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オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻

2012-07-12 01:37:47 | 日本史

 

この日の大分が今回の旅の象徴のような荒天でした。
朝からかなりの雨で自転車での移動を躊躇するぐらいのものだったのですが、しかし目的地にはバスや徒歩では無理なものも多かったために頑張るしかありません。
竹田に続いてレインコートにレインパンツを着込んでの70キロ超の自転車による移動は、おそらくは今後も含めての最長不倒になると思います。

まずは大分駅前にある大友宗麟の像ですが、しかし空模様は晴れです。
それもそもはずでこの写真のみが二日目に小倉に向かう前に撮ったもので、しかし前日の竹田の雨滴がレンズに残っているのに気がついていなかったのは失態でした。
やはり首から十字架を提げて、また刀を杖代わりにしているオーソドックスな宗麟で、もうこのイメージが脳裏に焼き付いて離れません。

雨の中をまず向かったのは長宗我部信親の墓で、長宗我部フリークですから外すわけにはいきません。
片道15キロほどですので前日の臼杵での大友義鑑の墓と似たような距離だったのですが、かなりの雨の中でしたので難渋をしました。
比較的に平坦な道だったのでそういう意味での苦労はなかったのですが、しかし最後の最後にはかなり長い坂道を登らなければならなかったのは産みの苦しみだったのでしょう。
たどり着いたときの喜びは思わず叫んでしまったほどで、周りには誰もいなかったので助かりました。

長宗我部信親は元親の嫡男で、文武に秀でた武将として家中の期待を一身に集めていました。
しかし豊臣秀吉の九州征伐の先鋒隊として十河存保らと出陣をした際に軍監だった仙石秀久の軍功を焦っての暴走に引きずられる形で戦場で孤立をしてしまい、元服の際に織田信長から与えられた左文字の銘刀がボロボロになるぐらいに奮闘をしたものの23歳の若さで討ち取られてしまいました。
このときに桑名親光や本山親茂らも戦死し、その後の家督騒動に絡んで吉良親実や比江山親興らといった一族が粛正されるなどして長宗我部氏の力は著しく落ちましたので、この信親があまりに早く逝ってしまったことが惜しくてなりません。

近くには奮戦してちぎれんばかりだった信親の鎧が埋められたと伝えられている、鎧塚があります。
おそらくは伝承に過ぎないのでしょうが、それだけ信親の戦いぶりが壮烈なものだったのでしょう。
700人余りだった信親の部隊の一人と欠けることなく討ち死にをしたことに、島津氏で鬼武蔵と怖れられた新納忠元も敬意を表したそうです。

この長宗我部信親が逝った戦いは戸次川の戦いと呼ばれていますが、その発端は島津氏が大友氏の敦賀城を囲んだことから始まりました。
敦賀城の城主だったのが利光鑑教で、出家をした際の宗魚の号の方が有名です。
こちらは利光氏の祈願寺であった成大寺で、利光宗魚の墓があります。

島津氏の大軍を相手に奮戦をした宗魚でしたが、戸次川の戦いの前に敢えなく討ち死にをしてしまいます。
逆に言えば城主であった宗魚が死したことで落城の危機にされされた敦賀城を守るための戦いが、戸次川の戦いのきっかけとなったとも言えます。
これは敦賀城が落ちれば大友氏の本拠である府内が直接に狙われる危険があったことが理由で、しかし肝心の大友義統、宗麟の嫡男ですが、その戦意は低かったとも言われていますので援軍として参じた豊臣軍、つまりは長宗我部氏や十河氏からすればいい迷惑だったことでしょう。

その戸次川古戦場には場所を示す看板が立っているだけで、その激戦を思わせるものは当たり前ですが何も残っていません。
そもそも戸次川はこの戸次付近に流れる部分をそう呼んでいただけで、今も昔も本来は大野川です。
ざっと見た感じでは軽く100メートルは超えるであろう川幅がありますので、調子に乗って渡れば進退窮まるのは目に見えています。
一部には四国勢の勢力を削るために敢えて無謀な戦いを挑んだとも言われていますが、これだけの失態をして改易をされながらも仙石秀久は数年後には大名として復活をしましたので全くない話でもないかなと、そうなれば長宗我部フリークとしては腸の煮えかえる話であることは言うまでもありません。

