9月1日、中国の新学年が始まった。ボランティアの日本語教師である私が勤めるのは実験学校の日本留学班。実験学校は島根県の江の川高校と姉妹校提携を結び、学生と教師の交換・交流をしていたが、前年から提携を解消していた。日本留学班は残したが、生徒の募集や留学先の高校探しなどは主任教師を勤めていたリュウ先生が学校から委託を受けていた。中国と日本の学年度の違いから、中学を卒業した生徒を9月から翌年3月の日本の高校受験までの約半年間、基礎日本語を教えるクラスであった。私はビザの滞在期間の前半3カ月の任期でお引き受けした。
クラスは10名程度の家族的な定員であったが、その年集まったのは3名の男子であった。
その3名が次々に集まってきた。リー.H君はお金持ちの子で一人っ子。日本行きの希望が強く、親の反対に抗して一旦進学した高校を辞めての応募であった。性格もよく3人の中でのお兄さん格である。ナガサキ.K 君はお父さんが東京で特殊車の輸出販売の事業をしており、そのせいもあって日本名を名乗っていた。少しボンボンでお姉さんが一人いる。3番目のジョ.W君はサッカー少年。どういうレベルか知らないけれど国家3級の認定を受けているとか。母親は青島大学の教師というけれど、全く躾ができておらず、授業中は厄介者だった。
教師はリュウ先生と私、まずは個人授業みたいな5人のクラスである。(後にはツォン.R君という30台の男性助手が加わることになる)
みんなが揃ったところで教室に入り、全員の自己紹介をした。私は日本出発前に中国人に手伝ってもらって作っておいた挨拶文を読み上げ喜ばれた。
日本留学班の教室は教学楼(教室棟)の3階、20人くらいが入れる部屋で、隣に専用の教師事務室がある。教室内は一人座りの机や教壇、黒板とチョークなど日本でもおなじみの光景である。いよいよ教師として教壇に立つのだ。(つづく)
実験学校の教学楼(教室棟) 後に加わった助手(左端)を含めて6人の小なさ世帯