映画「アイアムレジェンド」のコメント欄で、原作本と藤子不二雄の「流血鬼」についてのコメントがあり、ワタクシも興味を持ちましたので読んでみました。他の本を読んでいたので随分時間があいてしまいましたが。
さて、まず「アイアムレジェンド」の原作本ですが、ワタクシは映画のほうが好きでした。映画のほうが動きが激しかったし、ロバートネヴィルが医師という設定になっていて、彼の研究が進んでいたので、その部分の面白さがあったと思います。犬と行動をともにしているという点と、最後に登場する女性の部分は原作にインスパイアされてはいるものの、方向性はまったく逆と言ってもいいくらいに変更されていますね。「犬」と「女性」のエピソードは原作のほうが良かったかなと思いますが、それも原作での“動き”がほとんどその2つのエピソードにしかないからそう思うのかなとも思います。「地球最後の男」が原作に忠実なのかどうか知らないんですが、もし忠実だったとしたら、前半で寝てしまったという人がいるのもうなずけます。(原作が面白くないという意味ではなく動きが少ないので)今回の「アイアムレジェンド」のほうは原作本を完全に現代のハリウッド映画に変更したということかと思います。その分原作のもつ雰囲気は壊れてしまったのかなと。心理サスペンスをアクション映画に変えた感じですね。原作のファンの人にとっては悲しい変更だったのかもしれません。ラストも全然違いますしね。ラストに関しては特にどちらが好きというのはありません。原作のラストにはどう考えてもハッピーな気はしませんが、もしかしたら、そこから新しい人類が始まり、ロバートネヴィルのような旧人類が悲観する必要のない世界が生まれるのかもしれません。
「流血鬼」ですが、これもコメント欄で書かれていますが、ワタクシはカルト的なものの怖さを感じました。あれを“ハッピーエンド”と称する方もいらっしゃるのかもしれませんが、ワタクシには“ゾッとするエンディング”でしかありませんでした。コメント欄で通りすがりの藤子ファンさんが書かれているように能力が進化した新人類の仲間に入れた主人公のハッピーエンドというふうに捉えることはできませんでした。もちろん、色んな解釈があってしかるべきですし、作者の意図からすればワタクシの解釈は間違っているのかもしれませんが、やはり、カルトに入らされて、洗脳されると“この集団は素晴らしい”となってしまうというように受け取りました。
どちらも興味深い作品ではありました。今度は映画「地球最後の男」を見てみないといけないですね。
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との事ですが通りすがりの藤子ファンさんが言っておられるように、
>もし自分以外の全人類がカルトだった場合、それは逆に自分自身がカルトだということではないでしょうか。
という事です。つまり人の価値観は立場によって変わるという事を言っているのです。
自分の立場から、新人類や流血鬼の流血鬼を悪と決めつけいたのが(まさにcokyさんのおっしゃっている事)がその新人類の立場に立ったときに価値観が変わるという事です。
個人的には昔から戦争(戦争だけじゃなくけんかなどもですが)とはこういった価値観の違いが引き起こしていると考えます。カルトを一方的に悪と考えたり(僕もカルトは大嫌いですが)アルカイダを悪と考えたり、タバコを吸う事を悪と考えたり、クジラ漁を悪と考えたり、常識とは立場が変わるとまさに常識はずれになるんです。
相手の立場に立って物事を考えるという事は難しい事で、大切な事だという
そういった重厚なテーマを描いていた原作なのにアイアムレジェンドではただのヒーローものになっているのは残念です。
なによりワタクシは「もし自分以外の全人類がカルトだった場合、それは逆に自分自身がカルトだということではないでしょうか」という考え方とは違う考えを持っています。この理論を通ってしまうと数で勝るほうが正しいということになりかねないからです。
もちろん、人間の価値観や常識は立場によって変わるでしょう。それが洗脳によるものなのか、信念によるものなのかは本人さえ分からないことがあると思います。
ワタクシの意見も118さんの意見も多様性として受け入れられるべきではないでしょうか。
それは「流血鬼」でも同じだと思いますが。
>この理論を通ってしまうと数で勝るほうが正しいということになりかねないからです。
現実的に、そうであり、そうであることを気づかせ、少数派になってしまった現在の多数派に価値観の相対性を気づかせるところが、小説の「センス・オブ・ワンダー」な部分かと。
この数の論理が正しいかどうかは、別問題で、小説なり「流血鬼」なりを読んだ人が考えるべき問題でしょう。
正直、時間が経ってしまっているので細かい部分は忘れてしまいました。すみません。
少数派になったとき初めて、多数派が価値観の相対性に気付くということなのですね。
それはよく分かります。
相対性というのは正当性ではないので、「数で勝るほうが正しい」ということが「現実的にそうである」ということにはならないとは思います。
多数派が多数派であるから正しいわけじゃないということに気付くということは大切なことだし、それがこの物語のメッセージなのだとしたら、ワタクシの言っていることもえまのんさんの言っていることも同じととらえることができるのでしょうか。