頭の中は魑魅魍魎

いつの間にやらブックレビューばかり

『荒地の恋』ねじめ正一

2013-06-10 | books
結婚した。子供もできた。しかし好きな人ができた。しかも相手は長年の親友の妻(もしくは夫)  だったらどうする?

1.そんな浮気心はTempフォルダに入れて二度見返さない。
2.即離婚してその人と一緒になる。
3.あくまでも「純愛」気分でその人との交友を続ける。
4.バレないように不倫をする。
5.バレても構わず不倫を続ける。

北村太郎という詩人をご存知だろうか?私は詩は読まないので知らないのだが、エリック・アンブラーの「あるスパイの墓碑銘」とか、大好きだったトレヴェニアンの「夢果つる街」、一時夢中になって読んだ小児精神科医のアレックス・デラウェア・シリーズの「大きな枝が折れる時」の訳者としてならよく知っている。心地良い日本語を駆使する人だった。

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先日、朝日新聞でこの荒地の紹介がされていたのだけれど全く知らない本だった。読んでみたらドップリとずぶずぶと浸かってしまった。

北村は親友の詩人、田村隆一の妻明子と、他人から後ろ指をさされるような関係となる。二人がどんな風になっていくのか、巻き込まれた周囲がどんな迷惑を被るのか、そんな話である。ドキュメントなのかよく分からないのだが、もし出鱈目だったら遺族に訴えられるような、猛烈なリアリティがある。

泥沼という言葉がよく使われるけれど、そのレベルを通り越して、汚れ、腐り、臭いを放つ。そんな姿がそこにはある。

不倫そのものは善でも悪でもない、と思う。それよりむしろ、不倫を通して、その人の内面の奥の方に隠れている真実のマグマが噴出するのではないかと思う。こんな例はどうだろうか。仮に、私の知り合いで不倫している人がいるとして。この本を読んだ後に、こんな人が現実にいるような気がしてきた。私の妄想にしばらくお付き合いくだされ。

彼(もしくは彼女)は「自分のしている事は不倫ではない。配偶者とは家庭内別居状態であるから、不倫ではない」と言うのだ。「じゃ何なのか?」と尋ねれば「純愛だ」と答える。ほー。その人は自分が結婚に失敗したからか「結婚というシステムには問題がある」と言う。ほほー。結婚という失敗から何を学んだかと尋ねれば、何も答えない。何も学んでいないらしい。ほーほー。その人がどんな人なのか分かってきたような気がするよ、ワトソン君。

結婚とか不倫というような「事件」はその人の本質を浮き彫りにする。何が浮き彫りになったか、勝手に想像してみよう。この例の場合、「自分のしていることはピュアでキレイなことだ」と信じる、自分ピュア教信者による自己正当化を得意技にしているということが分かる。二つ目の得意技は、不幸の原因は決して自分の内側にはない思う、不幸原因のアウトソーシング化だ。三つ目は、経験したことを教訓として次に生かそうとはしない、言い換えれば、宵越しの金は持たない、ちょっと小粋な熊さん八っつぁん的な刹那な生き方と言ってもいいし、自分には学ぶべき事などこの世に存在しないという自称カリスマな姿勢と言ってもいい。こんな風に、その人の外側には決して現れたことのなかった内的得意技が、事件によってむき出しにされちゃうわけである。そういう意味では、不倫は善悪の次元とは別に、その人の本質が見える機会でもあるわけだ。分かるかね、ワトソン君?え?強引すぎるって?いいではないか。言わば、舗装されたところを走っていれば永遠にめくれることのない秘めた部分が、荒地を走ったらめくれてしまった、というわけだ。

こんな風に妄想と空想に耽ってしまうほどにこの本のパワーは強いのだ。第三者から見れば、ユーモラスな現象が当事者から見ればどんな事件なのか、この本が色々と伝えてくれる。本書を読んで、だったら恋愛も結婚もやめようと思うこともあるだろう。読んで、だったら不倫も浮気もやめようと思うのも一つのリアクションだろう。しかし、読んで、こんなに楽しいものなら自分もぜひ結婚してみようそして不倫してみようという気にはなる人はほとんどいないだろう。浮気という甘い果実に対する食欲を完全に消滅させる、猛毒のようだ。(「荒地の恋」という名の猛毒を喰らい、自分をむき出しにし、そして人間をとことんまで知りたいと願う究極の冒険者のみが結婚と不倫という新たなる地平線へと向かうのだ。)

ずっと積ん読山脈の藪の中から出ては消えていた島尾敏雄の「死の棘」を取り出してきた。浮気を知って妻の頭がおかしくなってゆく様を描いた地獄のような私小説(らしい) 今までに何度となくペラペラめくっていたのだけれど、延々と暗くジメジメした描写が続くので数頁以上読んだことがなかったのだ。

