ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野街道、チン電とともに3

2013年06月21日 21時02分28秒 | ウォーキング

30号線を南に渡ったあたりは
「遠里小野(おりおの)」と言われてます。
そこはかとなく変わった名前ですね~
なぜか異国の香りがするのは
あの軽快なリズムで歌う
「オリオリオリオ~
の歌のせいかもしれません。

しかしそうではなくて、古来からの名前なんです。
万葉集にもこの表記は見られるそうです。

どうも語源は「瓜生野(うりうの)」からきている
というのが有力な説だそうです。

大和川は流域での氾濫を抑えるために
1700年ころに大きく付け替えられています。

その際に、この地域を分断するように
川を付けたので、
今は大阪市と川の向こうの堺市にも
「遠里小野」の地名が残っています。

この付け替えによる地域の分断は、
他にも松原市の若林と
八尾市の若林町などがあります。

その遠里小野に入ってすぐに、
商店街に入っていきます。



道しるべがここでは道路に埋め込まれてありました。



なおも歩いて、我孫子の駅近くにさしかかると、
左に安楽寺という寺があり
その門前に、石碑が建っていました。

写真ではわかりにくいのですが、
資料によりますと、

「右 八尾街道 堺 大鳥 岸和田 
左 阿倍野街道 住吉 天王寺」と刻まれた面と



「右 八尾街道 我孫子 平野郷 八尾」



と刻まれた面があります。

明治35年に建てられたとも刻まれてます。

親父より大先輩です。

先日亡くなった長寿世界一の木村さんは
明治30年生まれなので、
この人よりかは後輩でした。

とっても立派な道標です。
街道の分岐点かと思うと
感慨もひとしおですね。
ここで旅のお別れもあったでしょうし
出会いも数々あったでしょう。
道標は道案内をするとともに
そんな往時の人々の心のランドマークで
あったかもしれません。

その先の左側、
遠里小野小学校の塀に
現在の道しるべが見えてきました。



とその前に右側にあるのが

「農神社」。





歩いていてもこのあたり
農耕の雰囲気は漂っていませんが、
昔はきっと盛んだったんでしょう。

何せ「瓜生野」ですし、
遠里小野は菜種油発祥の地ですし・・。

その農神社に立っているのが

「遠里小野編入記念碑」



1925年に大阪市に編入されたのを
記念して建てられたそうです。

地域を愛した地域の人たちの
郷土愛を窺わせますね。



八軒家浜から11.4キロと刻まれた、
大阪市域最後の道標を過ぎ、
ようやく大和川に到着です。





堤防には、かなり立派な
道端のお堂がありました。



祀られているのは、
雲上地蔵尊と白龍大神。





ここにこれが建てられた経緯は
実にすさまじいもので、
明治2年の堤防決壊に端を発します。

川から押し寄せる洪水を抑えようと、
地元の人たちは決壊場所に
墓石や地蔵を投げ込んだそうです。

その墓石や地蔵が今も泥の底に眠っているそうですが、
そのような石の供養と
二度と水害が起こらないように
との願いからここに地蔵を設置したんだということです。

そんな流域の人々の
昔からの祈りは、
スーパー堤防の築造という形で
実っていくのでしょうか。

さて、このあたりで歩き始めてちょうど2時間。

お腹がすいてきたので、
遠里小野橋を渡り





大和川の河川敷に降りて昼食にしました。

今日はおにぎりと少しのおかずと
「カツオと筍」の缶詰です。
今回はビールはおあずけで
真面目にランチタイムしました。

しっかし、広々とした河川敷で食べる昼食は最高やね。

台風が近くにいるので、
青い空と雲のコントラストもきれいでした。



下流を見ると、これに乗って旅を始め、
時にはともに連れ添って歩いてきた
チン電の鉄橋も見えています。
そして堤防にはこれ。



以前、大和川をずっと遡って、
飲み会のある藤井寺まで歩いて行ったのを思い出しました。

遠里小野橋の南詰では
阪神高速大和川線の工事が続いています。

工事計画時のアセスにかかわった身としましては、
なんとも感慨深いものがありますねえ。

昼食を終えて、
本来なら左岸から直接まっすぐ下って、
街道に降りていくのですが、
その工事のおかげで
道は分断されており、
仕方なく30号線を南下し、
遠里小野町1の交差点を左折して
街道へと入っていきました。

こんな開発があったりして
街道は消失していくということなんですね。

職人さんが工場横の日陰で昼寝をしている
お昼休みの静かな工場街をてくてくと歩き、
いよいよ本格的に堺市内に突入していきます。

もう少し続きます。