さて、よいしょと話を街道に戻します。
住吉東駅前のコンビニで小休止です。
この日、大阪の最高気温は30.9度あったそうです。
ま、皆生などのトライアスロンに比べたら
可愛い気温ですが、
街中では汗も吹き出します。
コンビニで冷た~い飲み物を買って
一息つき、駐車場のこんな車を見学して、
さあ、歩行再開です。
このあたりの街道沿いで
老舗のような雰囲気を醸している
葬儀屋さんがあります。
そのお店の前に、街道の道しるべがあり
そこには「旧住吉村役場跡」の文字がありました。
さらに歩いていくと、
なにやらオーラを放つ建物が見えてきました。
一階の屋根の上に
灯籠のようなものが
ある古い建物です。
あの釣鐘饅頭のお店の屋根にあったのは鐘楼ですが、
ここは灯籠のようです。
虫籠窓も見られますし、
おやおやよく見たら
あの鍾馗さんもおられます。
ここは明治の初めころ創業の
味噌屋さんでした。
そして建物も国の登録有形文化財
で、入り口には中も見学できますの掲示があり、
doironが通りかかった時も
小学生の一団が、
店の人の解説を聞いているところでした。
そして通りを挟んで向かいには、
これも何やらいわれのありそうな名前の
パン屋さんが・・・
「ハット屋パン」
店の中をのぞくと、
パンと名前がついてますが
パンを売ってる気配はありません。
あとで調べてみたら、
今は夏季限定で
アイスクリームのみを販売し、
10個買ったら1個おまけと
張り紙がしてあったのを思い出しました。
店の名前は、
ソフトクリームに帽子をかぶせてあるので、
店主がシルクハットをイメージしてつけた名前なんだそうです。
ほかにも古そうなお店がありましたが、
ひとつひとつ訪ねていたらきりがないので、
先を進めます。
しばらく行くと、この地蔵がなんと
御利益が十もある十徳地蔵。
近所の住吉大社といい、
こんな地蔵といい、
数々のお寺といい、
信心深い人が昔は本当にたくさんいたんですねえ。
道はこの先で国道479号線長居公園通りと
交わりますが、その少し手前に、
ついに八軒家浜から10キロ
の道標が立っていました。
ずいぶんと歩いたようですが、
まだ10キロ。
10キロなんて、
超ロングを経験した身からみれば
ショートのようなもの。
でもいっぱいいろんな見聞をしました。
歩くのと走るのとでは
全く感覚が異なるもんですね。
長居公園通りを渡ると、
急に町が静かになるような気がします。
それもそのはず、
このあたりは小学校、中学校、高校が立ち並ぶ
文教地区でした。
そのうちのひとつ、
墨江小学校
のところに昔
「津守廃寺」と後に名づけられるお寺がかつてあり、
その後津守廃寺の後進という
「津守寺」が建てられ、
そこが「津守王子」だったという説があります。
これが小学校に建てられた案内板です。
しかし、津守王子には
もう一つの説があります。
大阪府の資料でも、
碑はないものの
こちらが王子跡なのではないか
と書いてあるのが、別のところです。
それは、30号線に出て、
沢ノ町駅を少し南下したところにある
「止々呂支比売命(ととろきひめのみこと)神社」
境内にはいろんな石造物がありますが、
そのうちのひとつで
境内の一番奥に置かれている
「後鳥羽天皇行宮址」
の石碑が「津守王子」だという説を唱えています。
神社の中には、神ノ木のいわれの案内板に
書かれてあった
「霰松原」の文字もありました。
それらをぐるっと確認して、
ふたたび熊野街道に戻ります。
まもなく交差するのが、
「13号線」でおなじみ「府道30号線」です。
こうして何度も交差したりすると、
これまでわかってたつもりでいた
いろんな幹線道路との位置関係も
より鮮明に明らかになってきます。
この道路を渡ったらもうすぐ大和川
大阪市内部分をようやく歩き終えます。
続く
新しく街道話が始まったばかりやけど
ちょっと日常生活に戻って
最近の出来事を一つ
電器屋さんに買い物に行ったときのことだ。
doironの部屋のエアコンの調子が悪いので
最近のエアコン事情を確認しておこうと
でかけて行って、結局修理することにして
帰ろうとしたそのとき、
エンジンをかけて、ギアをドライブに
入れようとすると
シフトレバーが動かない。
