ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

高野を目指して 堺中心部後編

2014年03月17日 21時37分46秒 | ウォーキング

開口神社の境内は
もっと広いと思っていたが意外に狭い。
と言っても開いた口がふさがらないほどでもない。

その中に所狭しと小社や石碑が建っている。

これは堺の名門高校「三国ヶ丘高校発祥地」の碑。



そしてこれが与謝野晶子が卒業したという
「泉陽高校発祥地」の碑。



堺市の幼稚園教育発祥の碑もある。



じゃ、小中学校はどうなってるんやと
まあ、別にひがむほどの事ではない。

神仏に関しての石としては
これが「影向(ようごう)石」。



「影向」とは神または仏が姿を見せずに現れること。
どういう状態かよくわからないが
開口大神が影向して座ったといわれる石だそうだ。

こういう腰かけ石も
紀州街道の船待神社や


菅公腰掛石

熊野街道の伯太など


照手姫腰掛石

各地にあったことを思い出す。

正面の鳥居の方に回ると、
おおっとここの狛犬は面白い。



阿の狛犬の足には子どもの
狛犬がしがみついている。

そうそう今は大相撲も大阪場所。
この近くに部屋を構えている関取の姿もあった。



最後に本殿にお参りをし、





この神社をあとにした。

再び大小路からの街道に戻り、
東に行くと高速道路の手前で
土居川公園に出た。



環濠を埋めて作られた公園で、
細長いけど約4ヘクタールもあるとのこと。
名前もどことなく親近感の湧く名前だ。



その公園内を北に歩き、
大小路橋の交差点に出ると、
そこはこんなお店もあるところで、



立派な歩道橋もある。
エレベータも設置されていて
その出入り口の上には
防犯カメラが首を振りながら
撮影をしていた。

カメラを持ってウロウロしている姿が
不審人物と見間違えられないかなあ、
と心配しつつキョロキョロしていたdoironである。

その歩道橋に下に残されている、
昔の大小路橋の橋柱がこれ。



植込みの中に隠れるように置かれてあった。
「おほせうじばし」の標記がそれっぽい。
案内板など何もない中で
よくぞ見つけたものです。

そこから官庁街を抜けて



堺東の駅前の交差点に出ると、
歩道橋の下に立派な石碑を見つけた。



これは天皇御陵を案内する石碑で、
昨年歩いた「古墳に興奮」シリーズと記憶がつながって面白い。
こうしてブログを続けていると
いろんなところで過去がつながっていくなあと
今回は様々なシーンで実感した。

堺東の駅は賑やかなところである。



そこを過ぎて30号線を少し歩くと
街道は斜めにつながっていき、
街道らしい道となっていく。



これはそんな街道の入り口近くにある地蔵堂。



クネクネと住宅街を歩いていると、
左に立派な「榎宝篋印塔」がそびえていた。



フェンスの入り口が開いていたので、
中に入って写真をパチリ。



本来の宝篋印塔の趣旨を超えて、
街道をゆく旅人たちの
安全を願う信仰を集めたと由緒書に書いてあった。

その先にあったのが「永徳地蔵」。



七体の地蔵が安置されたお堂の横に、
今回ぜひとも見たかった
高野山女人堂までの距離を表す里程石が建っていた。



これは十三里石。

側面には黒い塗料で汚れているが
「南無大師遍照金剛」と刻まれている。



大師も遍照金剛もここでは
弘法大師すなわち空海のことを表し、
高野まで続く13本のこの里程石に出会うたびに、
遠路はるばる高野に向かう人々の信仰心を
一層駆り立てたことだろう。

安政4年(1857年)の建立だそうだ。



西高野街道をゆくということは、
この里程石を辿る旅でもあるわけです。

その先で街道は見事に左右に分かれていく。

その分岐点がこれ。



左は大和の国と難波(なにわ)を
東西につなぐ最古の官道 竹内街道。



いわゆる本来の国道1号だ。
この竹内街道は太子信仰の道であり、
伊勢参り、西国巡礼の道として
重要な街道とされてきた。

西高野街道はその分岐を右に進む。



中央環状線を榎歩道橋で渡ると





仁徳天皇陵にでる。



すでに古墳シリーズで歩いた道だ。
310号線の道しるべを見ながら



その頃から再び振り出したみぞれの中を
足早に三国ヶ丘の駅に向かったのでありました。



距離は5.5km、所要時間1時間30分の



あっという間の割に
中身の濃かった
「高野を目指して 堺中心部編」終わり~。