ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

怒涛の炎天下ドジ宴会

2015年07月21日 21時25分25秒 | 最近の出来事

海の日に海を見ながら
怒涛の炎天下でパーティーをやった。

そこに至る経過はこうだ。

以前、ジダンと居酒屋で
ドジ旅の打ち合わせをしている時に、
仁Oさん夫妻と偶然遭遇した。

地元で飲んでるとこういう事がたまにある。

その時に日本酒の話で盛り上がり、
仁Oさんから今度おススメの酒を
ジダンに飲ませてあげるという話になって、
後日「これ、ジダンに渡しといて」と
早速そのお酒がdoironに届いた。



全く情に厚いお人だ。

それをジダンに連絡したところ、
じゃあどっかのアウトドアで
一緒に飲もうということになり、
今回のパーティー開催となったものだ。

名付けて

「真夏のホームレス体験わっはっは宴会」

場所は泉O津港近くの海の見える公園で、
一般に梅雨明け10日は
晴れて酷暑となるといわれているところ、
おりしもちょうど今年の梅雨が明けた初日の開催となった。

午前中から準備を始めた。

先日、高校野球の和歌山県予選を
観戦にいくというジダンの車に便乗し、
山へ行ってきたのだが、
その時の交通費お礼代わりに
彼の好物である「ポテトサラダ」を作っていくことにした。

炎天下で冷たいポテサラをつつきながら、
日本酒をのむのもオツなもんである。

ではその製作の様子を。

用意したのは中くらいのジャガイモ4ヶ、



玉ねぎ1ヶ、ハム5枚、きゅうり1本。

まずはポテトをゆでる。
型崩れは全く気にしなくていいので、
皮をむいて大きさを揃えて切り、
塩を多めに入れて
圧力なべで煮る。



そしてゆで上がるまでの間に、
玉ねぎ、きゅうり、ハムを適当に切っておいた。





15分くらいですっかりゆで上がったジャガイモを
別の容器に移すと、
すでに形はボロボロ崩れ始めていた。

出来上がりに芋のゴロゴロ感を残したかったので、
ほとんどつぶさずにそのまま冷めるのを待つこと1時間。

玉ねぎ、きゅうりの水分をよく切り、
マヨネーズ、粒胡椒、友達おススメの酢を少々入れて、
最後の混ぜ混ぜ作業をし、



完成したのがこれ。



doironが用意するつまみは、
これと宴会の名前にふさわしく、
消費期限の迫った缶詰を
つつくことにした。

オジチャリの前かごに
ポテサラの入ったソフトクーラーバッグを入れ、
背中にかき集めた缶詰と
日本酒の入ったリュックを背負って
殺人的にきつい日差しと
うなぎ上りに昇って行く気温の中、
昼過ぎに出発した。