通常、フットブレーキを踏んでいないと
そういうシフトロックの状態になるのだが
ブレーキはきっちり踏んでいる。
シフトロックのボタンを押しても
状態は変わらない。
仕方ないので、リセットしてやれと
エンジンを一度切って、
もう一度かけ直してみたら
何とか回復した。
しかし、次にスーパーに行った時に
また同じ現象が起こったので、迷わず
エンジンのリセットをしてみたが
今度は効果がない。
ブレーキを踏み直したり
ロックボタンを押したりしても
レバーは動かない。
悪戦苦闘すること15分。
やっとオヤジの入院で
一人分の介護から解放されたと思ったら
犬に加えて車まで世話を焼かせるのか
エックストレイルよおまえもか、と
憤りつつ何度もゴニョゴニョしているうちになんとかロックが解除。
ようやく家にたどり着いたので
世話になっているクルマ屋さんに連絡し
引き取りに来てもらうことにした。
こんな時にありがちなのが
営業の人が来て様子を見ようとした時に
その症状がでなかったりしがちなのだが
このときは見事に症状があらわれてくれたので
持ち帰って修理をするということになった。
しかし、今の暮らしに車は欠かせない。
軽自動車ももう一台あるのだが
分担して医者に行ったり
施設に行ったり、買い物に出かけたりしないといけないので
一台だけじゃ心もとないので
代車の手配をお願いすることにした。
そうしてやってきた代車が、これ。
真っ赤なキューブ。
ふ~ん、これは楽しそうだ。
乗ってみるとやはりいつもの車と違って
ちょっと新鮮な気分だ。
なので、少し浮かれ気分で
この車に義母さんを乗せて
山手の野菜直販所へドライブをした。
エックストレイルも整備してもらいつつ
こちらも少し気持ちのリフレッシュ。
オヤジを病院に送り込んで
束の間ほっと一息つくように
車もたまに入院点検もいいかもな。
5月2日(木)の午前9時過ぎに
大阪天満の八軒家浜をスタートし、
一日かけて北畠まで歩いた「浪速ともあれ」の旅の続きを
オヤジの状態も落ち着いていた
6月11日(火)に歩きました。
南の海上には台風3号が接近しているので
前夜はどうしようかなあと思っていたのですが、
どうも弱まっていきそうな気配だし、
雨も降らなさそうなので
思い切って出かけることにしました。
まあ、こういう決め方ができるのも
退職者ならではですねえ。
浜寺公園からチン電に乗ってガタガタと出発。
車内は比較的すいていました。
このチン電の車内には普通の電車と同じく、
つり広告もありますし、
窓にはこんなシールも。
到着するあちこちの駅で
若い社員が、ほうきとちり取りを持って
懸命に掃除をしていましたし、
若い運転手は交差点ごとに
「右よし、左よし」とコールしておりました。
なんか、チン電頑張れって気持ちになりますねえ。
運賃はどこまで乗っても200円と
とってもリーズナブルではありますが、
いかんせん信号待ちはするし、
小刻みに駅で止まるので、
時間がかかります。
まあ、今から歩こうかというdoironですから、
それに比べたら断然早いんやけどね。
大和川をよいしょと越え、
先日出かけた住吉大社前を
チンチンと通過しながら、
独特のスピード感覚で
過ぎていく景色を楽しみました。
北畠に到着したのは浜寺を出て約35分後でした。
北畠駅はチン電の駅らしく
道路の真ん中にあります。
それを降りてスタートしたのが10時06分でした。
スタートしてすぐに「晴明丘中央公園」があります。
ん?前回もこんな名前の公園があったのではと、
ブログをコツコツ見てみたら、
それは「晴明丘公園」でした。
その公園には「経塚」があったので、
ここでも何かあるかいなと思ったのですが、
どうやらほかには何もなさそうでした。
ふたたびチン電道路を歩いていくと、
北畠の次の駅「姫松」に到着します。
古今集に
「我見ても久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いくよへぬらむ」
(読み人知らず)
とうたわれたことからついた駅名だといわれています。
残念ながら地名としては、
わずかに字名として
「姫松町」が残っているのみだそうです。
かつては住吉大社の周辺とりわけ