川に沿って走る国道の脇に、長宗我部信親終焉の地の碑があります。
これは気がつかない方が不思議なぐらいなのですが、なぜか見つけるのに一時間以上もかかりました。
相当な雨で人が歩いていなかったことで場所を聞くことができなかったという理由もありましたが、あまりの雨に気持ちが焦っていたこともあったのでしょう。
何はともあれ無事に目的の全てをクリアしましたので、少しだけ気が楽になりつつ大分市街まで戻ることとなりました。

その大分市街で最初に目についてしまったのが、道路に挟まれたところにある瀧廉太郎終焉の地です。
瀧廉太郎は華々しく活躍をしたかと思いきや、僅か23歳で結核のために亡くなっています。
その最後の場所が府内町で、ここに自宅がありました。

ほど近いところに、フランシスコ・ザビエルの像があります。
このポーズを見て、前回に訪れたときに三脚のケースを十字架に見立てて同じポーズをして写真を撮ったことを思い出しました。
そのときは今回とは違って晴天でしたので人通りも多く、この怖いもの知らずは齢を重ねても変わりはありません。

いよいよ日本100名城の府内城跡です。
豊後の中心地とも言える府内の城ですので大友氏の居城と思いがちですが、築いたのは福原直高です。
同じ府内に大友館がありましたので大友氏の本拠であったことは間違いありませんが、しかしあくまで館であり城郭ではありません。
この府内城は関ヶ原の戦いの直前から築城が始まったものの西軍に加わった福原直高が改易をされたために、現在の形にしたのは府内藩を興した竹中重利です。
重利は竹中重治の従兄弟であり、またその妹を娶ったことで義兄弟でもあります。
こちらは着到櫓で、1965年に復元をされました。

着到櫓は文字どおりに城に着いた者を出迎えるような場所に位置していますので、そこに大手門が連なっています。
よってそのまま城内に入りたい誘惑に駆られましたが、何とかこらえて時計と反対回りに回ることとしました。
写真は上から平櫓、二重櫓、人質櫓、西南隅二重櫓ですが、このうちで遺構なのは人質櫓だけです。
他は着到櫓と同時期に復元をされたものですが、特に違和感はありません。
これで天守閣があればもう完璧なのですが、やはりそこまでを一度に望むのは無理なのでしょう。
少しずつでも現状復帰の方向に向かってくれれば、残り長い人生でもありませんが気長に待つことができます。

そう思えるのはこの廊下橋が1996年に復元をされたからで、きっといつかは天守閣がそびえる日が来るだろうと期待が持てます。
かなりの雨で自転車を放置するのが躊躇されましたが、せっかくですのでしっかりと往復を渡らせてもらいました。
ただ中の灯りが電灯なのがちょっと興ざめで、もちろん火の用心ですから仕方のないところではあるのですが、それであれば無灯でもよかったのではないかと思います。

廊下橋の脇には慶長の石垣がありました。
府内城は先の福原氏、竹中氏、日根野氏、そして大給松平氏が城主となりましたが、慶長は1615年までですから福原直高か竹中重利のときのものとなります。
必ずしも築城当時の石垣が残っているわけではなく、改修によって失われることもままありますので、よってこうやって特別に展示がされているのでしょう。

何かが足りないと暫く考えて、ようやくに気がついたのが宗門櫓です。
こちらも人質櫓と同じく当時の遺構で、これを見落とすわけにはいきません。
城の外側から見ればかなり地味な感じですが、内側から見るとしっかり二重櫓となっています。
雨が全盛で見るも無惨な写真となってしまったことで、ご紹介できないことが残念至極です。

外側からの堪能も終わりましたので、いよいよ城内に踏み込みます。
迎え入れるのは大手門で、いわゆる櫓門となっています。
こちらも他の復元櫓と同じく1965年の復元ですので、ちょっと親近感がわいてくるのは個人的な事情であることは言を俟ちません。