途中のコンビニで氷を仕入れ、
会場が近づいてくると
屋根が木を渡しただけの影の無いパーゴラに
シートが張られているのが見えてきた。

おお、あんな準備をしてくれてるんやと思ったら・・・

別のグループでした。
その先のパーゴラの下にうずくまる物体が・・・
それがジダンだった。

本日の参加者はドジの二人と
I原さん、Oちゃん。



お二人にとってこの鬼のような暑さと日差しなどは
「へ」でもないだろう。
実際お二人は午前中に
山を走り回っていたそうだ。

そして首Dさんも、
買ったばかりの高級クロスバイクにまたがって
参加をしてくれた。



あと声をかけたdoironのジム友達も
来る予定だったけど来られず、
結局宴会は5人で始まった。

名前にふさわしく質素に
こんな感じのつまみでやる予定だったけど、



さすがに女性が加わると、
お肉だ、ソーメンだ、野菜サラダだと、
一気にセレブパーティーへとパワーアップだ。



途中、このパーティー開催のきっかけとなった
日本酒を差し入れてくれた仁Oさんも
旅行から帰ってすぐ駆け付けてくれて、



賑やかにグダグダと過ぎて行ったのであった。

結局、炎天下で3時間以上も宴会は続き、
アルコール度数の高かった日本酒のおかげで
足下フラフラになって解散した一行なのであった。



おかげで翌日はハゲシク二日酔い。

取材の予定もなくオフにしといてよかったなあ
と思いつつ、これを書いてるdoironなのである。

終り。


尼崎慕情 ノスタルジー歩行

2015年07月20日 21時30分29秒 | ウォーキング

街中を歩くときの地図の見方と
山でのそれとはかなり異なる。

山は地形図であり高低差も読めるが、
街にはそれがない。
しかも目印となる建物や
会社の名前が変わっていたりすると
ハゲシク混乱するわけだ。

いつも「ナビをセットして・・」
と書いているが実際にナビに導かれて
歩いているのではない。

ただ、後で歩いた道をなぞるためと
距離を測るためで、
正確にいうと
「GPSを用いて踏跡を記録するためのアプリを立ち上げて」
というのが正解かもしれない。



でも面倒なので、これからも
「ナビをせっとして」と書くことにしておくから
そこんとこよろしく。

さてようやく7キロ地点くらいで、
新幹線の高架と名神高速の高架を
混同していたことが判明し、
ここにきてやっと手元の地図と
頭の地図がシンクロした。

自分の立ち位置と向いている方向さえわかれば
こっちのものだ。

だてに2年もほっついてないからね。

今度は方向を間違えないぞと、
信念を持って一直線に

「若王寺遺跡」に向かった。

「若王寺」これは「なこうじ」と読む。
実際にその名前のお寺があったそうだが、
今はもうない。
寺はなくなったが地名は残った
というわけで、戦で焼失した
「大雄寺」=「浜寺」が語源となっている
「浜寺」とよく似た生い立ちを持っている。

その「若王寺」の遺跡が
関電の敷地内のようなところに残されている。



ここから出土したものを総合的に考えると、
製鉄に携わる人たちが
多く住んでいた地だったそうだ。

今も数ある小さな町工場のルーツのようなものじゃね。

川の生きものたちや
市の花であるキョウチクトウをあしらった
マンふたを眺めながら



住宅街を進んでいくと、



道の右側に
「伊居太神社」が見えてきた。

ここ。



ここでは「いこた」神社と読むが、
論社、いわゆる兄弟社である
池田市の神社は同じ字を書いて
「いけだ」神社というそうだ。

名前のいわれはちょっと調べたところでは
よくわからなかった。

その先に緑の茂る「近松公園」があった。



この公園の西側には廣済寺があり、



そこに近松門左衛門の墓があるため
親しみを込めてこんな名前になったのだろう。

近松と言えば、
二年前に行った露天神に像のある
「お初徳兵衛」を題材にした
「曽根崎心中」を書いた人ですな。



あ、でもそのあと熊野街道を歩いた時に
たしか高津宮の近くにも彼の墓があったはず。

その時に調べたところでは
両墓所とも近松の過去帳があり、
墓石も同時に建てられたとみられることから、
国の文化庁は両所を墓所として
史跡に指定しているんだそうだ。

大阪の墓がこれ。



そして尼崎の墓がこれ。



狭くて写真を撮りづらかった大阪の墓所に比べ、
こちらの墓所は広々としていたよ。

こちら尼崎の地元では、
この近松墓所にさらに親しみを込めて
こんなマンふたを作っていたり、



「近松」の文字をつけている店などもあったとさ。

さあ、これで当初の目的地訪問は全て終わった。

こんな近松ロードと名付けられた商店街?を通り、



向かったのがJR塚口駅。



ここで今回の歩行は終了である。
暑い中10キロ強を歩いた。
ここからJR宝塚線に乗り、
車をとめてある尼崎までひと駅である。

久しぶりに訪れた尼崎は、
子供の頃のかすかな記憶とは
全く様変わりしていた。

競艇が大好きだった大叔父さんと
あの頃によく行った銭湯や、
かき氷屋さんなんかも
きっともうなくなっているだろう。

そんな親戚の思い出の場所は
茨木や伊丹にもあって、
そのうちにまた訪ねて行ってみようと思った
今回のノスタルジー歩行であった。

しみじみと終わり。


尼崎慕情 花咲く河原

2015年07月19日 21時28分17秒 | ウォーキング

神崎川は新幹線の高架下辺りで
猪名川と合流する。



で、ここからはその猪名川沿いを歩くことになる。



これがその猪名川。



伊丹空港が近いので
飛行機が低空を飛んでいる。

この川になってから河原には
雑草部分が増えた。

アレチハナガサや



ヒメジョオンが生い茂り、



人が歩けるほどの幅だけが
一本の道になっているのだ。



ま、いわば正統派河原の散歩道って感じだ。

セイバンモロコシ、



ヘラオオバコ



なども河原の雑草の王道だ。

しばらく歩くと、
ここで道は猪名川に注ぐ
藻川へと入って行く。

川の中にある小島の向こうから
流れてくるのが猪名川で手前が藻川。



近づいてみると小島では
例によってカワウがなにか
よからぬ相談をしている。



あ、これはクラゲではないか。



多分マミズクラゲだと思われるが、
通常は止水域にいることの多いクラゲだ。

こんな流れのあるところにはめったに現れない。
この川がいかにゆったりと
滔々と流れているかがよくわかる。

そしてなおも道は県道338号をくぐって続いていく。



ふわふわゆったりとクラゲのように歩いていこう。

おお~、これはシロツメクサの小道じゃないか。



doiron王子にふさわしい小道じゃん。

次に見えてくるのが、名神高速道路。



あっ、防音壁の工事をしている。



ごくろうさまなこってす。

気楽にほっついててすみません
てなかんじですな。
でも川の上に防音壁はいるんだろうか。

ネジバナや



ツルマンネングサ、



咲き残ったクサフジを



撮影しながら歩いていると
いよいよ河川敷ほっつきの最終地である
東園田橋が見えてきた。



大叔父さんが住んでいた街が近いので、
ここから堤防に上がり、
街の中に入って行こう。

川を離れるとすぐに「墓園」があった。



おっ、動物の慰霊碑もあるようだ。

我が家のグーちゃんももうすぐ16歳。
病気のため獣医に余命半年と言われてからもう2年経つ。
いまは介護の日々なのだが、
そろそろ「その時」のことは
考えておかねばならないだろう。