西側一帯の海岸には
松がたくさん植わっていたそうです。
そうして歌に歌われた
「姫松」そのものが、
今も現存するのか、
残っているとしたらどのへんの松がそうなのか、
そのへんのところは何もわかっていないそうです。
待合の駅舎は、トタン屋根でかなり古い建物でした。
柱の形がユニークですねえ。
その先の昔の熊野街道と
今の南港通りの交差点には、
和泉の光明池にある
ケーキ屋さんの本店がありました。
ちなみにこのブランドのお店は
なかなか濃い味のボリュームあるケーキを提供されています。
姫松を過ぎて、マンションの駐車場進入路のような道を
左に入っていきます。
少しわかりにくいのですが、
地面に注目しましょう。
こういう導き石が道に埋め込まれています。
そしてその近くには、
例の熊野街道道標(八軒家浜から8.1キロ)
も立っていました。
そんな案内に導かれて、
電車道から1本東の小さな道を、
ゴージャスな邸宅を見ながらてくてく進んでいきますと、
やがて万代池に出ます。
ここまで歩き始めて約15分です。
八軒家浜からは8.5キロ。
熊野街道の大きな石の案内板も
ここに立っていました。
この池は周りが公園になっています。
せっかくここまで来たのですから、
ぐるっと巡ってみました。
公園は適度に樹陰があって涼しそうで、
そのときも走っている人も何人かいました。
どういうわけか、こんな平日に
若い人も結構走ってましたねえ。
まあ、歩いている自分も
人のことは言えませんがね。
公園内には走る人用のこんな案内がありました。
大阪市内の公園にはよくある案内ですね。
池の中には大きな島があり、
鳥の天国になっているようでした。
ここには龍神が住むといわれおり、
それを祀る古池竜王が
池に架かる橋の中ほどにあります。
その時も、地元の方が
せっせと世話をされておりました。
なにせ魔物が住んでいて、
聖徳太子が曼荼羅経をあげて
追い払ったという池(万代池の池名の由来)です。
昔むかし、岡の雑木に落ちた雷が
龍に見えたのかもしれません。
ぐるっと巡って、池からすぐ近くの電車道へと戻っていきます。
チン電はここからすぐに高架になって西に分かれていきますが、
なにやらいわくのありそうな名前の
チン電駅
「神ノ木」駅
の方へ少し行くと、
案の定いわれを書いた案内がありました。
それによりますと、
先の姫松もそうですし、
他にも「霰松原」などの名前も残っているほど
このあたりには松が多かったのですが、
この駅近くにはひときわ大きな松が残っていて、
それを神木としていたことから、
「神ノ木」
の駅名となったそうです。
そんなチン電と南海高野線が交差している場所を
くぐったり渡ったりとゴニョゴニョ歩いて、
道は住吉神社の東側の
何やら古そうな通りへと入っていきます。
次回に続く。
近頃、親父の介護もいよいよ大変になってきた。
先日、転倒をして骨に異常はなかったものの
どうも具合がよろしくない。
歩く足元がおぼつかないので
夜中であろうが、早朝であろうが
トイレ介助の時等には付き添ってあげないといけない。
なので、寝ているときでも常に頭の片隅には
そのことを置いておかないといけないのだ。
まあ、その辺は覚悟の介護生活なので
致し方ないところだが
最近は、愛犬グーの介護も大変だ。
ずっとトイレ癖はよかったのだが
近頃は、思わぬところでおしっこをしてあったりする。
一度すると、そこにはにおいが染み付くと見えて
そこも彼の数あるトイレのうちの一つになる。
目が見えず、耳が遠いという障害を持ち
なおかつ、親父が慰みに
こっそりお菓子をあげたりするものだから
激太りのグーは、歩行もよたよただ。
気温も高くなってくると
つないだ時には
玄関先の冷たい板の間で
いつも横たわっている。
目は開いているものの
まったく起きているんだか寝ているんだか
わからない状態である。
ほんでもって、たまにむくっと起き上がっては所構わず
気まぐれにおしっこをすることがある。
そのたまにある変則おしっこが
なぜか、doironお気に入りの靴下を
はいているときが多く、
今日こそはこの靴下でお出かけだという時に限って
ペチャっとそのおしっこを踏んでしまうのだ。