ここにも当たり前のように大友宗麟の胸像がありました。
府内城は大友氏の居城ではありませんでしたので本来は違和感がありありなのですが、それを感じさせない存在感です。
他の像と違うのはおそらくは洋装であることで何となくこちらの方がしっくりとしますし、一方で顔つきが似た感じなのはやはり共通のモデルがあるのでしょう。

府内城には四重の天守がありましたが、火災で焼失をした後は再建をされることはありませんでした。
経済的な問題が大きかったのでしょうが、江戸期ともなれば城郭としての天守閣はもはや不要ということだったのでしょう。
城内に遺されている天守台の規模からすればそれなりの天守閣だったと思いますので残念ではありますが、こればっかりは仕方がありません。
トップの写真はその天守台を登ったところで、天気さえよければのんびりと時間を潰すには最高の場所だと思います。

雨は止むどころか雨足がむしろ強まったことで心が折れかけましたが、近場だけでも回っておこうと向かったのが浄土寺です。
ここには徳川家康の孫にあたる、松平忠直の廟所があります。
忠直の父は家康の次男の秀康であることから本来であれば自らが将軍だったはずとの思いがあったらしく、そのことで叔父の2代将軍の秀忠との仲は悪かったと言われています。
しかし秀忠は娘を娶せるなどして兄の秀康と同様に一定の配慮をしますが、粗暴な忠直の行状が改まらないために隠居を命じて府内に配流としました。
忠直は出家をして一伯と名乗りここ府内で30年近い謹慎生活の後に56歳で病死をし、菩提寺とした浄土寺で眠っています。

浄土寺の近くにある神宮寺浦公園、公園と呼ぶにはあまりに狭い場所ですが、ここにも大友宗麟の像がありました。
宗麟が南蛮貿易をした跡地ですので銅像があっても不思議ではないのですが、それにしても同じようなものばかりで食傷気味です。
同一人物かよ、みたいなものもどうかとは思いますが、さすがにここまでくればやり過ぎでしょう。
もう少しバラエティさが欲しかったかなと、いろいろと事情はあるのでしょうがちょっと残念ではありました。

最後は円寿寺で、日根野吉明の廟所があります。
吉明は美濃斎藤氏の重臣だった弘就の孫で、竹中氏が改易となった後に府内城に入りました。
城下町の整備と治水事業に大きな成果を上げたことで名君として称えられましたが、無嗣断絶で日根野氏は一代で途絶えています。
死の直前に末期養子を申し出たものの家中の足並みが揃わなかったことで幕府に認めて貰えなかった、という話もあるようです。


【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇

 


小野は満点

2012-07-11 23:32:41 | 千葉ロッテ

今季10度目の引き分けは例によって勝ちに等しいか負けに等しいかを考えてしまいますが、異論はあるでしょうが勝ちに等しい引き分けだったと思います。
結果的に延長12回までいきましたので中継ぎ陣が4イニングも投げることになったのは痛手ではありましたが、それも小野が8回も投げてくれたからこそです。
もしいつもどおりに80球程度での降板となっていれば途中で誰かが躓いたと思われますので、査定で言えば小野は白星も同然でしょう。
珍しくも藪田が三者凡退で切り抜けましたし、こうなれば同じベテラントリオの一角である渡辺俊も負けてはいられません。
ミリオンダラーズの一員として薄給の若手投手に休息を与える、そんなピッチングに期待をします。

それにしても小野がここまで投げてくれるとは思いもよらず、勝利こそ手にできませんでしたがもちろん満点です。
4回45球からの中4日ですからこの粘投は望外の喜びで、文句のつけようがありません。
久しぶりにシュートを多投した序盤とカットボールを多めにした中盤以降と里崎のリードも冴えていましたし、小野もストライクゾーンでの勝負で常に先手を取れていました。
見逃しの三振が多かったことが、今日の小野のピッチングを象徴していたと言ってもよいでしょう。
これで九連戦のトリを飾るのは確実でしょうから、両目を開ける好投を楽しみに待っています。

