにマニラ市民が米軍の攻撃で多数殺された。今でもフィリピン人は、米軍は市民を殺し過ぎたと心底では思っているそうである。そして陸軍にはこのような判断ができたのであって、戦闘を知らない海軍の誤断による失敗が大東亜戦争の陸戦に随所にみられる。太平洋の島嶼戦でも海軍は多数のイージーミスを犯している。

インパール作戦は、戦闘としては大惨事となり失敗ではあるが、インド独立、ひいては全世界の植民地の解放につながり、現在の自由貿易社会はそれによって生まれた戦後日本の高度成長は植民地の解放なくしてはあり得なかったのである。インパールの犠牲者には犬死ではなかったと言うべきである。戦後の英軍の裁判でINAが告発されたのはINAが日本軍とともに英軍と戦ったからである。自由インド仮政府は英国に宣戦布告したのであり、INAの唯一の戦争がインパール作戦であった。独立の英雄チャンドラ・ボースは「・・・死傷の続出、補給の途絶、餓死も、進軍を中止にする理由にはならない・・・」(P308)と叫んで日本軍の作戦終了に最後まで抵抗したのである。英軍による裁判が行われている時期にインドの新聞は、インパール作戦においてINAが英軍に武勲をあげたと報道して支援した。

 インド独立におけるチャンドラ・ボースの功績は絶大なものがある。それはINAの創設とインパール作戦に対するINA将校の処罰に対するインド国民の反乱がインド独立の直接の契機となったからである。確かに、ガンジーの非暴力の抵抗卯運動は、インド国民に対して反英精神を涵養した。しんし、独立のきっかれを作ったのはチャンドラボースである。ガンジーはインド独立の父と呼ばれているようである。しかし、独立の父と呼ぶべきは、チャンドラボースである。反英精神を地道に涵養した、と言う点において、ガンジーは独立の母と呼ばれるべきではなかろうか。

いわゆる日本軍の残虐行為の記述については同意しかねる箇所がある。戦後間もなく書かれたことと、少佐の高潔な性格の故で同胞に対しても厳しかったのであろうと思うが残念である。マレーに進駐した日本軍は、華僑が晴天白日旗を掲揚する事を、一度は藤原少佐の要請で許可したものの、その後禁止した(P125)。英統治下でも彼らの祝日には祖国の国旗を掲揚していたのに、というのである。これに対する反感を英軍と共産系華僑が利用して、後方撹乱やスパイ行為を行った結果、華僑の摘発と虐殺と言う汚点を残したと言う(P230)。

中島みち氏の「日中戦争いまだ終わらず」に書かれているように、史実はこんなナイーブなものではなく、計画的な不法行為に対する摘発であって虐殺ではない。藤原氏は支那事変についての日本軍の違法行為の噂も信じているのであるが、これも支那側の宣伝を容易に信じる少佐のナイーブさの証明であるが、だからこそこのような崇高な任務を行う事が出来たのであるから、絶対矛盾である。支那事変においては日清日露の当時より不法行為が増えているのは事実であるが、それは支那兵が行った日本軍捕虜の目を覆いたくなるような惨殺体を頻繁に目撃した兵士が、怒りにかられて行った同情の余地のあるものである。支那兵は国際法違反の便衣兵や女子供によるテロ行為など卑劣な戦法を常習した。ベトナム戦争でのソンミの虐殺などもこれに類することである。北ベトナム軍は米軍兵士や南ベトナム人を卑劣な手段で虐殺したが、日本ではその声が聞こえないのである。

「訊問」の章ではチャンギー刑務所における残虐非道な捕虜への取り扱いが次のように書かれている。

刑務所の有様は、さながら地獄の涯、賽の河原を思わせるものであった。畜生を扱うに等しい警備兵の仕打ち、飢餓ぎりぎりの乏しい粗食、陰険苛烈な尋問、神の裁きを詐称する前近代的な復讐裁判、獄の一角で次々と執行される絞首刑等、陰惨を極めた。将兵は、骨皮同然に痩せさらばえ、渋紙のように陽焼けし憔悴していた。

これが戦後捕虜を人道的に扱ったと宣伝される連合国の実態である。まして誰も見ることのできない植民地で、欧米諸国がアジアの人々をいかに過酷に扱ったか想像できるではないか。フィリピンでは反抗する30万人の人をバターン半島に追い込み餓死させ、インドでは機織り職人の右手首を切り落とし仕事を奪った、などというのは氷山の一角にもならないのであろう。ナチスの蛮行は欧米人自身が告発している。しかし同じ欧米人が同じような事を植民地でしなかったはずはないのである。現にアメリカインディアンは絶滅したに等しい。ニュージーランドのアボリジニーはただの一人も残すことなく絶滅させられた。オーストラリア人の狩猟遊びのターゲットとして殺戮されたのである。

藤原氏は現代日本人に重大な警告を発している。戦後日本人は占領下の痛苦に耐えて国土の再建を期していた終戦直後の祖国と同胞を知っていた、と言いながら直後に「その後浅ましく変貌したが」と書いているのだ(P337)。最後に藤原少佐の女婿の冨澤氏が、英軍将校にF機関の成功の理由について質問されたときの藤原少佐の答えを紹介している。これがこの本の全てを語っているが、諸氏は本書を読んでいただきたい。私はこれを書くに高潔と言う言葉を繰り返した。藤原氏を表わすのに語彙の貧困を恥じる次第である。

 現代日本では反中共ネットワークとして、日米印の提携が言われている。それもINAが実現したインド独立のなせるわざである。ただし、インドは敵の敵は味方の戦略で、主要な兵器はソ連に依存している。国際関係の複雑のゆえである。


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2 コメント

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猫の誠さんこんにちは (小平次)
2020-03-18 12:33:28
猫の誠さんこんににちは

私も恥ずかしながら、この書は知りませんでした。

ぜひ読んでみたいと思います。

『ガンジーはインド独立の父と呼ばれているようである。しかし、独立の父と呼ぶべきは、チャンドラボースである。』

インドで、あるインド人がこれにきわめて近いことを私に言いました。

いずれ、インド放浪の記事の中に出てきますので、よろしければ覗いてみてください、まあかなり後になると思いますが…

ありがとうございました
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コメントありがとうございます (猫の誠)
2020-03-18 15:08:40
インド放浪記楽しみにさせていただいております。以前イギリス映画だったと思いますが、「ガンジー」という映画がありました。インドの反英暴動などはわずかしか描かれていません。あたかもガンジーの無抵抗運動で平和裏にインドが独立したと言う印象を持たせます。むろんINAやチャンドラボースなどはでてきません。映画の意図は、インド独立が平和裏に行われたものである、という印象操作だと思われます。

 ご存知かと思いますが、インドはチャンドラボースの遺骨受け取りを断っているため、遺骨は未だに日本にあります。ミャンマーのアウンサンスー・チー氏の件と言い、英国の深謀遠慮にはぞっとするものがあります。
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