かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

核は孫子の理想を実現した最初の兵器なのかもしれません。

2009-08-15 22:39:07 | Weblog
 8月15日と言うと日本人には特別な日ということで、靖国神社に参ったとか参らないとかをはじめ、色々な話がマスコミをにぎわせます。私はそういうことをやるなら9月2日にしろ、と前々から主張しているわけですが、まあそれはともかくとして、戦後64年を経て、少しずつ日本も変わってきているのかな? と感じるような話も出てきているようです。たとえば非核3原則という国是がありますが、これも2,30年前でしたら見直し論なんて口にすることすらはばかられるような一種のタブーだったように感じますが、今はかなりおおっぴらにそういう話が出てきて、とりあえずこれについて議論してみよう、という芽が吹き出しているような気がしますし、日本も核を保有すべし、という話も、ちらほらと見ることができるようになりました。そのこと自体、タブー視して思考停止に陥るよりはよほど健全で理性的な事だと思いますし、願わくば、もっと広範な国民的論議になって、この特別な日以外でも、国の方針として日常的に議論を戦わせるような世界になってくれないか、と期待しています。
 一方で、何故核だけがかくも特別視されるのか、ということに、素朴な疑問もないではありません。確かに一発で都市を破壊する驚異的な攻撃力や爆発以後も長期的に人々を苦しめる残留放射能など、それまでに登場した兵器に比べると明らかに隔絶した異質の兵器と言う印象はあります。でも、1発で10万人殺せる兵器は特別で、1発で10人殺せる兵器は普通、という感覚もどうなんだろうな、と思うのです。たとえば広島長崎でざっと20万人の方が亡くなっていますが、東京大空襲でも10万人以上の人が一夜にして殺されています。焼夷弾38万発と言う大量爆撃の結果ですが、それだけの国力があれば、何も核兵器でなくとも民間人を万人単位で殺傷する方法は現に存在するわけです。
 でも、現実問題として、このわが国に使われた2発以降、戦争はあちこちで起こっているのに核兵器がその戦場で使われたと言う例はもちろん一つもありません。それどころか、インドとパキスタンのように、不倶戴天の敵同士として争い続けてきた国が、互いに核兵器を持った途端いがみ合いをやめ、ともかくも話し合いをするようになるなど、単なる兵器が国同士の関係に大きな変化を与えるほどの影響力を持つようになっており、過去このような絶大な効力を発揮した兵器は存在しなかったことを思えば、やはり核というのは特別なものと認識してしかるべきなのでしょう。
 その昔、戦艦大和を建造した日本海軍は、この大和の存在をアメリカに公表すれば、アメリカはわが国との戦いを躊躇するのではないか、というような話があったと何かで読んだ記憶がありますが、つまるところ軍事力と言うのはそういうもので、孫子も戦わずして勝つのを兵法の上策としているように、いかに「本番」をやらずに済ませるか、と言うのが軍事の究極の目標なのでしょう。その理想的な戦い方を初めて実現したのが核兵器だった、と言うように考えてみると、非核三原則、なるものももう少し検討の余地があるのではなかろうか、と私には思えます。
 オバマ大統領の理想は理想として高々と掲げていただき、また我々もそれを応援するとして、その理想実現までの過程の中で、色々なオプションを検討し、現実問題とのすりあわせをしていくのが政治の役割でしょうし、願わくばそういう議論のできる人が国会に集まって欲しいと思います。
 それにしても昨日は民主党に入れようか、なんて書きましたけど、田中真紀子が民主入りした、と聞いて、やっぱり民主党には入れられないな、と感じました。月末の選挙、本当にどこに一票を行使したものか、悩ましいですね。


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