ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野街道、久米田巡った3

2013年06月12日 21時38分03秒 | ウォーキング

久米田池というと、二年前の冬に
コウノトリが飛来したということで
新聞紙面をにぎわしたことを思い出します。



あの頃はdoironも退院したてで、
めげていたころでした。
こうして街道を歩けるようになるとは
まだ夢にも思っていない頃でした。

久米田池は聖武天皇が行基に命じて作らせ
西暦738年に竣工したため池であり、
いまは国のため池100選に
選ばれている大阪府最大のため池です。

そしてその池の西側にたたずんでいるのが

久米田寺



です。熊野詣が盛んになるずっと以前からそこにあり、
池とともに人々の暮らしを支え
見守り続けてきました。



江戸中期の和泉名所図会にも
描かれている名刹です。

境内には立派な多宝塔や



校倉つくりの宝物殿のような建物もあります。



縁起などを見ながらお詣りもし、
境内をぐるっとひとめぐりして
今度は街道Bコースの方に向かって歩いていきます。

途中、久米田公園の横を通ると、
そこにも古墳らしきこんもりとした丘がありました。



無名塚古墳という案内板が建っていました。

そしてその横にも、古墳らしきものが・・。
階段と道がついていたので登ってみると、
なにやらとてもシャーマンな雰囲気でした。



眺めは、遠くにカンカンが見えたりして、
とてもよかったです。

額原町を抜けて13号線に出ると
そこはもうBコースです。

今度は先ほどのAコースとは逆に
北上していきます。

まず歩き始めの地点にあった
「田山稲荷社」への道標を確認です。



この石碑には鳥居の絵と共に
「田山稲荷社七里・・」とあります。

七里とはまたずいぶん遠いですねえ、
それもそのはず田山稲荷は
阪南市の尾崎にあります。

ではなぜ、こんな遠いところに
その案内が建てられてあるのか?

う~ん、謎は謎を呼んでいきますねえ。

いつかわかればまた書きましょう。

車に気をつけながら、さらに北上していきますと、
右手に現れるのが積川神社の鳥居です。



ここで、熊野詣をされていた
後鳥羽院や白河上皇が
ここから東に5キロほど行ったところにある
積川神社を遥拝されたとのことです。



とりわけ白河上皇はその時、
鳥居の扁額の字が
あまりに稚拙であったため
自ら書きなおされたそうで、
その扁額は今も神社に残っているそうです。

今、その鳥居についているのは
その額を模して作ったもので、
いわゆるレプリカなわけです。



そんなことから
このあたりの地名に
「額」の字が残っているわけなんですね。

この鳥居、道端によくぞ残っていたものです。

そしてその少し北の西側、
つまり海側に立っている道標が、
先日行った大阪高麗橋の
里程元標からの距離を記した
3本の道標のうちのひとつで、
電柱の陰に立っていました。



そこに記された距離は、



「七里十四丁五十九間」。

kmに換算すると約29キロです。
まあ大体そんなものでしょう。

そしてその先が、
Aコースとの合流地点です。

ここから先は特筆すべきこともなく、
久米田寺めぐりで時間を取られたこともあり、
親父のデイサービスからの帰還の時間が迫っていたため、
久米田からJRに乗って、
最寄の駅まで帰りました。

初夏の日差しの下、
8キロ足らずを歩いた旅となりました。



これにて久米田巡ったシリーズは終わりです。
次はこの先、岸和田~貝塚~泉佐野
または和泉~堺~北畠になる予定でえす。