いよいよ大叔父さんのいた地域に入ってきた。



この公園でももしかしたら
チビdoironは遊んだかもしれない。

入って行ったらちょうど学齢前の子どもと
おじいちゃんが遊んでいたなあ。



記憶の中には、近所に小さな工場がたくさんあって、
油の匂いが漂っていたのもかすかに覚えている。



工場の前に転がっている
金属のバリや曲がったネジでも
遊んでいたのも覚えている。

しかし、肝心の家はというと、
つぶれた工場の後に
新しい住宅地なんかができていて
大きく様変わりしていたので
さっぱりわからなくなっていた。

そりゃあ、半世紀も前のことだから無理もないだろう。

あ、ここは昨年和泉にもできた
コストコがある。



こちらの方が先輩格なのだが、
こんなとこにあったんやあて感じだった。

で、このお店に気をとられていると、
気がつかないうちに方角を見失ってしまっていた。
図の6キロ地点の先のところで
右に曲がるところを左に曲がってしまっていたのだ。



そして新幹線の高架が見えてきたところで
Uターンすればよかったのだが、
何を思ったか右に曲がってしまっている。
暑さでボーっとしてたのかもしれない

もうこうなるとどこをどう歩いているのか
さっぱりわからなくなってしまったので、
仕方なくクリーニング屋さんの前を通りかかった時、
親切そうな店番の女性に
道を聞いてみることにした。

「ここはどこ?私は誰?」

なんて言いませんよ。
即パトカーのおじさんがお迎えが来ますからね。



良い子の皆さんは決して真に受けないでね。

「すみません。塚口の駅はどっち方面でしょうか?」
「え?JRなら尼崎の方が近いですよ」
「い、いやそうじゃなく、塚口に行きたいんですけど」
と再度質問をしますと、
「そりゃ、こちらの方角ですけど、尼崎の方がわかりやすく・・・」
とちょっと不機嫌そうです。

方角がわかったので
「ありがとうございます」とだけ言い置いて
とっととその場を去りました。

そそくさと続く。


尼崎慕情 神崎川の思い出

2015年07月18日 21時24分00秒 | ウォーキング

さあ、では尼崎領へと入って行こう。

神崎川の堤防に上がるところには、
「神崎川一心地蔵尊」がある。



なんでも昔「神崎一心の戦」というのがあったそうだ。

楠木正成が一心を込めた
神出鬼没の戦いをしたことから
その名前がついているそうだけど、
いまは身代わり地蔵尊として
地域の信仰を集めている。

え~っと、ほんじゃほっつきすぎだと
ミセスに代わりに叱られてもらおう。

これで安心してほっつけるかなあ。

ば、ばちあたりですか?
ほんじゃ真面目に

「ムニャムニャムニャ」。

堤防に上がっていくと、



かなり交通量が多い。



注意して信号を渡り、
いよいよ神崎川沿いを
しばらく歩くことになる。

この神崎川は実はずっと昔に
大阪市と摂津市の境界のところで
大規模な治水工事が行われて以来、
淀川とつながっているのだ。

いやはやまったく琵琶湖の恩恵は
関西にあまねく浸透しておりますな。

そしてまたこの川は、
ルネの仲間たちと楽しく参戦した
「吹田中之島5時間耐久マラソン」が
開催されていた川である。

2000年は
ちょうど、高橋尚子がシドニーで金メダルを採った日だった。

なのでもう15年前になる。
あの時は帰って結果を楽しみにしよう
と思っていたら、
大会関係者がコースを走りながら
「高橋金メダル」を連呼していたんだよなあ。

その日レースで60kmを走って、
賞品にもらったシューズは
履くという役割を果たしたものの
今も納戸の下駄箱で眠っている。

これがその神崎川。



いやあ、淀川の支流として
最近はとみに親しみを感じるとともに、
なんだかとても懐かしい気がした。

この川を上流へ向かって歩いていくと、
堤防上の道に「神崎金毘羅さんの石灯籠」が立っていた。



昔の船着場にあったものを
ここに移設した灯籠だそうだ。



金毘羅さんと言えば海上の守護神。

読みかけて止まっている
「菜の花の沖」にもこのあたりの海上交通が
とても盛んだったことが書かれてあるように、
たくさんの船乗りの信仰を集めた
金毘羅権現のこの灯籠は、
灯台の役目もしたそうだ。