先日も、この靴下をはいて
さあジムに行ってトレーニングしようと
思っていたら、出かける直前に
グーのおしっこを踏んでしまったんだよね。
結局またこれで出かけることができず
実はこの靴下をはいて一度も出かけたことがない。
そういうことで、この靴下をdoironは
「呪われた靴下」と呼んでいるというわけだ。
とまあ、昨日まではそんなのんきなことも
言ってたのだが、
今日からはオヤジの炎症止めのため
三日間連続の嵐の点滴三連荘が始まった。
まずは午前八時からの点滴に向けて、痛がるオヤジを
何とかなだめて汗だくになって病院に連れて行った。
ベッドから車いす
車いすから車
車から車いす
この三回の移動ではその都度
地獄の底から聞こえてくるような
うめき声とも叫び声ともいうような
一種断末魔のような声を上げるオヤジであった。
そして、そんな様子は病院内でも見られた。
車いすからベッドに移そうとすると
うめき声をあげる。
思わず「人殺し~」などと叫ばないか心配である。
病院でそれはアカンやろね。
しかしそんな状態を見かねた
かかりつけの主治医が
一度大きい病院での検査をしてもらうよう
紹介状を書くから行ってみなさいと言ってくれた。
さっそく、書いていただいた紹介状を握りしめ
大きな総合病院に行き
CT、レントゲン、血流、血液など
いろんな検査をしてもらった。
しかし、そこでも
車いすと検査用ベッドの移動のたびごとに
その都度「人殺し~」あるいは
「殺す気か~」と叫びそうになってたな。
結局そこでは8時間付き添って
朝の点滴で家を出てから
合計11時間後に最終的に入院となった。
さすがに今日はdoironも
フラフラになりましたわ。
そうさなあ
昨日の街道ランよりハードな一日だったかも
16日にルネRCの企画で、
街道マラニックが催されたので参加してきました。
走ったコースは、紀州街道及び熊野街道の大阪南部のコース。
泉O津から紀州街道と
熊野街道を走る28キロのロングコースと
泉佐野から熊野街道を走る12キロのショートコースです。
doironが参加したのはショートコース。
そのコースは先月、テクテクと歩いたコースです。
今回は走ることで
また違った街道をゆくような
そんな気分でした。
泉O津駅から電車に乗って、
一足早く出発したロングコース組との合流地点である泉佐野駅へ。
予定より15分ほど早く着きましたが、
すでにロングコース組は到着しておりました。
早速取材です。
これは同じ大学の先輩(右)と後輩のお二人。
そして、いつの間にかルネには
新しい顔、顔、顔が増えています。
総勢17名で走り始めます。
泉佐野駅がスタートなので、
まず最初に目指しますのが市場の道標です。
kaisanと共に先導します。
そこを皮切りに、名所旧跡、王子跡を
これまで経験を踏まえて
doironが案内しながら、
前回5時間かけて歩いた山中渓までの12キロのコースを、
今日は約2時間で走りました。
それにしてもこうして大勢の人と一緒に走るのは、久しぶりです。
途中街道歩きらしい一団とすれ違い
「ひゃーすごい~頑張ってね~」と
声援を受けたときには
怪人様はすすすっとペースを上げておられました。
ほめられて延びるタイプなんですね
ゴールが近づくにつれ少しばらけてきましたが、
おおむね全員一緒に山中渓に到着。
暑かったため、途中水分を山ほど
すこし気分が悪くなるほど摂りました。
日焼けもこんな感じ。
親父の調子が悪いので、
ゴール後風呂に向かう皆さんと別れ、
ひとり電車でがたごと帰ったdoiron。
電車では、周りの人に汗臭いにおいで迷惑をかけないように、
隅っこで小さくなってました。
2013年初夏。
今年一番の運動となった一日でした。
今回の住吉詣でのきっかけとなったのは
ミセスdoironが行きたがっていた
洋食屋さんにランチをしに行ったことであった。
その洋食屋さんの名前は
「やろく」という。
昭和10年創業の老舗で、
玉子コロッケが有名だそうだ。
それをいただくべく店に向かった。
昔、いわゆる広告塔として
各所から住吉大社に寄進された石灯籠
は境内のものすべてを数えると約600基あるそうだ。
そんな石灯籠が立ち並ぶ神社を後にし、