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毒を食らわば皿までなのだろうか。荒地を読んだら急にこっちを読みたくなった。

あそうそう。忘れていた。北村は最初の選択肢から4と5を選ぶのだけれど、それだけでは話は終わらない。その先が面白いのだよ。

では、また。

「荒地の恋」ねじめ正一 文藝春秋社 2007年(初出オール讀物2003年~2007年)

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今日のこころの中の真実 (パール)
2013-06-11 15:50:04
>その人の内面の奥の方に隠れている真実のマグマ

「不倫」は、結婚制度から見ると、異端。制度としての結婚に納得して結婚した一方が、そこから降りないまま、不倫をするのは卑怯だと思う。
誰かの不幸の上に幸せの花は咲かない。

結婚制度によって成り立っている全てを投げ打つことのできる恋が、今の自分にできるとも思えず、誰かをそんなにも恋い焦がれることが、過去も未来もあるとも思えず・・・
「純愛」なんてものはあるのでしょうか。「恋」という言葉の向こうに“大好きな自分”を投影しているだけではないのでしょうか。

そうです。今日の私が、最初の選択肢から選ぶのは1か2。泥沼(らしきもの)が見えたら、大きく迂回します。

この作品を読んでいないのに…男性作家の恋愛小説は、基本、迂回するので…変なコメントでした。

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こんにちは (ふる)
2013-06-13 14:21:47
>パールさん、

昔アメリカ人の友人に、結婚とは何か尋ねたところ、ファイナル・コミットメントだと言っていました。旧約聖書、新約聖書の「約」は神との契「約」だそうで、コミットメントも契約ですから、この場合、結婚は相手との契約であると同時に、神との最終契約だと考えるそうです。すごくカトリック的だなと思ったのですが、カトリックのような宗教を特に信じていない者にとっては、結婚とは何なのでしょうか?

相手と結ぶ「個人的な契約」であるとすれば、何をどうするのか相手が了承していれば他人はとやかく言うべきではないというのが「正しい」のでしょう。社会と結ぶ「社会的な契約」であるとすれば、矢口真理さんのように、当事者ではなく、社会からバッシングを受けるのが「正しい」ということになります。

結婚というのは個人的な営みであると同時に社会的な営みでもありますから、どちらかが100パーセントということではなくそのミックスなんだろうと思います。(どちらか一方に決める方が簡単ではありますが・・・)ですから、矢口さんが良くないかどうかは社会だけが決めることではないでしょう。

>誰かをそんなにも恋い焦がれることが、過去も未来もあるとも思えず・・・

恋とは隕石のように、予期も準備もしていなくても降ってくるものです。決して避けることはできません。予測不可能 回避不可能

>「純愛」なんてものはあるのでしょうか。「恋」という言葉の向こうに“大好きな自分”を投影しているだけではないのでしょうか。

これはなかなか鋭い意見です。(その鋭い刃を「卑怯」という言葉に向けてみると、その向こうには「自分のしていることは清く正しいのだ」という気持ちが映し出されるような気がしなくもありませんが・・・)

「恋」は、大好きな相手の姿を見るもので、「純愛」は、大好きな自分の姿を見るものだということですね。その場合、自分の姿=純ということになりますね。知り合いでBLにハマっている人が言っていたのは、男女の恋愛は汚ならしいけど、BLには純愛が見て取れるとのことでした。段々、純愛という言葉の定義が分からなくなってきました。

>男性作家の恋愛小説は、基本、迂回するので…

男性の書いた恋愛小説は読まないのはちょっともったいない気がします。
「ノルウェイの森」や「1Q84」は恋愛小説だと思いますし、白石一文のような恋愛小説の書き手もいます。
私は作家の性別、年齢、国籍は気にならず面白ければ何でもいいので考えたことがなかったのですが、恋愛小説の傑作は女性作家の方が多いような気も致しますね。
「アンナ・カレーニナ」は例外かも知れないのですが、まだ途中です。
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恋はするものではなく、落ちるもの (パール)
2013-06-13 20:15:16
やさぐれたコメントに、温かなお返事をいただき、ありがとうございます。

“男性作家の恋愛小説(日本の)”を読んだのはかなり昔ですので、私が未熟だった可能性が高いのですが、以下の理由も考えられます。
・女性がワンパターン、女性の人生をトータルで捉えていない、(男性)作家が思い通りに女性を動かそうとしている…
・ちまちま自分の半径1メートルの中で、こぎれいに苦悩している男性よりも、世界を股にかけた謎や冒険に身を投じる男性に魅力を感じていた…
・恋愛小説なんか書いている男性(あくまでもイメージです。すみません!)が、好きではなかった(本当にすみません!)…のかもしれません…

源氏物語を男性が書いていたら、きっとつまらない気がします。
ところで、男性漫画で、すてきな恋愛物語はあるのでしょうか?

