おてんきぷらぷら

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黒田官兵衛 大河ドラマ館&歴史館

2014年10月28日 | NON
10月26日『ガンバ大阪vsFC東京〔J.League Division1第30節〕』にて大阪遠征。
翌27日、2012年1月に訪れた時に平成の大改修中にてその雄姿を拝むことができなかった『国宝 世界文化遺産 姫路城』を訪れました。姫路の街は「黒田官兵衛」一色。ということで、今年話題のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ゆかりの『ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館』&『姫路城(官兵衛の歴史館)』を拝観です。ドラマ館では撮影に使用された衣装やセット、関連映像など「軍師官兵衛」の魅力を、歴史館では、菊一文字の太刀拵(たちこしらえ)、甲冑、マント、合子形兜(ごうずなりかぶと)など本山コレクションをじっくり鑑賞することができました。
黒田官兵衛については、以下、ひめじ官兵衛プロジェクト公式HPより。
黒田家は官兵衛の祖父・重隆の代に姫路に移り住み、秘伝の目薬を広峯神社のお札に付けて売り、大きな財を蓄えました。その後、播磨の有力豪族であった御着城の小寺氏の家臣となり、姫路城代を任されます。「姫路城史」 によれば、その時代にも現在の姫路城と同じ場所に、官兵衛の祖父・重隆と父・職隆が築いた小さな城があり、官兵衛はそこで1546年(天文15年)11月29日に誕生。その日は一面の雪景色だったと「黒田家譜」は伝えています。官兵衛は、その聡明さが早くから認められ、弱冠16歳で禄高80石と破格の待遇で近習に、22歳で家老となりました。大きな転機となるのが秀吉との出会いです。播磨の豪族が、毛利方、織田方のどちらに付くかで揺れ動く中、織田方に付くよう主君を説得。信長の命で秀吉に従うこととなった官兵衛は、毛利攻めに向かう秀吉に姫路城を献上しました。それ以降、秀吉の懐刀として、播磨平定や中国攻め、四国・九州征伐など、数々の合戦で名をはせます。中でも、備中高松城を水攻めしている時、本能寺の変により信長の死去が知らされ、肩を落とす秀吉に、今が天下取りのチャンスであると進言し、中国大返しを実現させました。これらのエピソードからも、時代を見通す慧眼の持ち主であったことがうがかえます。また、戦国時代にあって、人の命をむやみに奪うことを嫌った官兵衛は、実戦だけでなく数々の戦で折衝にあたります。その中で、説得に赴いた有岡城で1年以上の間、土牢で幽閉されたことも。それでも秀吉を裏切らず忠義を貫いた信念の人でした。各地の戦陣で活躍した官兵衛は、1587年(天正15年)に秀吉の九州征伐の論功行賞で豊前・中津(大分県・中津市)へ移ります。黒田家筑前52万3千石の礎を築き、59歳でこの世を去りました。