九回からは継投に入りましたが内がふらふらとしただけで藪田と益田、そして大谷はピシャリと抑えての引き分けです。
あっさりと5球で終えた藪田にはもったいないと思ったりもしましたが、休養があったからこそであれば今後の使い方の指針になりそうです。
昨日に面倒なことになった益田は今日の三者凡退で気持ちの整理がついたのではないかと、そして大谷は貫禄のピッチングでした。
あるいは次のソフトバンク戦で先発があるかと思っていた大谷ですが、順番としては最後に投げましたのでまだまだ可能性はありそうです。
内はちょっと深みから抜け出すには時間がかかりそうで早坂の好守に救われた形になりましたが、こういった結果がまた成長の糧になりますので次を見守りたいと思います。

打線はまたしても多田野に翻弄をされる体たらくで、数少ないチャンスでも四番が見送りの三振を喫したり今江が早打ちで併殺を食らったりしましたので、零封も仕方がありません。
祝プラスワン選出の角中のレフト前ヒットで岡田が本塁憤死をしたのは微妙な判断ではありましたが、あそこはGOで正解だったと思います。
そう考えれば増井に宮西、武田久を引っ張り出せたことだけでも大きな収穫だと、逆に言えば点が取れそうな雰囲気がほとんど無かっただけに引き分けでよかったのでしょう。
前のカードでの猛打ぶりが嘘のように札幌では沈黙が続いていますが、それだけ打線は水ものだということです。
つまりは明日になれば明日の風が吹くと考えれば希望がわいてきますので、これまた苦手な八木を血祭りにする夢を見られるようゆっくりと風呂に入って床につくことにします。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

千葉ロッテ

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 1

 日本ハム

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 6

0


◆7月11日(水) 日本ハム-千葉ロッテ10回戦(日本ハム7勝2敗1分、18時1分、札幌ドーム、16,608人)

▽バッテリー
千葉ロッテ 小野、藪田、益田、内、大谷―里崎
日本ハム 多田野、増井、宮西、武田久、森内―鶴岡

 

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損切りできず

2012-07-11 00:16:12 | 千葉ロッテ

第二ステージの九連戦は初戦に中5日で成瀬を持ってくるハイリスクハイリターンで勝負をかけましたが、残念ながらその挑戦は失敗に終わりました。
ビハインドで益田を使うという見切りの悪さもあり、結果的には最悪な黒星です。
この連戦を考えれば勝利の方程式は極力温存をしなければならないはずで、しかしエースを投入しただけに試合を捨てきれなかったのも分からない話ではなく、博打や投資にありがちな損切りができないままに被害が広がるという絵に描いたようなダメストーリーも今のロッテの野球なのでしょう。
そうは言っても明日以降に引きずられての破産宣告は勘弁ですので、スパッと忘れて新たな気持ちで臨んでもらいたいものです。

成瀬は味方が先制をしてくれた直後に逆転を喫しましたので誉められたものではありませんでしたが、しかし中5日で7回2失点ですから誰も責められません。
唐川に比べればいかにタフネスかを痛感したところですし、しっかりと試合を作ってくれました。
そうは言いながらも先頭打者を続けて出す立ち上がりから落ち着いた直後の四回の乱調は油断ではないでしょうが、成瀬にとってはかなり悔やまれます。
陽に打たれたのはともかくとしてもホフパワーの四球と鶴岡のタイムリーは余計でしたので、かなりの確率でまた中5日で起用をされるのでしょうが成瀬であれば次はリベンジとばかりにやってくれるだろうと、是非ともオールスター戦にはハーラーダービー単独トップで出場をしてもらいましょう。

あそこは中郷だろうと思いつつも益田にはもう悪い夢でも見たとでも思って、酒でもかっ食らって寝てくれればと思います。
ようやくに調子が上向きかけたと思ったところでの3失点はあまりに重く、やはりスライダーの制御がままならないうちは厳しいピッチングが続きそうです。
それよりも気がかりなのは益田のメンタル面で、おそらくはかなり背負い込んでいるでしょう。
こんなところで自分を使ったベンチが悪いんだと開き直れるぐらいの肝があることを、ただただ願っています。