テクテクと歩き始めたが
その店の場所はかなりわかりにくかった。
住吉大社の駅近くは、
路面電車の線路もあって
結構入り組んでいるからね。
途中、こんな店の面白看板も見かけた。
かなりの決意を表した看板だ。
ここなら、
アッパーはまだ使えるけど、
ソールがすり減った靴なんかを持っていき、
トレイル用のソールに張り替えてくれ
といったら、やってくれそうだ。
いや、きっとやって見せてくれるだろう。
それほどの決意が看板に現れている。
ただ、一つ心配なのは、
店の入り口上部には
「靴の病院」と手書きの看板が上がっているのだが、
その「病」の字が
さんずいへんになっていることだ。
一抹の不安を抱いてしまうのだが・・・。
そんな、昔ながらの奇妙なお店も
散見される住吉さん周辺に迷い込みつつ、
ようやく見つけたのが
ちょうど正午頃で、
順番待ちは2番目だった。
土日は結構順番待ちの行列ができるほど
混むときもあるそうだが、
こうしてすいている平日に来れるのも退職者強みである。
後からきて、順番待ちに並んだおば様たちによると、
二年ほど前にテレビで紹介され、
行きたい行きたいと思っていたけど
機会がなくてようやく来れた、みたいな話をしていた。
「メニューをご覧になってお待ちください」と言われて
渡されたメニューを見てみると、
結構攻撃的なお値段だ。
1000円以上の定食が並んでいる。
まあ、せっかくここまで来たんだし、
もうすぐやってくる父の日と
先日の結婚記念日を兼ねて
豪勢に、名物玉子コロッケとビフカツが
一緒になった
「やろく盛り合わせ」
を注文した。一人前1695円だ。
注文しながら
今夜はお茶漬けと漬物だけにしようと
心に誓った二人なのであった。
やってきた料理がこれ。
玉子コロッケはで、でかい。
小学生のこぶしほどもある。
中身は玉子味のタルタルソース風で
なんとエビが中で一尾泳いでいた。
ビフカツも柔らかく
デミソースも濃すぎず
上品な味である。
く~、ビールがうまかったぜ。
で、途中隣に座ったdoironより
10歳くらい年上の男性二人の会話が
めちゃ気になった。
「今年も服部緑地でやるんか」
「やるで~」
「息子がイタリアに行くので、
お土産にカンパのパーツでも
買ってきてくれと頼んだんや」
「ほう!わしもカンパのホイールがほしいな」
「今日もジム行くか?」
「行くで。ストレッチせな疲れがたまってるわ」
二人が食べていたのも
同じ盛り合わせで
しかも飲んでいるのが、
doironの生小に対して生の大。
この旺盛な食べっぷりと飲みっぷりからみて
これはもう、バイク好きかトライアスリートに間違いないと確信したね。
顔も結構日焼けしていたしね。
そして何より、doironが着ていた
トライアスロンのポロに
チラチラ視線を送っていたしね。
きっとお仲間関係者なんでしょう。
居酒屋だったら間違いなく話しかけられていたでしょうな。
店を出るときには
「お腹いっぱいで苦しい」と言ってたミセスdoironに
隣の人達は同類のにおいがしたなというと
「え~、そう?」だと。
よっぽど夢中で食べてたんやね。
帰りの車では、ビールの酔いもあって
爆睡させていただきました。
以前から、どこで聞いたのか知らないが、
住吉大社のそばの
とある洋食屋にランチしにいきたいと
ミセスdoironにせがまれていた。
ただ、それだけのために
住吉大社まで行くのもどうかと
ためらっておったのだが、
ついでに住吉大社も探検してみたら?
というおススメの言葉につられて、
行くことにした。
熊野街道を歩いていても、
途中立ち寄って住吉大社を
つぶさに見て回るとなると
結構時間がかかりそうなので、
あらかじめ押さえておく
というのも悪くはないなとの判断であった。
しかし二人して急に出かけるのには、
介護のこともあって時間的な制限がある。
通院のない日で、
しかもデイサービスに出かけている
天気の良い日というのが、最低条件だ。
その日も親父はデイには出かけていたが、
夕方早く帰宅する予定だったため、
自由に行動できる時間は短かった。
だが天気も上々だし、
そろそろ機は熟したとみて
住吉大社までビューンと車で行くことにした。
走行距離10万キロを超えた