今は役目を終えて、
のんびり余生を送っている姿は
なんとなく自分と重なるものがある。

なおも神崎川沿いを進み、
新幹線の高架の手前で



ちょっと寄り道をする。

そこにあったのが「神崎遊女塚」。



神崎川が淀川とつながったことにより、
この神崎の地は京都からの水運の
玄関口にもなった。



それゆえ人々が集まり、
享楽の文化も栄えて行った。
まったく人間て奴は
寄れば享楽に走ってしまう奴なのだ。

そして享楽はまた人を呼び
いっそう栄えて行く。

ここ神崎の地も御多分に漏れず、
一時は大変賑わったそうだ。

そんな神崎の地に、
ある時法然上人がやってきた。

人は「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、
みな平等に往生できるという
専修念仏の教えを説き、
後に浄土宗の開祖となった上人である。

その上人の法話を聞いた遊女5人が
自分の身の罪業を恥じ、
神崎川に身を投げたという話が
この遊女塚の由来になっている。

この塚は民間会社の敷地内で
橋に使われていたものが
明治2年に見つかり
ここに据えなおされたもので、
裏には遊女5人の名前も刻まれている。

それは、果たして後世の人が
浄土宗を広めるために
作った逸話であったのか、
それとも遊女5人が
本当にそんなことで自ら命を絶ったのか。

今となっては、塚に込められた人の気持ちは
浅薄凡庸のdoironには
推し量ることもできない。
ただこうして各地を訪ね歩き、
見聞きすることで少しでも
楽しく暮らせたらと、
生き残った身としては考えてしまうのだ。

では再び川に戻って、
しばらくは川の生き物や



河原の植物でも眺めながら歩いてみよう。

がさごそと続く。


尼崎慕情 大叔父さんの思い出

2015年07月17日 21時02分07秒 | ウォーキング

子供の頃、尼崎に親戚がいたので
よく連れて行ってもらった。

その大叔父さんはdoironにとてもよくしてくれて、
バイクの後ろに乗せて
あっちこっちに連れて行ってくれたのを
かすかに憶えている。

その大叔父さんも
90歳で町内の卓球大会で優勝したり
と元気だったのだが、
寄る年波に勝てず数年前
100歳近くで亡くなられた。

今回はそんな遠い記憶のかなたにある
尼崎を一度ほっついてみようと思い、
夏の日差しの中を出かけて行った。

コースはこの通り。



かすかな思い出の地には、
doironと少なからず因縁のある
神崎川が流れ、
かつて歩いた熊野街道近くにあった
近松門左衛門の
もう一つの墓があるということなので、
それらを巡るコースを歩くとしたのだ。

尼崎へはdoironちからだと
阪神高速湾岸線でわずかな時間で到着するので、
電車ではなく車でビューンと飛んで行った。
湾岸道路を走るのはずっと道が高架。
飛んでるイメージがするもんね。

目指したのは、JR尼崎駅。



あ、そうそう、なんで「尼崎」なのかというのを
まず書いておかねばならない。

昔々一人の尼さんがいたのだ。
その人が仏に仕える身でありながら
ある若者に恋をしてしまった。
身を焦がすような恋心に耐える日々を
過ごしていたところ、
日々のお勤めも上の空になり、
これは「尼」をとるか「女」を取るか
はっきり決断をしなくてはならないと考えた。

しかし、故あって尼の身となった自分には
どちらも選べない。
悩んだ挙句、その尼さんが、
大阪湾に面した岬で身を投げたため
「尼崎」と呼ばれている・・・

というのは真っ赤な手の込んだウソで
「尼」は「海人」すなわち漁師に由来する言葉で、
まあ漁を生業とする人たちが多かったところから
「尼崎」となったというのが本当のようだ。

