おてんきぷらぷら

ホームタウンは三鷹。気ままな旅・街散策にFC東京。

昭和60年8月12日国道18号にて

2006年08月11日 | NON
9日国立競技場。オシムJAPAN、見てきました。台風8号接近で心配でしたが雨シャワーはあったものの最高の試合でした。バックスタンドの最前列の席で選手の声が聞こえそうな距離、ゲームを満喫し大変印象深い一日に・・・。今後の日本代表戦も楽しみです。

さて、またあの日が来ます。8月12日。
記念日以外で1年の内に印象に残っている日はどのくらいあるものでしょうか。私にとって・・・

第一報は、昭和60年8月12日18:50頃。短い夏休みを東京で過ごしピカピカのマイカー(ファミリアターボ)で勤務地長野市へ帰るため自宅を出るところでした。TVの臨時ニュース:日航123便行方不明。

当時、関越自動車道は前橋が終点で、長野方面は藤岡JCTで高速を降りて国道17号バイパスを高崎へそこから18号へ左折し碓氷峠越えがコースでした。

高速ではアルファインのカーステを大音量で全開バリバリ(昔の表現ですね)。飛ばしていたので20:30前には17号から18号に入って気がついたのです。異様なムード。パトカー。消防車。自衛隊車。新聞社の車。右往左往しているのです。人が歩いていないのです。モヤだか霧もでて映画のワンシーンのような雰囲気なのです。

カーステはNHKへ。21:00のニュース(もう特別番組になっていましたが)「運輸省発表、日航123便は埼玉長野県境でレーダーから消失」から「長野群馬県境墜落か」に変わっていました。乗員乗客520名強。それから乗客のお名前をお一人づつずーっと読み上げていきます。車は18号を安中から磯部・松井田へ。緊急自動車が追い抜いて行ったかと思うと戻ってきたりラジオからの情報と相まって緊張感で胸いっぱいになってきます。「長野佐久方面山中か」情報は変遷。

碓氷峠は横川付近から深い霧の中。緊急自動車の赤ランプがボーっと・・・ハンドルを握る手に力が入ります。その頃から想像を絶する大惨事に、山の精霊のためか、車中という閉鎖空間のためなのか、涙がボロボロ流れます。10:00をまわった頃は、18号を軽井沢から信濃追分・御代田。今度は緊急自動車が対向車となってすれ違います。消防団の車はかなりの北信地区の名が、管轄を越えての大移動。涙がとまりません。ラジオでは相変わらず乗客のお名前を淡々と読み上げています。そのまま11:30長野着までとにかく123便の無事の不時着を願っていました。ハナミズナミダをすすりつつ。

この日のドライブははっきりと、不気味なほどはっきりと記憶に残っているのです。時間の経過と見えている景色(パトカーの警官や消防団車の運転手の顔、そのナンバープレートまで覚えているように感じます。)も忘れられません。毎年追悼のニュースを見聞きする度にますます記憶は鮮明となるようです。自分としては現場の当事者なのです。他人事ではもはや無いのです。

世界航空史上最悪の乗員乗客520名の命を奪ったこの事故が亡霊のようにその後も身近な話題。都城勤務時代、大変お世話になった田中さんは自衛隊演習の誤射&米軍陰謀説論者で酒席では必ず熱く語りあいました。山崎豊子の『沈まぬ太陽』。そして今春6月文庫になった横山秀夫の『クライマーズハイ』。熟読です。あの5時間弱にわたる事故の当事者としては目頭を濡らさずにいられません。

8月は原爆の日、終戦記念日と命を考える日が多い月ですが、自分にとってはディープインパクトは8月12日なのです。本当に印象深く奇妙な経験をした特異日ナンバーワンです。
絶対に機会があれば御巣鷹の尾根:高天原へ行ってきたいと思います。あの日あの時あの場所で、さだめだと感じています。犠牲となった皆さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。