ミセスの軽自動車に乗り込み
いざ出発である。
往きはdoironが運転。
帰りはミセスの運転だ(ビール飲むもんね)。
ナビに従って行き、
大社の南側の駐車場に車を停めた。
あとでわかったのだが、
この日は初辰(はったつ)詣りの日なので
駐車場は無料になっていた(ラッキー)。
初辰とは、毎月最初の辰の日のこと。
この日に参拝すれば、
より一層力を与えて守り助けてくれる
と信仰されている。
いわば住吉さんポイント12倍デーみたいな感じね。
この初辰まいりは4年を一区切りとして、
48回参拝すれば、満願成就とのこと。
これは、四十八辰、
つまり始終発達する
という意味からきたものだそうで、
近年お詣りする人が増えているそうだ。
しかし、こんなところでも
大阪人はシャレでゲンを担ぐんやね。
そうして4年間欠かさず月参りを続けられる
というのは、それだけで
無事発達していることでもあるんだそうだ。
この考え方はまんざらでもないけどね。
なので境内には平日にもかかわらず、
大勢の人で賑わっていたし、
出店も結構出ていた。
境内には国宝である4つの本殿と
小さな社が各所にある。
ここを参る人々は信心深い人が多いとみえ、
見ていると、社の前を通るたびに、
いや、しめ縄をまいた樹のそばを通る時でさえ
さりげなく両手を合わす人が何人もいた。
doironも本殿には参拝したが、
あとは境内の由緒ある場所を
めぐりつつぶらぶらと歩いた。
ちょこっと住吉神社の名所を案内してみよう。
ひとつ目はやはりこれ。
住吉さんと言えば「太鼓橋」。
というくらい有名だ。
正式には「反橋(そりはし)」というそうだ。
水面に写るその姿は華麗で、
この世と天上界をつなぐ
虹を例えて作られたというだけのことはある。
あの淀君が奉納された橋だ。
そしてこれは、あまりご存じないのかもしれない。
住吉さんの鳥居は円柱ではなく角柱なのだ。
これはとても古い様式で、
大変珍しいそうだ。
南側を奥に向かって歩いていくと
見えてくるのが、最近話題のパワースポット
「御所御前」。
住吉大神を最初にお祀りした聖地で、
この中に敷き詰められた石の中から
「五」・「大」・「力」を墨書した石を見つけて拾い集め、
袋に入れてお守りにすれば
御利益があるそうだ。
doironもさっそく集めてみました。
結願すれば、お礼参りに
近所の石を三つ集めて
「五・大・力」を書き、
先の石とともに
倍返しをするしきたりになっている。
うん、よく考えたものだ。
これでここの石が絶えることはなかろう。
そしてその近くにあるここが
「石舞台」。
豊臣秀頼によって奉納されたもので、
日本三舞台の一つと言われている。
ちなみに、あと二つは
四天王寺と厳島神社にあるそうで、
四天王寺のそれは先日の
「浪速ともあれ、熊野街道シリーズ」の時にも
見ることができた。
そして住吉大社で見たかった最後が
住吉名所図会にも描かれている
「誕生石」。
雷鳴とどろく中で
丹後局がこの石を抱いて出産したのが
島津三郎忠久だったといわれている。
いくらいにしえをしのぶとはいえ、
その光景は、ちょっと想像したくありませんがね。
とまあ、そんなマニアックな旧跡等を数々を回ってお腹をすかし、
目的の洋食屋さんへと向かった二人なのでありました。
長くなりましたのでそれは明日に続きます。
ハブの具合が悪くなっていた。
といっても、とぐろの巻き方がおかしいとか、
マングースに3連敗中とか
そういうことではない。
とちゃうちゃう
長年乗っていたママチャリの後輪の
いわゆる軸の部分の話だ。
漕ぐと、「ギリギリ、ギコギコ」と
すさまじい音をたてていた。
どれくらいすさまじいかというと、
家にたどり着く50m位手前から
家の者に「ああ、帰ってきた」と気付かれたり
チャリに乗りながら友達に電話をしたら、
その音が電話を通じて
相手に聞こえるくらいなのだ。
また、飲み会で夜中に帰ることになった時に、
走行中にチェーンが外れ、
暗い田舎道でめちゃ不審な作業をしたことがある。
それも2回も。
なので、リアのハブを替える、
すなわちリアのタイヤを
すべて取り換えたらどうかと
まず検討してみた。
しかし、これがなかなか一筋縄ではいかない。