無駄な言葉を並べてしまってすまぬすまぬ。

尼崎市は人口40万人を超える中核市だけあって、
その玄関口である駅も
少なくとも我が泉O津よりは立派であった。

駅前コインPで最大駐車料金設定のあるところが
あちこち満車だったけど、
なんとか一台の空きのあるコインPを見つけて
駐車することができた。

さあ、ナビをセットして歩きはじめよう。

まずはJR神戸線に沿った道を
大阪方面に向かって歩き始めた。



道の両側には大企業の敷地が続く。
こちらは、ヤン坊とマー坊が
サッカーをするところ。



ユニホームを着てたらどっちがヤン坊で
どちらがマー坊なのかわかりませんよねえ。
監督も困るでしょう。



線路を挟んで向こう側には
別の耕耘機会社もある。

うかつにニューモデルを屋外には出せないやろね。

こ、これはカラスの形をした偵察機かもしれない。



歩道をどんどん進んで行ったら、
やがて園田橋線に出るのでそれを左折し、



JRのガード下をくぐる。



おお~、近ごろ標高表示はよく見るが、
ここは標高どころか

「水深15cm」だと。



さすがに海が近いだけのことはある。

こんな風呂屋を横目に進んでいくと、



やがて大きな交差点に出る。



コースはこれを右折だ。



前方が高架になって登って行ってるのは、
神崎川に架かる「神崎橋」へとつながっているからだ。

その前に立ち寄りたいところがあった。

それが「西川八幡神社」。

ここには「尼崎藩の領界碑」があると
資料に書かれてあった。
「石」ならば見に行かなくてはなるまいて。

神崎橋の手前を左折し、
住宅街に入って行くとその神社があった。



まだ喪中は続いているため、
鳥居をくぐらずに中に入って行くと



その石が立っていた。



「これより東が尼崎領」で
別の面には「これより西侘領」とある。
この「侘」というのは「他」という字の
異体字なんだそうだ。

これは初めて知った。

ふむふむと続く。


地味にトレってます

2015年07月16日 21時38分41秒 | スポーツ全般

最近のジムでの運動の流れは、
以下おおむねこんな感じだ。

ジムに入るとまず軽く脚の筋肉を伸ばす。
故障がちな腰を伸ばしたら、
次は脚の裏側を入念にストレッチ。
といっても無理はしないよ。
これくらいの歳になると
「エイヤッ」と力を入れたりすると、
「ブチッ」といきかねない。
まして、その日一日デスクワークで
机の前に座りっぱなしだったりした日にゃあなた、
筋肉の柔軟性もなくなり、
茹でたささみのようになってしまっているもんね。

そしてまずはバイクトレだ。

持参した本を読みながら一時間以上バイクを漕ぐ。



読書の進むことこの上ない。

このバイク読書で、
ハードカバーを月に5冊は読めるもんね。

この頃は家で読書していると、
条件反射で汗が出てきたりするんだわ。

このほぼ一時間の読書時間で
消費カロリーは400キロカロリー。

だいたい目指すは700キロ消費で、
最低600キロは完全ノルマだ。

これは日中山歩きや街ほっつきをした日も
できるだけ欠かさずに続けている。

これをしてなきゃ今頃は
doironデラックスになっているだろうて。

30kmほどバイクを漕いだ後、
トレッドミルへと移っていく。

トライアスリートならバイク直後のランは
脚がキュ~っと攣るということを
経験しているだろうけど、
最近はこのバイク→トレッドミルを
ずっと続けているせいか慣れてきたとみえ、
脚が攣ったりすることはまずなくなった。

地味でも地道に継続することは
大事なんだよなあ。

おお~「地味、地道、持続」!
絵の言葉に使えそうじゃん。

そして地味ではなく派手に汗をかいた後は、
筋トレを少々。

毎日するのはカーフレイズ。
目指せ世界記録!
そ、それはカールルイス。
しかも古い。

かかとを上げて爪先立ちをするやつね。

これを一気に百回する。
歳を取ってくると百まで数えるだけでボケ防止だ。
これも始めた頃は、
50回くらいが限度だったのだが、
(あ、数える方じゃなくてね)
徐々にできる回数が増えてきた。

最近は百回終わってから
さらに回数を重ねて
何回まで出来るかチャレンジしている。

最高は150回までいった。

そんな時は恐ろしいほど顔がゆがむもので
鏡に向かってやってはいけません。

そして最後にストレッチ。

右の坐骨がずっと具合悪いので
入念に伸ばす。

これはまだ効果は見られないようだ。

あ、でもしかし悪化するのは防げているのかも。

このストレッチで効果の出てきたのが、

開脚

意識してそのストレッチを始めた頃は、
股関節がキューピー人形より固く、
90度開くのが精いっぱいだった。

こんな感じ。



今から思えばランのスピードを
もっとあげられなかったのは
こんなところにも原因があったのかなもしれない。

まあ、今はスピードを上げる必要なんて全くないんやけど・・・。

とりあえず故障しないようにと
老後のためにもと、
結構そのストレッチを頑張っているのだ。

やりかたは、床板の継ぎ目を目印に
今日はこの継ぎ目から20cmくらいまで伸ばしてみよう
とめいっぱい開脚しその姿勢を20秒キープする
というシンプルなもの。

いっそ床に目印のテープでも
貼らせてほしいななんて思いながら、
そうして取り組むこと6カ月。

ようやくここまで広がるようになった。



たぶんdoiron史上最高の柔らかさだろう。
分度器で測ったら120度はある。
よしよし、この調子で行けば
来年の今頃は360度開脚して、
床にペタンとついているかもしれないぞ。
あ、180度か。

