大阪市中央区に架かる高麗橋は、
江戸時代には幕府が
「公儀橋」
として直接管理していたほど重要な橋であった。
今も阪神高速登り口になっていたりと
昔から交通の要衝なのである。
その橋の東詰に、
種々の道路の起点となる
「里程元標」
の石碑が建っているというので見に行ってきた。
これまで歩いてきた熊野街道は、
八軒家浜を起点としていたが、
熊野(小栗)街道には、
明治時代に建てられた道標のうち、
3本にこの高麗橋を起点とした距離が刻まれている。
地下鉄堺筋線の北浜で降り、
一番南の出口から地上に出て
西をむいて歩いていくと、
道は突き当たる。
そこを左に20mほど歩くと、
高麗橋にでる。
その橋を渡ったところの東詰に
その元標があった。
高速道路の入り口もあり
交通量も激しいので、
車に注意して道路を渡り、
写真をパチリ。
撮影は、もちろんEOSM
明治時代にここに置かれたこの道路元標。
当時、西日本主要道路の距離計算は
すべてここを起点に行われたという。
この里程元標がある高麗橋は
大阪城築城の時に改修された
東横堀川に架かるもので、
大阪で最初の鉄橋である。
欄干に立派な擬宝珠があることや、
今の橋げたが
当時の櫓屋敷の形を残しているという
由緒のある橋なのである。
この近くはこれまで車で
何度も通っていたし、
高麗橋で高速道路に乗ることもよくあったけど
歩いてきたのは初めてだ。
写真撮影を一通り終えて、
次に向かったのが、
昭和27年に新道路法が成立して
まさに今の里程元標ともいうべき
「道路元標」が移されたという
梅田新道交差点だ。
高麗橋から北に行き、
突き当たりを西に行くと、
梅田新道にたどり着く前に
大阪3名橋の一つと言われる
大川に架かる
「難波橋」
のたもとに出る。
この橋の4隅の橋の親柱には、
ライオンが鎮座している。
なぜライオンなのかというと、
お寺によくある山門の仁王さん
というわけにはいかず、
当時珍しかった天王寺動物園のライオンの像にしたらしい。
ライオンと言えば、
インドでは古来より
仏の前に2体のライオンが置かれており
それはこま犬の源流となっているそうだ。
とはいえ橋にライオンというのは
どうだろうか。
橋げたは左右にあることから
橋を魔物から守るため
どうしても”阿吽”の像を掲げたかった
という設計者の意図を感じるのだが・・・
これは橋に向かって右側の口を開いた
”阿吽”の”阿”型のライオンだ。
なので、この橋は「ライオン橋」とも言われている。
橋の読み方は正式には
「なにわばし」なのだが、
大阪で自分のことを
「わて」と言ってるような人は
「なんにゃばし」と呼んでるそうだ。
橋の中ほどに来ると
右手に中の島のバラ園がきれいに見え、
そこには顕彰碑が置かれてあり、
昔の名所図や写真を載せて
橋の説明が書かれてあった。
う~ん、古くから有名な橋なんやね。
橋の欄干の飾りもたいそうです。
そこを渡って、さらに梅田新道に向かって歩いていった。
地図が頭になくても大丈夫。
梅田の高層ビル群を目指していけば着くはずです。
それにしても、なぜ梅田新道なんだろう。
昔からあるように思うのだが
と思って調べたら
これも理由がわかった。
昔、この辺りは田畑とあぜ道の地域で
そこに大阪駅ができて
その駅に向かう道を
「梅田道」と呼ぶようになったそうだ。
多分、梅でも植えてあったんだろう。
しかしのちに、大阪駅の場所が変わり
そこに行く道を
今度は「梅田新道」と名付けたと
梅田新道の名前は
こういうわけなのです。
梅畑を抜けて、ではなく今は
ハゲしい交通量の道路に沿って歩き
ようやく梅田新道交差点に到着した。
しかし、道路元標の石碑がなかなか見つからない。
横断歩道や歩道橋をウロウロしてようやく見つけたのが、これ
石碑だとばかり思っていたら
これが今の大阪市の道路元標でした。
ここは、東京から来た国道1号線の終点であり
北九州市へ向かう国道2号線の起点になっています。
ほかにも合計6本の国道の終起点になっており
(道路は実際は4本だが2本の号線が重なっている)
四方すべてが別の道路というのは
ここだけだということです。
これで、今昔の大阪道路元標が確認できた。
やれやれと喜んでいたら、
おや?道路の向こうに見える神社が
何やら来てほしそうにしています。
あわせて訪ねてみることにしました。
続く