この度、同居していました父親、敏男が、2018年4月16日(月)に永眠いたしました。
【故 人】 橋本 敏男(はしもと としお) 1931年2月12日生 東京都出身
【逝去日】 平成30年4月16日 0:30(享年87歳)
【葬 儀】 通 夜 平成30年4月19日 18:00~
告別式 平成30年4月20日 12:00~
於)真宗大谷派 法専寺
【会葬御礼】
「本日は、父 敏男(法名 聞真院釋敏慧 )の葬儀に際しましてご多用のところご会葬いただきましたこと、父に代わり心からお礼申し上げます。ありがとうございました。
父は進行性の腎臓癌でした。昨年の秋には、本年2月87歳のお誕生日に運転免許証の書き換えをし90歳まで運転するのだと申すほど元気でしっかりしていたのですが・・・。昨年12月9日左大腿骨を骨折します。救急搬送、入院、手術、リハビリ期間を経て1月末に退院。入院中より、吐き気・食欲不振・下痢などの症状を訴えておりましたが、2月になり咳き込むことが多く、質の悪い風邪かと病院へ行くと、これは大事だといくつかの病院にて検査に回されます。最終的に大学病院にて、右腎臓癌に起因して、左右の肺、骨、骨折した左太もも肉腫に転移しいる末期の癌であり、父の年齢、体力を総合的に判断して、もはや治療するすべはなく、緩和ケアをお薦めいただくこととなりました。2月22日、家族の前で、自分の病・命の限りをお医者さまから告知を受けた父ですが、"う~ん"と唸った後、"先生、人間いつかは天に召されます。私は残された自分の命を有意義に過ごしたい。そのための支援をお願いします。"と宣言しました。
顧みて、父は何事にも実直に真摯に事にあたる男でした。几帳面なほどマメで、努力家でした。骨折で入院中は、日中リハビリルームでリハビリをするのですが、早朝より病室でリハビリの予習、夕方には復習と、早く歩けるようにと自主練習に励む姿は端で見ていて頭の下がる思いでした。また、退院の際は生まれて初めてのマイ杖をくるくると"チャップリンになっちゃった"とおどけてみせるなど、苦労をものともしない前向きで明るい人でした。自慢の父でした。
そんな父でしたから、自らの病に真っ向、闘うことができなかったのには忸怩たる思いがあったと思います。2月22日の告知から約2ヶ月弱、大学病院そしてホスピス入院中は、本人が一番辛かったはずですが、残される家族のこと、近しい方々のことばかりを慮る入院生活でございました。それ故、大学病院、ホスピスへお見舞を賜りました近しい方々には、"うれしいなあ、うれしかったよう"と申しておりましたことご報告いたし、息子として改めてお礼申し上げます。
加えまして、本日はこのような過大なお見送りを受けまして、故人もどんなにか喜んでいることと存ます。今後は、生前故人に接していただきましたと同様に、残された遺族にもご厚情を賜りますようお願い申し上げ、挨拶とさせていただきます。本日はありがとうございました。」
昨年12月より病に唐黷ス父。足が不自由で要介護支援の母親を携えての約4か月強の家族ぐるみの闘病生活でした。4月16日(月)未明、苦しむことなく眠るかのように息を引き取りました。14日(土)から容態が悪くなり病室に詰めっきりでの最後の看病でしたから、正直不謹慎ながら、天に召される父にホッとしたという思いがよぎったのも事実です。意識が薄れゆく中で、最後の最後まで話ができ、父の言葉を胸に刻み、看取ることができたことは幸いでした。今となっては、"感謝の思い"しかありません。父の旅立ちへのここ数ヶ月は、自分自身を見直す良い機会ともなりました。只々感謝。合掌。
【故 人】 橋本 敏男(はしもと としお) 1931年2月12日生 東京都出身
【逝去日】 平成30年4月16日 0:30(享年87歳)
【葬 儀】 通 夜 平成30年4月19日 18:00~
告別式 平成30年4月20日 12:00~
於)真宗大谷派 法専寺
【会葬御礼】
「本日は、父 敏男(法名 聞真院釋敏慧 )の葬儀に際しましてご多用のところご会葬いただきましたこと、父に代わり心からお礼申し上げます。ありがとうございました。
父は進行性の腎臓癌でした。昨年の秋には、本年2月87歳のお誕生日に運転免許証の書き換えをし90歳まで運転するのだと申すほど元気でしっかりしていたのですが・・・。昨年12月9日左大腿骨を骨折します。救急搬送、入院、手術、リハビリ期間を経て1月末に退院。入院中より、吐き気・食欲不振・下痢などの症状を訴えておりましたが、2月になり咳き込むことが多く、質の悪い風邪かと病院へ行くと、これは大事だといくつかの病院にて検査に回されます。最終的に大学病院にて、右腎臓癌に起因して、左右の肺、骨、骨折した左太もも肉腫に転移しいる末期の癌であり、父の年齢、体力を総合的に判断して、もはや治療するすべはなく、緩和ケアをお薦めいただくこととなりました。2月22日、家族の前で、自分の病・命の限りをお医者さまから告知を受けた父ですが、"う~ん"と唸った後、"先生、人間いつかは天に召されます。私は残された自分の命を有意義に過ごしたい。そのための支援をお願いします。"と宣言しました。
顧みて、父は何事にも実直に真摯に事にあたる男でした。几帳面なほどマメで、努力家でした。骨折で入院中は、日中リハビリルームでリハビリをするのですが、早朝より病室でリハビリの予習、夕方には復習と、早く歩けるようにと自主練習に励む姿は端で見ていて頭の下がる思いでした。また、退院の際は生まれて初めてのマイ杖をくるくると"チャップリンになっちゃった"とおどけてみせるなど、苦労をものともしない前向きで明るい人でした。自慢の父でした。
そんな父でしたから、自らの病に真っ向、闘うことができなかったのには忸怩たる思いがあったと思います。2月22日の告知から約2ヶ月弱、大学病院そしてホスピス入院中は、本人が一番辛かったはずですが、残される家族のこと、近しい方々のことばかりを慮る入院生活でございました。それ故、大学病院、ホスピスへお見舞を賜りました近しい方々には、"うれしいなあ、うれしかったよう"と申しておりましたことご報告いたし、息子として改めてお礼申し上げます。
加えまして、本日はこのような過大なお見送りを受けまして、故人もどんなにか喜んでいることと存ます。今後は、生前故人に接していただきましたと同様に、残された遺族にもご厚情を賜りますようお願い申し上げ、挨拶とさせていただきます。本日はありがとうございました。」
昨年12月より病に唐黷ス父。足が不自由で要介護支援の母親を携えての約4か月強の家族ぐるみの闘病生活でした。4月16日(月)未明、苦しむことなく眠るかのように息を引き取りました。14日(土)から容態が悪くなり病室に詰めっきりでの最後の看病でしたから、正直不謹慎ながら、天に召される父にホッとしたという思いがよぎったのも事実です。意識が薄れゆく中で、最後の最後まで話ができ、父の言葉を胸に刻み、看取ることができたことは幸いでした。今となっては、"感謝の思い"しかありません。父の旅立ちへのここ数ヶ月は、自分自身を見直す良い機会ともなりました。只々感謝。合掌。