まあ、それはないだろうが、
継続してやってみたらどうなるか楽しみではある。

変則仕事であたふたしている中で、
このジム通いは貴重なルーチンワークとして
doironの生活にしっかり根を張っているのだ。


二上山に参上 3

2015年07月15日 21時13分28秒 | ウォーキング

今回のコース取りだと
下山コースの一部が、
ダイヤモンドトレール
(通称「ダイトレ」)と重なることになる。

合流点にはこんな石標も埋められていたし、



道標もしっかりしていた。



さすがに人気のトレイルコースだけのことはある。

おお~トカゲさんも走っているぞ。



小説「風の王国」で
主人公もこのあたりを飛ぶように歩いている。
多分作者の五木寛之もこの山に来て、
同様のコースを歩いただろう。
もしかしたらその時に
ダイトレを走るトレイルランナーを見て、
この小説を思いついたのかもしれない。

ちなみにこの小説の中で、
特殊な能力を持った一族が、
ある日150km(距離はうろ覚え)を
24時間で歩くというシーンがあった。

もう人間わざではないような表現だったが、
よく考えればdoironのまわりには
そんな人は普通にいる。

自分もそうだったしね。

思えばどんなけ特殊な世界にいたんや
という感じですな。

その小説の中で、
当麻寺に下る途中に「歌碑」があって
そこに書かれた言葉が
意味を持っているというくだりもあった。

今回急きょ当麻寺に下ることになったので
探してみたがわからなかったなあ。

その部分はフィクションなんだろうか。

要所要所で道標を確認しながら、



竹内峠の方ではなく祐泉寺の道を選んで
ホタルブクロの咲く道を下って行く。



やがて、ダイトレとも別れ、



「水場」もある暗い山道を下って行くと、



「祐泉寺」に到着だ。



ここからは、車も通れる広い林道を下って行く。

釣堀を横目に見ながら、



大龍寺を過ぎると、



こんな古墳が現れた。



「鳥谷口古墳」と書かれてあった。
パーティで行動しているので
じっくりは見れなかったのは残念じゃ。

実は、この古墳こそが
本当の大津皇子の墓なのではないか
と言われているのだ。

発掘されて出てきた石棺はとても小さく、
移葬または火葬されたものであることが
推定されるそうだ。

反逆者として葬られた皇子が
人々を見下ろす山の
てっぺんにあるという不自然さを
昔の人も感じて、
ここに移葬したという説は
実際行ってみて、なるほどと
実感するところであった。

すぐ下に、「大池」がある。



郡山郡奉行らが開いたといわれる
由緒あるため池だそうだ。

そして、到着したのが、
前回山里を歩いて当麻寺へ
墓参りに来たときに通った

「傘堂」。



ここを右におりれば当麻寺。
左に行けば「道の駅」。

ここでリーダーが再度皆さんに
どちらに行くか問うたところ、
やはりほとんどが「当麻寺」へ行きたい
とのことであった。

何度もいうが、この日はちょうど
義父さんの命日で、
その義父さんの墓は当麻寺にある。

もうこれは義父さんに導かれている
としか思えない。

そうして、一行は右の当麻寺への道を選び、
道をよく知っているdoironが
道案内をすることになった。



途中振り返ると、
水の入った田んぼに写る
二上山の景色がきれいだったなあ。



見覚えのある道標を眺めながら



やがて当麻寺に到着。



ここで皆さんは少し休憩と参拝をするというので、
doironは走って義父さんの墓参りに。

ロウソクも線香も花も何もないけど、
とりあえず掌を合わせ
蜘蛛の巣をはらうだけの
慌ただしい墓参りを済ませた。

再び合流し、
駅までてくてく歩いているときに見かけたお店で、



義父さんの仏壇のお供えを購入。

これ。



帰ってから義母さんちに持っていき
お供えした後、
今日の不思議な墓の導きの話をしながら、
三人でお茶受けにいただいた。

ヨモギ餅にアンコが乗った
とても美味しいお餅であった。



でもこんな甘すぎるお餅は
生きていたら義父さんは
絶対食べなかっただろうな。

ちょっと選択ミスをしたかなあ
と思いつつ、二上山に参上終わり。


二上山に参上 2

2015年07月14日 21時22分06秒 | ウォーキング

二上山は、その名前が示すように
ちょっといびつなフタコブラクダのような形をしている。



その北側のコブを「雄岳」、
そして南側のコブを「雌岳」という。

今回の登山は北側から入ったので、
まず雄岳に到着した。

ここがその山頂。



ネットを見ていたら、
この山頂の標識を自作して、



自分で持ってあがり設置した



「ueda」さんという人の記述に出会った。

ご苦労様です。

不思議なことにこの雄岳には三角点がなく、
隣の40mほど低い雌岳に三角点がある。
神社の私有地だからなんだろうか。

そう、ここには葛木坐二上(かつらぎにいますふたかみ)神社がある。



神社は葛城古道沿いにあった
数々の葛城の神々を祀る神社と
出自は同じとこらへんにあるんでしょうねえ。

この神社の横で、昔この山でよく見た
オカトラノオが咲いているのをまた見かけた。



いやあ、久しぶりって感じやったなあ。

そしてその奥には大津皇子の墓もある。
大津皇子は反逆者として
自決させられた悲劇の皇子で、
さすがに大和を見下ろすのではなく
大和に背を向けるように葬られているそうだ。

