かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

今に第二外国語として「20世紀日本語」なんていうのが出てきたりして

2006-02-18 22:24:40 | Weblog
 とある雑誌で100年前のニュースの記事というのを読みました。その中の一つに、日露戦争時の日本の主力艦をはじめとする世界中の戦艦をまとめて旧式艦にしてしまうほどの画期的な性能を示した戦艦、「ドレッドノート」が1906年、英国で建造され、その後の戦艦の呼び名として、同クラスを弩級、これを超える性能の艦を超弩級と呼ぶようになった、という記事がありました。まあなんてことはない、私などには常識に過ぎない話でしたが、編集後記を読みますと、語源まで知っているのは編集部でたった一人、一人はそもそも「弩級」という言葉すら知らない、と書いてありました。それに加えて、「超弩級」はワープロで即変換されるけれど、「弩級」は変換できない、と書いてありましたので、試しに今こうして日記を書くのに試してみますと、確かに「弩級」は出てきませんでした。それどころか、「ど」だけ選択して変換しても、「弩」の字が選択肢に出てこないのです。早速漢字登録しましたけど、弩の字すら出ないワープロ辞書って、どうなっているの? と思ってしまいます。
 この雑誌は一般向けの科学情報専門誌でしたけど、弩級や超弩級の言葉そのもの、あるいはその語源くらいは、日本人一般の教養として、雑誌の編集に携わるレベルの人くらいは知っていなければいけないのではないだろうかと思います。私としては、100年前の戦艦のスペックをいちいち知る必要はないと思いますし、せっかく日本で新造しつつあった超三笠級戦艦「薩摩」が、たちまち旧式艦に陥らされてしまったことなんていう歴史の知識についても特には不要だと思うのですが、かつて色々工夫して生み出されてきた言葉を、言葉の専門家集団であるはずの方々が大事にしていないような気がするのです。
 弩級に限らず、私の周囲でも、例えば「悠遠」とか「悠久」いう言葉を使いますと、どういう意味だか判らないと言う人がおります。唯一歴史が財産のはずの奈良県民においてさえこの程度なのかと思うと、そのほかの人々はいったいどうなのでしょう。私よりもずっと若い世代の人が、私がカラオケで歌う「愛国行進曲」や「空の神兵」を聞いて、「同じ日本語とは思えない。歌詞が理解できない」というのは、時代特有の独特の言葉遣いや節回しもありますからまあしょうがないかも、と思わないでもありませんが、そう遠からぬ先には、夏目漱石や芥川龍之介の作品も、平家物語や源氏物語なみに山のような注釈と現代語訳をつけないと読めない人なども出てきそうな気がします。日本語という一つのツールが、世代間で共有できないというのは、考えてみると恐ろしいことです。我々人間は意思の疎通の大半を言葉にたよるのですから、言葉が通じないと言うのは、考えや思いを伝えあうことができないと言うことになります。昨今の異常な事件の頻発も、そんなコミュニケーションの阻害が下敷きにあったりするのではないでしょうか? 学校で株取引を教えているところがあるとか、今回のライブドア関連でも株式市場に手を染めている学生がいるとかありましたけど、そんなことよりももっと国語を重視し、小さいうちに古典漢文も含めて古今の名文を暗唱させる位のことをしていかないと、本当に「吾輩は猫である」の現代語訳版が必要な時代になってしまうんじゃないかと心配になります。
 そしてそれよりなにより、サイトに公開したりコミケで販売したりしている私の作品って、実は恐ろしく読みにくいんじゃなかろうか、と初めて疑いを抱きました。私自身は読みやすく、面白くと思い、自分で読む限りにおいてはまあ合格としてよいかな、というレベルの文章を綴っているつもりなのですが、結構古くさい言い回しや「弩級」が読めない人には辞書が必要かもしれない漢字なども頻繁に使っているんじゃないかと思うのです。といって自分で読み返してみても、どのあたりがわかりにくい可能性があるかは自分では判りませんし。ゆゆしき問題ですね、これは(苦笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする