風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

夏目漱石 『草枕』と明治39年10月の手紙

2007-11-19 23:43:42 | 

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。……
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。……

(夏目漱石 『草枕』)

あまりに有名な、そして私の大好きな『草枕』の冒頭。
この草枕が世に発表されたのは、明治39年9月。
この一ヶ月後、漱石は友人に次のような手紙を書いています。

明治39年10月23日 狩野亨吉宛

御存知の如く僕は卒業してから田舎へ行ってしまった。・・・・・・当時僕をして東京を去らしめたる理由のうちに下のことがある。――世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚い奴が他ということを考慮せずして衆を恃み勢いに乗じて失礼千万な事をしている。こんな所にはおりたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しよう――これが大なる目的であった。然るに田舎へ行って見れば東京同様の不愉快な事を同程度において受ける。その時僕はシミジミ感じた。僕は何が故に東京へ踏みとどまらなかったか。彼らがかくまでに残酷なものであると知ったら、こちらも命がけで死ぬまで勝負をすればよかった。・・・・・・第一余が東京を去ったのからして彼らを増長せしめた原因を暗に作っている。余は余と同境遇に立つもののために悪例を開いた。自らを潔くせんんがために他人の事を少しも顧みなかった。これではいかぬ。もしこれからこんな場合に臨んだならば決して退くまい。否進んで当の敵を打ち斃してやろう。・・・・・・僕は洋行から帰る時船中で一人心に誓った。どんな事があろうとも十年前の事実は繰り返すまい。今までは己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかった。己れを信頼した事が一度もなかった。朋友の同情とか目上の御情(おなさけ)とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しようとのみ生活していた。これからはそんなものは決してあてにしない。妻子や親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れるのである。それでなくては真に生活の意味がわからない。手応(てごたえ)がない。なんだか生きているのか死んでいるのか要領を得ない。余の生活は天より授けられたもので、その生活の意義を切実に味わわんでは勿体ない。金を積んで番をしているようなものである。金のありたけを使わなくては金を利用したといわれぬ如く、天授の生命をあるたけ利用して自己の正義と思う所に一歩でも進まねば天意を空(むなしゅ)うする訳である。余はかように決心してかように行いつつある。今でも色々な不幸やら不愉快がある。思うに余と同様の境遇に置かれた人ならば皆この不幸を感じこの不愉快を受くるであろう。しかして余はこの不愉快を以て余の過誤もしくは罪悪より生じたるものとは決して思わざるが故にこの不愉快及びこの不幸を生ずるエヂェントを以て社会の罪悪者と認めてこれらを打ち斃さんと力(つと)めつつある。ただ余のために打ち斃さんと力めつつあるのではない。天下のため。天子様のため。社会一般のために打ち斃さんと力めつつある。しかして余の東京を去るはこの打ち斃さんとするものを増長せしむるの嫌(きらい)あるを以て、余は道義上現在の状態が持続する限りは東京を去る能わざるものである。

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