でもなぜそれなら大和から見える
山のてっぺんなんかに墓を作ったんやろ
と思ってたら、あとでその答えを知ることになるのだ。

そうそう神社の横には、
葛城二十八経塚のひとつ

第二十六経塚があった。



役小角が法華経を埋納したといわれるのが経塚で、
第一番は何度も行こうとして
“陰謀”に阻まれた友ヶ島にある。

そこから、先日登った飯盛山の麓(第四番経塚)、



犬鳴山(同八番)、和泉葛城(同九番、十番)、
岩湧山(同十五番)、金剛山(同二十一番)
と北上してきて、
最後はなんと大和川の流れの中の
亀ヶ瀬といわれる二十八番まで続いているそうだ。

これを訪ね歩くのもまた計画してみようかな。

役小角のように最後には
空中を飛べるようになるかもな。

そんな雄岳を後にして次は雌岳だ。

鞍部のトイレで用を済ませてから、



雌岳に向かった。

こんなアジサイのみちも



風情があるではあ~りませんか。

で、ここが雌岳山頂。



三等三角点もある。



ここで見つけたのが、
「太陽の道」の案内看板。



淡路から伊勢まで続く同一緯度線上に
太陽信仰と山岳信仰の
古代祭祀遺跡が並んでいるそうだ。

そんな太陽の道を象徴するものとして
作られてあったのが

この「日時計」。



たまたまお昼だったので、
日時計の影をたどってみたら、
さすがにピッタシの時間を指していました。

そんなわけで、この雌岳山頂の広場で
お昼ごはんとなった。

今日は、メンバーの一人が
doironのお弁当を作ってきてくれました。

これ。



うひゃー、こんな豪華なお弁当なのに
ビールの無いのが無念じゃ。

弁当を食べながら、
まわりを眺めていると、
蝶々がたくさん飛んでいるのが目に入った。

中にはアゲハのような個体もいる。
むむ、ギフチョウかと思ったが
それは単なるアゲハのようだった。

ここまでの道を歩きながら
ずっと見ていたが、
ギフチョウの食草である
カンアオイ属の植物はひと株も見なかったもんなあ。

復活のためにはまずそこのところだろうて。

この日の山頂の温度は22℃。



道理で汗もほとんどかかないし、
絶好の登山日和ではあった。

さて、腹ごしらえも済んだところで下山開始だ。

その時点でここからどこにおりるか
詳細はまだ決まっていなかった。

リーダーが参加の皆さんにどうしますか?
と尋ねたところほとんどが
「当麻寺」の方におりたいとのことであった。

折しも義父さんの亡くなったのが一年前の今日だった。

つまりこの日は命日なのである。

まるで運命に導かれるように、
義父さんの眠る当麻寺へ
降りて行くことになった気がした。
不思議なこともあるもんじゃなと思いつつ、続く。


二上山に参上 1

2015年07月13日 21時40分14秒 | ウォーキング

南河内で30数年間仕事をしていたので、
いつも東にデンと座っていた
二上山にはなじみが深い。



結婚した年には、
当時住んでいたマンションの窓から見えていたこの山へ、
原チャリに乗って何度も何度も出かけたものだった。

ウスタビガの緑のマユが、



とんでもなく青いホタルカズラの花々が、



白い穂を風に揺らすオカトラノオの花々が



そんな記憶の中で輝いている。

「三日後に二上山に登る」
という山友からメールをいただき、
ご一緒させていただくことになった。

久しぶり(多分30年ぶりくらい)の二上登山だ。

懐かしかったのと、
つい先日この山を舞台に
風のように歩く人達を描いた
五木寛之の「風の王国」
という本を読み終えたところだったので、
不思議な御縁を感じつつ
即、手を挙げたのだった。

これで今年に入って三上山も登ったから、
合計五上山になる算段だ。

コースは聞いていなかったが
とりあえず、近鉄二上山の駅に集合



ということだったので行ってみると、
なんと10人ほどの団体さんだった。

うちリーダー格の一人が
山のベテランらしく
その人と挨拶を交わし、
軽く打ち合わせをして登り始めた。

その人はダイトレの北入口の方には
よく行かれているが、
畑の集落にある専称寺経由の登り道の方は
不案内ということだ。

そこで登山口までの部分は
doironがリードすることにした。

なにせ専称寺への道は3週間ほど前に
当麻寺に義父さんの墓参りに行く際に
通った道だから、まだまだ記憶に新しいのだ。

集落の狭い道を縫うように歩き、
国道165号の登山口に約10分で到着。





ここからの道はdoironも知らないので、
おおよそのコースを地図を見て確認し、



先頭をつとめた。

これが登山口の名前にもなっている上ノ池。



このあたりはため池が多い。

木漏れ日の涼しい道を
落ち葉を踏みしめる音を聞きながら登って行く。



分岐に来ると後ろから
「そこはまっすぐ」という声が聞こえてきた。

むむ、地図では左折れだけど・・・
と思いつつそのまま直登。



この山は登山道がいくつもあるようだ。



少し前に普段着で、
山を下ってきた人とすれ違ったけど、
あの人達のこの道は歩きにくいだろうな
と思っていたら案の定、
その道は一般ルートから少し離れたところにある
「銀峯(396m)」に到着した。



