フランス文学の研究という本職より、本読みとして知られる方が多い、鹿島茂の仮説は:
「次世代は、本を精力的に読む一部知識層が、本を読まない多数のネット層を支配する」
支配するかどうかはよく分からない。しかし、私の仮説は:
次世代に行く前に今現在、本を読まない人はだいたいにおいてダメで、本を読む人はだいたいにおいて救われる。
私の知り合いでその人が本を読んでいるか分かるような関係にお互いにある場合、ほぼ93%の確率で、本を読んでいない人はバカ・ややバカであり、読んでいる人はまとも・ややまともである。バカの定義はこの際不要だろう。問題はまともの定義である。そうですな。そこそこに広く知識があり、相手の気持ちをそこそこに汲み取ってあげることができて、そこそこに知識欲がある、ってとこでしょうか。
本を読むとなぜまともで、読まないとバカなのか実証するのは難しい。しかし、現に読まない人=ほぼバカ、読む人=ほぼまとも ということが一応の証明になる(と思う)
が、
「しかしどうして俺たちのこと分からないんだろーねー」「そうだそうだ」「やっぱさーオタクが世界を救うんだよねー」「そうだそうだ」「アニメ見ない奴、ゲームやらない奴はバカだよねー」「そうだそうだ」
なんて会話が秋葉原のメイドカフェで繰り広げられているかも知れず、その場合、彼らと我々本読み人たちの違いを明白にすることもまたとても難しい。
バカな男と別れる決心がつきました。本を読まない男だから何度話しても埒があかないのですね。
目からうろこです。
ありがとうございました。
本を読まない→埒があかない男
は正しいかも知れませんしそうでないかも知れません。
私には分かりません。
しかし、1:本を読まない 2:話しても埒があかない
というnanaさんが気に入らない点が二つあるという
ことは言えるのでしょう。
誰かとつきあいはじめることは比較的容易ですが
別れるのはそれよりずっと難しいようです。