「みずうみ」「初恋」「緑の館」「狭き門」は男性作家の恋愛小説だと思いますが、面白かったと記憶しています。
「アンナ・カレーニナ」はすごすぎて、誰にも感情移入できず、これが恋愛小説?と思ったことは記憶にあります。トルストイはアンナを偏愛しているよね、と友達と話しました。

「ノルウェイの森」は発売されてすぐに読みました。だめでした。それ以降、村上作品は読んでいません。

いつか、空から降ってくる「恋」という隕石を捕まえることができたら、私の恋愛小説の読み方も変わってくる…と期待いたしましょう。

「恋愛」ではありませんでした。「不倫」でした。
親の因果が子に報い と教えられてきました。自分の行いの結果を自分で受け取るのではなく、罪のない孫子が罰を受けるということは、なんと恐ろしいことだと思います。ですから、人の道に外れる それも自らを律することができずに自ら外れていく…それを「純愛」だとは思えないのです。
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こんにちは (ふる)
2013-06-15 14:56:00
>パールさん、

健全な議論(?)にお付き合い頂きありがとうございます。何でも「だよね~」で済ませる共感ばかりではつまらないですものね。

年齢が熟すにつれて、本の好みが変わるということはかなり高い確率で起こることだと思います。私も経験済みです。(好きな本、嫌いな本、本を読んで抱いた感想、これらが20年前と今とで全く変化がないとすれば、その人はもはや生きているとは言えないでしょう。生きていれば必ず人は変わるし変わらなければならないものではないでしょうか)

しかし男性作家に対するイメージは結構当たっていると思います。特に男性作家による男性読者のための作品は、一方的なエンターテイメントとなっていることも多々あります。(ひっくり返せば、女性による女性のための○○も同様に偏狭なものでありましょう。)しかし、女性的な男性も多い昨今、男の書いた恋愛小説だから、とは言い難くなっているのではないでしょうか。

また、今現在も「世界を股にかけた」男性に強く魅力を感じるなら別ですが、そうでない男性に興味がおありであれば、心の奥襞を描くようなチマチマした男性による作品をいまは楽しめる可能性は高いです。

>源氏物語を男性が書いていたら、きっとつまらない気がします。

おっしゃる通りだと思いつつ、読了しておりません。橋本治作のを最近買ったのですが・・・

>ところで、男性漫画で、すてきな恋愛物語はあるのでしょうか?

あまり漫画には詳しくないです。古いですが、「男大空」は財閥の闘い+強烈な恋の物語です。

>親の因果が子に報い と教えられてきました。自分の行いの結果を自分で受け取るのではなく、罪のない孫子が罰を受けるということは、なんと恐ろしいことだと思います。

子供がいない場合には自分の行為の悪影響が向かう先がないから悪い事をしても構わない、ということにならないのかなというツッコミは可能ですね。(自分の直接の子供以外の血縁の者すべてに影響は及ぶと拡大解釈すれば、全世界の人と何かの血縁があるじゃないとツッコまれてしまいます。)あるいは、

・自分の子供が自分にとって憎い存在になった場合、悪用して、自分が悪い事をすれば、それが憎い子供へ悪因悪果していくから、わざと悪い事をしようと考える根拠となってしまう、かも知れません。
・あるいは、悪者の子供が幸せに暮らしていることが判明したりすると、自分の悪行が子供に影響を与えないということを「納得」してしまうかも知れません。すると、もう自分の悪行を止める理由はなくなっていまうのでしょうか?
・あるいは、「罪のない孫子」とのことですが、キリスト教の教えでは我々には原罪があるそうですが・・・

などと色々考えるヒントにさせて頂きました。考えたこともない事を考えたり思いついたりするのは非常に面白い事です。自分の行いが子に報いるのか、原罪があるのかどうか科学的に証明することは今の所できないですから、自分の考えを他人に合理的に納得させることは極めて困難です。どれも信じたい人が好きなものを信じるということなのではないでしょうか。善行をするための教育的メタファーとして、「親の因果が子に」は勿論理解できます。

一般的に不倫が全て純愛と言うことは無理ですが、個別に自分の不倫は純愛であるという主張をすることは可能ではあるのでしょう。純という言葉の定義は人によるので、「私のホモセクシャルな性癖は純なものだ」とか、「彼のロリータコンプレックスは極めて純なんだよ」などいくらでも言えるでしょう。

自分は「してはいけないと思うからしていない」、ということを、他人は「しているからいけない」と強く主張するのは、他の人ばっかりズルいが透けて見えることもあり、気をつけたいと思っています。

しかし、輪廻、因果応報の思想は人の持つ倫理として悪くないよなーと最近思います。

以上、一部反論したような形になっていますが、個人的な攻撃をする意図は全くありません。その辺りご容赦頂けると幸いです。
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