まあ、後ろはベテランが抑えてくれているので
任せたらいいだろうと
なおも登っていくと、展望台に到着した。



わお~、いい眺めだ。



手前に河内飛鳥と言われる
太子町の街並みと
向こうに夏の花火で有名なPLの塔がそびえていた。

古来、大和の人たちにとって
三輪山は朝日の登る神の山で、
二上山は日の沈む死の山だったそうだ。

そういえば、山の辺の道の
桧原神社にある注連縄のところから、
二上山に陽が沈むといわれていたなあ。



地図でみたら実際この山は
三輪山の真西に当たるし、
doironの棲息するところは
さらにその西の延長線上にある。

doironにすれば神の山ということになる。

この一筋の経路は、
古代信仰の中で「太陽の道」と言われている。



ああ、ということはこの山の山麓にある
義父さんのお墓も、同じ「太陽の道」に
あるんだなあと景色を見ながら考えていた。

さあ、ここから山頂までもう一息だ。

この山を登っていて思うのが、
「山火事防止」の看板が多いこと。



そう、昭和49年にこの山はハゲシク燃え、
当時この山にいたギフチョウが



その山火事で絶滅したといわれている。

そんなことがあったからなおさらなんだろう。

今回この山に来たのも、
季節はちょっと遅いけれど、
もしかしたらギフチョウが復活しているか、
あるいは何か痕跡でもあるかもしれない
という淡い期待もあってのことだった。

さていよいよ山頂に到着というところで、明日に続く。


ぶらチャリ18 今日も一日お疲れSUN

2015年07月12日 21時28分43秒 | 最近の出来事

最近やたらと夕陽がウツクシイ。

先日エイに行くときに撮影した夕陽がこれ。



水の入った田んぼに写った空もウツクシイっしょ。
こんなのを見ると、
つくづく地球って美しい星なんやなあと思う。

で、これを見た翌日の夕方、
地元で一番の夕陽スポット
と言われている公園に
オジチャリ2号で撮影に行ってみた。

その日は雲も適度に出ており、
空気も何となく澄んでいそうな
おあつらえ向きの天気だった。

これは期待できそうだと、
カメラを担いでキコキコと
出かけて行ったdoironなのであった。

今までに見た夕日で、
生涯忘れられないのは
今から40年ほど前に
北アルプスの船窪岳の水場からみた夕陽かなあ。

写真の無いのが残念だ。

記録に残っているのでは、
5年前に沖縄で船の上から見た夕陽が最高だったかな。



ではさて今日はどんな夕陽が
見れるだろうと期待しつつ、
目的の汐見公園に到着した。

すると、もうあのラピュタの庭園にいた
ロボット兵の頭部のようなモニュメントのところには、
カメラを持った数人が待機していたし、



海辺のフェンスのところにも数人が
カメラを構えて陣取っていた。

で、肝心の太陽はというと
まだ高いところでやたら元気に輝いていた。



夕焼けまでまだ少し時間があるようだ。

山の方を見ると、
低い太陽の光がまっすぐ当たって
山ひだもくっきりと見えていたぞ。



お、街灯に灯がともった。



と思ったら・・・月でした。

そ、その月を蜘蛛が襲い



ついに抱きかかえてしまった。



大変です。
地球防衛軍から招集がかかりそうです。



とまあ、そんな写真を遊んで撮りつつ
夕陽を待ったのだった。

う~ん、もう少しやな。



この日は明石海峡大橋もきれいに見えていたな。



雲の下から太陽が顔をのぞかせると、
一気に空気が夕焼け色に染まりはじめ、

やがてタッチダウン。



この頃になると、
あちこちからシャッター音が聞こえてくる。

そして、太陽が最後の光を空に放つと、
一気に青かった空も
見事な夕焼け色に染まって行った。



ああ~来てよかったなあ。

この間はほんのわずかな時間だった。

毎日見ている太陽だけど、
いつもいつもこんなことを
繰り返しているんやなと思うと、
今日もご苦労さんでしたと言いたくなる。

でもよーく考えたら、
太陽はどの一瞬も
世界中のどこかで夕陽になって輝いているんやな。

「それでも地球は回っている」わけだからね。

しかしdoironはここにいる。
そしてここで生きているから
これでいいのだ。





チャリンコにまたがり
明日もバカみたいな人生を
太陽と共に頑張ろう
と思いつつ帰路についたdoironなのであった。