風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

榎木孝明 『心は風のままに』 2

2007-11-11 02:53:05 | 



 
 常識人になることは、よく言えば恥ずかしい思いをせずに社会生活を営めるということである。社会生活の和をみださないためにも、国家を一つにまとめ運営していくためにも常識は不可欠なものであろう。だがちょっと考えてみると、今我々が信じている常識なるものは、ほんの数十年か長くても数百年前の誰かが考えたものに過ぎないのではないか。そしてそれは日々変化していくものであり、今日の非常識が明日の常識に成り得て、逆もまた真である。・・・・・・

 常識の持つもう一つの弊害は、人間の持つ無限の可能性の芽を摘んでしまいかねないことであろう。一人の人間に本来の才能が百あるとすれば、一生の間でその中の三つか四つ位しか使っていないであろうというのが昔からの私の考えである。眠っている才能は常識という意識の枠に閉じ込められている以上、決して花開くことはあるまい。こうすればああなるという常識にこだわると、まだ幾つもあるかも知れない答えに初めから蓋をしてしまうことになりかねない。無限にあるはずの選択肢を一つだけに限定したものが、常識という名を借りて、人間をほんの小さな存在にしてしまっている。その枠が取り払われた時、まさに常識をくつがえす世界が広がるに違いない。どうせいつか誰かが創った常識なら、今日自分が新しい常識を創り出しても何ら不思議はないはずである。

 では常識にまみれてしまった社会の中に長年生きて来た我々が、素直な心を取り戻すにはどうすればよいか。それはあらゆる感情の中に没入しないことである。いったん入ってしまったとしても、そこからぬけ出してその時の自分の感情を見つめてあげる第二の目を持つことである。・・・・・・

  ある感情を持ったその時に、もう一人の自分が俯瞰してその感情を持った自分を見つめてあげるのである。それもああ自分はこんな感情を持っているのかと、他人事みたいにただ見つめるだけでよい、こんなにも悲しんでいる自分、怒っている自分をただ見つめているうちに、やがて波の立たない静かな水面のごとく、感情の原点のような状態に落ち着いてくる。そうなった時こそ、素直な心になった時なのである。悲しみや怒りがまるっきり消えてしまわないまでも、その感情に囚われた自分を見ることで、如何に自分が平常心からほど遠い所にいたのかが如実に実感できるのである。

(榎木孝明 『心は風のままに』)


この本のあとがきで榎木さんは「この私の気持ちを代弁してくれているのがまさしく映画ガイアシンフォニーである」と言っています。
榎木さんは映画地球交響曲(ガイアシンフォニー)でナレーターを担当されました。

さて。
私と龍村監督作品との最初の出会いは私が15歳のとき、もう15年以上前、NTTデータスペシャル『宇宙からの贈りもの』(1992年)という単発のドキュメンタリー番組でした。
そしてその第二弾『未来からの贈りもの』(1995年)で私は写真家星野道夫さんに出会い、それは十数年を経て私をアラスカ一人旅へと導きました。

ガイアのこと、星野道夫さんのこと、アラスカ旅行のことなどは、とても簡単には語りつくせないので今後もこのブログで書くことはないかもしれませんが、すばらしい映画です。
自主上映なので機会は多くはありませんが、ぜひまずはDVDではなく映画館でご覧ください。
地球、時間、常識に対する今までの考えがきっと変わります。

ちなみに私の場合は「考えが変わった」というのとはちょっと違いました。
このガイアの考え方は私が生まれたときからずっと自然に感じてきたものだったからです。
けれどそれは、親や周りの友達と共有することは難しい感覚でした。
だから上記スペシャルをテレビで偶然見たとき、私は「仲間をみつけた」と思ったのです。
龍村作品が私に与えてくれたもの、それは「魂の仲間をみつけた安心感」でした。
ガイアシンフォニーのファンの方には、そういう人もきっと多いのではないかな。
今年の夏、「地球交響曲第六番」を観にいったとき、パンフレットに龍村監督からサインをいただきました。
そこに書かれていたのは、「魂の友へ」という言葉でした。


※写真:(上)ウィッテアの氷河 (下)デナリ国立公園 アラスカ旅行より


 

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