打線は久しぶりに井口とサブローのベテランコンビの一振りで先制をしましたが、武田勝を捉えきれませんでした。
せっかくのチャンスで増井を引っ張り出しながらも岡田が牽制死をするのですから相性なんてのはこんなものかと、もちろんそういった言葉で片付けられるようなプレーではなかったのですが、ここ10試合で2勝6敗2分の日本ハムを相手に絶賛炎上中の増井に火消しをされるのですからどうにもなりません。
角中もタコが続いて首位打者から転げ落ちましたし、やはり今日は無かったことにして八連戦だとでも思って明日からやり直しです。
もちろんそれは選手たちの気持ちの問題であり、ベンチには計画的な試合運びを強く求めることは言うまでもありません。
4回45球の小野を中4日で持ってくるところからどう展開をしてくれるのか、お手並み拝見です。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9

千葉ロッテ

0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 6 1

 日本ハム

0 0 0 2 0 0 0 3 X 5 9

0


◆7月10日(火) 日本ハム-千葉ロッテ9回戦(日本ハム7勝2敗、18時1分、札幌ドーム、26,060人)
▽勝 武田勝 15試合5勝5敗
▽敗 成瀬 15試合8勝4敗

▽バッテリー
千葉ロッテ 成瀬、益田―里崎
日本ハム 武田勝、増井、武田久―鶴岡

 

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鞭を入れるの早くね?

2012-07-10 01:37:20 | 千葉ロッテ

明日から、今となっては今日から九連戦が始まります。
その先陣を切るのは中5日の成瀬で、おそらくは唐川も続くのでしょう。
そして前回に早い回にノックアウトをされたことでグライシンガーと渡辺俊も勢いで突っ込むほど無謀なベンチではないでしょうから、そこに小野なりペンなりを挟んで中6日でグライシンガー、渡辺俊、吉見と繋いで、ラストスパートは連続で中5日の成瀬と唐川、最後のビアスタジアムでは藤岡の復帰戦なんてシナリオが濃厚かなと思っています。
日本ハム、ソフトバンク、楽天と上位チームとの九連戦ですから前半戦の山場ではありますので、ベンチが入れ込む気持ちも分かります。

ただようやくにペナントレースのちょうど半分を消化したところで、まだ鞭を入れるところではないと考えます。
どうしても中5日で回そうとすると完投などは望めませんので、そうなればまたしても中継ぎ陣の負荷が増えることでの破綻の可能性が高まります。
ここまでの好調なチームを支えてきたのは盤石な先発陣であったことは論を俟ちませんが、しかしそれ以上に中継ぎ陣の奮起に負ったところも否定はできません。
また長いペナントレースを戦い抜くにはとにかく顔ぶれが少なすぎで、もっと輪を広げていかないと夏場を越えることすら危うくなってきます。
この苦難の九連戦をむしろチャンスと考えて新しい選手を使うベンチであって欲しいとは今となっては後の祭りですが、これだけ鞭を入れても終わってみれば尻にミミズ腫れができただけで得るものが何もなかったなんてオチは勘弁ですし、他のチームがどういった面子で臨んでくるのかも気になります。
最後の地元カードを除けば雨で中止にはなりえない九試合ですので、ここは5勝4敗で御の字と考えてまったりと臨んでもらいましょう。

 

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最後まで席を立たないで

2012-07-09 23:45:12 | 映画

昨年や一昨年はなかなか球場に行ける時間に帰れなかったこともあり逆に映画館に足を運ぶ機会が増えたのですが、今年は全くその逆の展開です。
ここのところは月2本のペースに落ちており、このままでは1ヶ月フリーパスポートに手が届かないままに終わりそうなのでちょっと焦っています。
このあたりは本末転倒の感があるもののシーズンクーポンを購入したことで今季の観戦数が既に30回を超えたのと同じく一つのエネルギーの源ですし、また貧乏性でもありますので、マイルを無駄にすることはできないと一念発起して久しぶりに映画館に行ってきました。

