先日、熊野街道堺市内を歩いた際に
仁徳陵をはじめ、
いくつかの古墳を巡り歩きました。
古墳群はどれも緑に覆われるとともに、
人が踏み入ることを拒み続けたことによる、
静謐な雰囲気に満ちていました。
そう、それらはまさに貴重な文化遺産であることから、
先日の富士山のように
世界文化遺産の登録を進めよう
という動きがあります。
そこで、今回は街道歩きを一休みし、
これらの古墳群をめぐる歩き旅をしてみようと、
梅雨の晴れ間に出かけることにしました。
最寄りのJRから電車に乗って、
最初に向かったのが
「南海高野線堺東駅」
東口に降り立ったのが午前9時05分。
早速、反正天皇陵に向かって歩き始めました。
反正天皇は仁徳天皇の第3皇子で、
仁徳天皇が第16代天皇であるのに対し、
第18代天皇として
西暦400年頃の古墳時代に
5年間天皇に在位しました。
さらに言いますともう一人、
今回最後に訪ねたのが、
仁徳天皇の第1皇子である
履中天皇の御陵
その人は第17代天皇として
6年間在位していました。
この北から順に
反正、仁徳、履中の御陵はそれぞれ、
百舌鳥耳原北陵、
同耳原中陵、
同耳原南陵といわれ、
総称して百舌鳥三陵と言われているようです。
ちなみに「百舌鳥耳原」とは
御陵の築造現場に
鹿が舞い込んできて絶命し、
その耳から百舌鳥が出てきた
という話に由来するものです。
先ずは、先日の「熊野街道、チン電とともに」の中でも訪れた
北陵(きたのみささぎ)である反正天皇陵の拝所に参拝しました。
駅からここまでわずか8分でした。
今回の古墳めぐりに際して、
もう一つ学んだのが「陪塚(ばいちょう)」です。
それは、古墳時代に建設された
古墳の様式のひとつで、
大きな古墳の周りに、
同時代に築かれた
小さな古墳群を表します。
そこには、大きな古墳に埋葬された
首長の親族や臣下、あるいは副葬品が
おさめられてあったりするそうです。
そもそも、世界遺産に登録しようという動きのある、
百舌鳥・古市古墳群
の「古墳群」という言葉は、
上記3陵をもって「群」として表したものではなく、
大きな古墳の周りにある
陪塚も合わせて古墳群と呼んでいるようです。
今回歩いた百舌鳥古墳群には、
大小合わせて40以上の古墳が含まれているそうです。
反正天皇の陪塚として知られているのは、
御陵の南東にある「鈴山古墳」
と東にある「天王古墳」です。
これらはいずれも、少し珍しい
四角い形をした方墳で、
途中の住宅街の家と家の間にありました。
道にはこんな案内が埋め込まれていました。
ちなみに、御陵の形は
その方墳のほかに前方後円墳、
円墳、そして前方後円墳の四角部分が小さい
「帆立貝型古墳」に概ね分類されます。
それらを眺めながら
地図に従って、方違神社に出て
そこから東に少し行き、
南にUターンするように、
堺市屈指の素敵な並木道である
「けやき通り」
を南下してゆきます。
先ほどの天王古墳は
明治時代までそこにあった
「天王社」の名前に由来するものですが、
その方違神社に合祀された
天王社にあったクロガネモチの巨木が、
今もケヤキ通りの歩道上に今もそびえており、
これは大阪府の天然記念物に指定されています。
通りを南下していくと、
右手になにやら古墳のような
緑の小山が見えてきます。
近づいてみると、
「旧天王貯水池」
と書かれてありました。
おお~、アブさんゆかりの施設ですね(とこれは身内オチ)
凱旋門風にデザインされた
煉瓦造りの正面入り口は、
国の登録有形文化財となっていました。
それにしても
指定文化財とか
府の文化財とか
天然記念物とか
いろんな指定の仕方があるもので、
それらについてはもう少し勉強して、
おいおいここに記していこうと思っています。
ま、とにかくそんな
「登録有形文化財」を後にし、
道は百舌鳥耳原中陵
(もずのみみはらなかのみささぎ)である
墓域面積が世界最大の古墳、
仁徳天皇陵
へと進んでいきます。続く。