ママチャリは屋外に置いているので雨ざらし
なのでネジ類は固まってしまっているし、
ブレーキもドラム形式で、
ロードにはない仕組みなのでよくわからない。
自転車屋さんで聞いたら、
その作業をすると
新品ホイールなど部品代も含めて
7~8千円かかるとのことなので、
それならば自転車そのものを
買い替えた方が安いという結論に達した。
そこで、まずいろんなチャリンコ屋さんを回ってみた。
すると中古車がやはり、
値段が4~5千円とお手軽だ。
けどよく見てみると、
フレームに小さなクラックが入っていたり、
さびちゃいけないところがサビサビだったりと、
いささか難ありなブツが多い。
一見まともなものでも、
履歴がわからないと
思わぬところに不具合があったりするしね。
スピードを出したら
動的バランスが崩れて
ハンドルがガタガタしたりとかね。
それにハブが調子悪くて、
買い替えたのに
すぐにハブにギコギコと不具合が・・・
なんてのはシャレにもならないだろう。
そんなことをいろいろと検討した結果、
結局値段の安い新品を買うことにした。
それにしてもリサーチは必要だろうということで、
国道沿いにある大きなママチャリやさんとか
街のチャリンコ屋さんを
散歩ついでにあちこち回ってみた。
泉O津の主な自転車屋さんは回っただろう。
その結果、見た目、機能性、値段、後のメンテ、
不用になったチャリンコの引き取りなどを考慮して、
結局K-ナンで買うことにした。
買ったのがこれ。
1本足スタンドが少々気に入らなかったが、
フレームの形、色、
そして前かごの形、
最後に何より値段が決め手となった。
なんかねえ、中国製には
抵抗があったけどねえ
やはりこういったものはどうしても
中国製になってしまうんだよなあ。
国産でハチキュッパはないだろう。
つぶれても、盗まれてもできるだけ
後悔が少ないようにとなると
やはりこうなるんだよな。
で、使いみちなのだが、
移動は徒歩でたいていいける
とはいうものの、
一台あるとないとでは、
敏捷性に差が出るってもんだろう。
これで、ウォーキングで
万一写真を撮り忘れたとしても、
ロードじゃたいそうでも、
これだったらリンリンと
ひとっ走りで撮り直しに行ったりもできるってもんだ。
飲み会も行きやすいしね。
あまりにギコギコいうので
乗って出かけるのもためらいがちだった
ママチャリライフも
これでまた少し充実するだろう。
現在、こいつに名前を付けてやろうと
思案中なのだ~
久米田池というと、二年前の冬に
コウノトリが飛来したということで
新聞紙面をにぎわしたことを思い出します。
あの頃はdoironも退院したてで、
めげていたころでした。
こうして街道を歩けるようになるとは
まだ夢にも思っていない頃でした。
久米田池は聖武天皇が行基に命じて作らせ
西暦738年に竣工したため池であり、
いまは国のため池100選に
選ばれている大阪府最大のため池です。
そしてその池の西側にたたずんでいるのが
久米田寺
です。熊野詣が盛んになるずっと以前からそこにあり、
池とともに人々の暮らしを支え
見守り続けてきました。
江戸中期の和泉名所図会にも
描かれている名刹です。
境内には立派な多宝塔や
校倉つくりの宝物殿のような建物もあります。
縁起などを見ながらお詣りもし、
境内をぐるっとひとめぐりして
今度は街道Bコースの方に向かって歩いていきます。
途中、久米田公園の横を通ると、
そこにも古墳らしきこんもりとした丘がありました。
無名塚古墳という案内板が建っていました。
そしてその横にも、古墳らしきものが・・。
階段と道がついていたので登ってみると、
なにやらとてもシャーマンな雰囲気でした。
眺めは、遠くにカンカンが見えたりして、
とてもよかったです。
額原町を抜けて13号線に出ると
そこはもうBコースです。
今度は先ほどのAコースとは逆に
北上していきます。
まず歩き始めの地点にあった
「田山稲荷社」への道標を確認です。
この石碑には鳥居の絵と共に
「田山稲荷社七里・・」とあります。
七里とはまたずいぶん遠いですねえ、
それもそのはず田山稲荷は
阪南市の尾崎にあります。
ではなぜ、こんな遠いところに
その案内が建てられてあるのか?