臨場 劇場版

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今日に観たのは「臨場」で、テレビドラマの劇場版です。
原作がありますしドラマも見ていないので自分としてはかなり大胆なチョイスだったのですが、やや映画館から足が遠のきかけていたのは面白そうな作品が目に付かなかったのが理由ですので、そういう意味では気になっていた作品ですからさほどの無理矢理感はありません。
ただやはり人間関係や感情のもつれなどが今ひとつ分からなかったのも正直なところで、しかしテレビドラマありきで作られているのでしょうから仕方がないところではあります。
しかし最後があれですのでもやもや感がありましたから、機会があればドラマのDVDを見てみたいと思います。

それにしても重かったです。
検視から隠された事実を見つけて犯罪を紐解いていくといった内容だと勝手に思い込んでいたのですが、そういった推理の側面はほとんどありません。
その配役が配役ですから誰が悪役かも分かりますし、また真犯人の見当をつけるのもかなり容易です。
しかしそこにある人間模様、人生模様は縦横のクモの糸に絡め取られたように複雑で、人は死とどう向き合っていくべきかという重いテーマが横たわっています。
面白いといったものとはまた違う、かなり考えさせられた映画でした。

この映画にはほとんどエンドロールといったものがありませんので問題ないとは思いますが、最後まで席を立たないことをお奨めします。
開始時間に遅れることも以ての外で、プロローグとエピローグが一本の糸に結びついてこそこの映画のテーマが見えてくるとは独り合点です。
通り魔犯の動機が分からない、なぜに見る人が見れば分かるような細工をしたのか、などなど腑に落ちない点はままありますが、それはいいでしょう。
主人公である倉石が自らと向き合って生きていく様、そして死んでいく様を見つめて欲しいと思います。


2012年7月9日 鑑賞  ★★★★☆(4点)

 


きっつい敗戦も第一ステージは勝ち越し

2012-07-09 00:13:16 | 千葉ロッテ

 

雨の心配どころか真夏を思わせる日差しに、準備不足で不意打ちの日焼けをしてしまいました。
前日までの雨と高温で一気に羽化をしたのかグラウンドには大量のトンボが舞い、最下位で自力Vが消滅をしたオリックスからすれば秋の使者に見えたかもしれません。
しかしそのオリックスに悔しい負け越しと足踏みで、それでもオールスター戦前の第一ステージは3勝2敗と勝ち越しました。
苦しいのはどこも同じですから焦ることなく諦めることなく、しかし入れ込みすぎることなく戦い抜いてもらいたいです。

先発の吉見はいきなり李大浩、そして竹原に一発を浴びるこれがロッテの戦い方と言わんばかりの立ち上がりでしたが、5回を4安打3失点ですからギリギリ及第点です。
今季のここまでの登板は全てこんな感じで、落ちそうで落ちないといった吉見が続いています。
もちろん流れとしていきなりの失点は誉められたものではありませんが、このカードでは一番のピッチングをしたことは見逃せません。
もっとカーブを上手く使って緩急をつけたいところではありましたが4奪三振と打者を翻弄できていましたし、それなりに吉見らしさが出ていたと思います。
しかし昨日に指摘をした立ち上がりに続いて無駄な四球でピンチを招いての五回降板ですから、ベンチの信頼度は相変わらずだと思われます。
まずまずだったと納得をしてしまうのではなく、中継ぎ陣に迷惑をかけたと反省をしてもらわなければなりません。

それにしても昨日、一昨日と先発が早い回でマウンドを降りて中継ぎ陣がフル動員だったことを考えれば、この吉見の五回での交代は首を傾げざるをえません。
また長いペナントレースを考えれば吉見には頑張ってもらわなければならず、見るからに信頼をしていないよと言わんばかりのベンチのやり口はどうかとも思います。
中継ぎ陣からすれば炎上をしてのことであればまだしも、同点だったり勝っているケースで100球も投げていない先発が五回で降板をしたらたまらないでしょう。
しかも六回のマウンドに登ったのはここ二日間で4イニング68球を投げた大谷ですから、ただただ驚くばかりです。
くどいようですが調子のいい選手を使い倒すことは誰にでもできますし、そういった選手が好調である時期を少しでも長く維持させることこそがベンチの役目のはずです。
もし吉見が六回以降に打たれて負ければただの一敗でしかなく、中継ぎ陣が疲弊をして落とす試合に比べれば大したことはありません。
もう少し西村監督と西本コーチには長期的な視野と、本当の意味での信頼する姿を見せて欲しいです。

