日本と中国が全面戦争に突入するきっかけとなった1937年7月の盧溝橋事件。間もなく事件発生後80年を迎えるに当たり朝日新聞が25日の紙面で特集記事を掲載した。日本軍が中国東北部に兵を進めて満州国を建国してから日中戦争、太平洋戦争そして無条件降伏の敗戦に至るまでの歴史をなぞる形で1ページを割いている。その冒頭が北京郊外の盧溝橋での日中両軍の武力衝突であった。私は日本語教師として北京滞在中に主任教師のご家族との旅行で盧溝橋を訪れたことがあり、いつだったかそのことをブログに取り上げたことがある。
盧溝橋はマルコ・ポーロがその著書「東方見聞録」の中で世界中どこを探してもない美しい橋と評し、そのことから西洋では「マルコ・ポーロの橋」と呼んでいることを知った。石造りのアーチ橋で、市街を守る城郭には銃撃の弾痕が生々しく残っており、「抗日戦争記念館」があって私も中に入って歴史資料等の展示物を見学した。周りは中国人ばかりだったが幸い何のトラブルも起きなかった。
翌26日(今日)の朝日新聞の一面トップには韓国の朴槿恵前政権が北朝鮮の金正恩委員長の失脚とか暗殺を企てていた、との記事が載った。物騒な計画だがあり得ないことではない。韓国では保守と革新の政権が変わるたびに対北朝鮮政策を転換させて来たと、その簡単な経緯も載せているが、私の記憶にまだ新しいのが金大中韓国大統領と金正日北朝鮮総書記との首脳会談によって雪解けムードが一気に高まった時のこと。00年の会談後間もなくに韓国に出張したことがあり、南北国境線の高台からイムジン川を隔てた対岸の北朝鮮を監視する展望台を訪れた。展望台は望遠鏡で監視するだけでなく、北朝鮮に向けて教宣放送を流しているのだが、我々が訪ねた時は南北の融和を歓迎するように資料館のような建物の中は北朝鮮の事物の展示会場のようになっていた。その時私も初めて庶民の日用品などを見て如何に北朝鮮の生活が遅れているかを実感したものである。その後あの展望台の資料館はどうなっているのであろうか。
14歳の中学生棋士藤井四段の快進撃はどこまで続くのだろうか。昨日は単独史上最多の29連勝を記録し、号外の新聞まで出たとか。朝日は今日の朝刊一面トップの扱いである。今や国民の一大関心事になっており、対局のある日の前後は彼が連勝を続けるか大騒ぎしている。私も拍手喝采で見守っているが、どのタイミングでブログに取り上げようか迷っている間に記録の方はどんどん伸びて行くのである。もう「天才」とか「神童」なんていう言葉が月並みにしか聞こえないようなヒーローの出現である。
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