う~ん、謎は謎を呼んでいきますねえ。
いつかわかればまた書きましょう。
車に気をつけながら、さらに北上していきますと、
右手に現れるのが積川神社の鳥居です。
ここで、熊野詣をされていた
後鳥羽院や白河上皇が
ここから東に5キロほど行ったところにある
積川神社を遥拝されたとのことです。
とりわけ白河上皇はその時、
鳥居の扁額の字が
あまりに稚拙であったため
自ら書きなおされたそうで、
その扁額は今も神社に残っているそうです。
今、その鳥居についているのは
その額を模して作ったもので、
いわゆるレプリカなわけです。
そんなことから
このあたりの地名に
「額」の字が残っているわけなんですね。
この鳥居、道端によくぞ残っていたものです。
そしてその少し北の西側、
つまり海側に立っている道標が、
先日行った大阪高麗橋の
里程元標からの距離を記した
3本の道標のうちのひとつで、
電柱の陰に立っていました。
そこに記された距離は、
「七里十四丁五十九間」。
kmに換算すると約29キロです。
まあ大体そんなものでしょう。
そしてその先が、
Aコースとの合流地点です。
ここから先は特筆すべきこともなく、
久米田寺めぐりで時間を取られたこともあり、
親父のデイサービスからの帰還の時間が迫っていたため、
久米田からJRに乗って、
最寄の駅まで帰りました。
初夏の日差しの下、
8キロ足らずを歩いた旅となりました。
これにて久米田巡ったシリーズは終わりです。
次はこの先、岸和田~貝塚~泉佐野
または和泉~堺~北畠になる予定でえす。
こま犬の謎が解けたところで
話は熊野街道に戻っていきます。
八軒家浜から始まって
大阪府内だけでも70キロを超える
熊野街道紀伊路を歩いているわけですが、
さすがに「日本一小さいまち」と豪語するだけあって、
忠岡町の区間はすぐに通り過ぎてしまいます。
天神社を出て広い道路を渡ると、
そこはもう岸和田市です。
街道の雰囲気漂う道を歩いていくと、
正面に小さな地蔵堂が見えてきました。
ここにも道標地蔵が祀られてある筈です。
道端に置かれた地蔵堂の中を
見させていただくと、
確かに浮き彫りになった地蔵の脇に
「右 」と「左 」の文字が見えます。
地蔵本体は祠の奥の方にあったのと、
前にきれいに花が添えられていたので
前垂れをめくり上げるのは憚られました。
このあたりで道が、変則的に
いくつかの分岐に分かれていたので
(だからこそ道標があった?)
とてもややこしかったのですが、
先にあるはずの菰池を目印に
道を探ったらわかりました。
いかにも、小さな路地に見えるところを曲がると、
そこからずっと道が続いているのが
街道にありがちな姿ですね。
これがその菰池です。
そうですね、各地で埋め立てが進んでいる
こういう里のため池は残してほしいですね。
泉O津にため池はほとんど残っていませんもんね。
街道らしい古い街並みを抜け、
不審者と間違われたらかなわんので
写真の撮りにくい小学校の裏手の細い道はささっと抜け、
田んぼの中のあぜ道のようなところを歩いていくと、
その先で、熊野街道は
岸和田から牛滝山の
大威徳寺へとつながる牛滝街道と交差します。
その牛滝街道沿いには、
doironがこれまで見たどの地域公民館よりも
立派な建物である「下池田町」の町会会館がそびえておりました。
そんな街道を横切ってさらに進み、
遺構は何も残っていないけど、
どうやらこのあたりらしいという
「池田王子跡」
と言われている場所に出ます。
確かに、このあたり
何も根拠はないけど、
ちょっと空気が違うような感じがするのは、
王子跡が醸す雰囲気なんでしょうか。
資料には、池田王子跡は
奥のアパートの裏
と記載がありますが、
どこからどうみて裏なのか
さっぱりわかりません。
アパート周辺のそれらしい雰囲気のところを
何枚か撮影しておきました。
線路を渡って府道30号線に出たところで
Aコースは終点です。
ここから少し戻って、
あの有名な「清原電器店」のある交差点から、
久米田池に向かって寄り道をすることにしました。
牛滝街道へとつながっていく道を歩いていき、
久米田駅前商店街からくる道の交差点を右折します。
前方に小高い緑の森が見えてくるのが、
「史跡 諸兄塚」。
貝吹山古墳ともいわれる橘諸兄
(もちろん兄貴というわけではありません)
のお墓なんですが、
とくに立ち入りが制限されることもなく入ってゆけます。
小高い丘のてっぺんを目指してのぼってゆき、
登り切ったところには、
三角点がポツンと置かれてました。
帰宅して国土地理院の25000分の1の地形図を
虫眼鏡で見てみると、
確かに三角点が書かれてありました。
(あたりまえ~)
しかし、橘諸兄の墓と言えば
京都府の井手町にもあるはずです。
どちらが本物なのか、
それとも両方本物なのかわかっていないそーです。
ただ、こちらの方は
久米田寺所蔵の古文書でも書かれてありますし、
久米田寺を描いた和泉名所図会にも
「諸兄塚」とはっきり書かれています。
西暦1800年ころです。
また、この塚の東に橘諸兄と
同時代の皇后である光明皇后のお墓がある
ことからも信憑性が高いのではないかと思われるところです。
その墓の横の、
塀と塀に挟まれ、
車止とかかれたバリカー石碑の置かれた狭い通路を抜けていくと、
広大な久米田池の景色を背景にした
久米田寺の境内に出てゆきます。
続く