その大谷がさすがに疲れがあったのかピンチを招きながらも無失点で切り抜け、藪田と益田もピリッとはしませんでしたが同点のまま内にバトンを渡しましたが、最後の最後で内がコントロールミスとしか思えない真ん中に入る失投を大引にスタンドまで運ばれてしまいました。
今季20試合目にして初の自責点がこのタイミングで出るのですから、ロッテの防波堤の伝統はあまりに凄まじすぎます。
それでも今季に守護神を任せられる投手は内しかいませんので、これも一つの経験だと思って前向きにやっていってもらいましょう。
その性格からして明日以降に引きずるタイプとは思えませんが、小野あたりがケアをしてくれればと思います。

打線は三日連続の大量ビハインドのゲームを今日も粘り強く追いつきましたが、肝心なところで一本が出ませんでした。
さりげなく不調なサブローが痛々しく、どうにも覇気が感じられないのが気がかりです。
今日は昨日に左腕に死球を受けた井口がその影響かDHに入ったことでレフトを守ったサブローでしたが、フェンスとの距離も測れないぐらいになってしまったのか動きに精彩が無く、そこで神経をすり減らしたわけでもないのでしょうが見逃しの三振にタイミングが外れたファールフライ、中途半端な空振りの三振にスタンドを沸かせながらも差し込まれて詰まり気味の外野フライと、当てるようなスイングが目立った井口や4タコだった角中とともにクリーンアップがこれでは残塁の山も仕方がないでしょう。
また八回の勝ち越しのチャンスに鈴木をそのまま打たせたことに議論が集まるでしょうが、あれはあれでよいと思っています。
福浦と考えないこともなかったですがそれであれば前の田中のところだったと思いますし、あそこは明日への投資だったと考えます。
負けはしましたが吉見を救った根元のファインプレーに今江のヘッドスライディング、バースデーアーチの根元や技ありのレフト前が光った大松の猛打賞、左腕から自分のポイントで痛烈に弾き返した鈴木など、見るべきところも多かったのでそれなりに満足をしています。
幸いにも日本ハムと楽天もおつき合いをしてくれたことで大事には至りませんでしたので、選手には明日はゆっくりと休んで九連戦に備えてもらいましょう。
もちろんベンチにはこんなこともあると片付けるのではなく、脳内トレーニングをしておいてくださいとは言うまでもありません。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9

オリックス

2 1 0 0 0 0 0 0 1 4 9 1

 千葉ロッテ

0 0 0 2 1 0 0 0 0 3 10

0


◆7月8日(日) 千葉ロッテ-オリックス11回戦(オリックス6勝4敗1分、13時、QVCマリン、21,098人)
▽勝 平野 41試合4勝3敗
▽S 岸田 34試合2勝1敗14S
▽敗 内 20試合1勝1敗4S
▽本塁打 李大浩14号(吉見)、竹原1号(吉見)、根元6号(小松)、大引3号(内)

▽バッテリー
千葉ロッテ 吉見、大谷、藪田、益田、内―田中
オリックス 小松、中山、平野、岸田―伊藤

 

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雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻

2012-07-08 00:50:05 | 日本史

 

朝から降っていた雨も津久見に着く頃には小降りとなり、その後は基本的には薄曇りで時折に日が差すような三日目でした。
たまにパラパラッと降られながらももしかしたらこれで天気は回復をするのではないかと期待をさせるほどで、しかしその願いは夜からの本格的な雨で打ち破られます。
臼杵から大分に戻る途中からシャレにならない雨が降り始めて翌日の苦難に繋がったものの、しかしこの日の天気が持ってくれたと考えれば少しは前向きになれます。

まず最初に向かったのは津久見で、目的は大友宗麟の墓です。
戦国期の大友氏の当主であった大友宗麟は一時は九州の北部をほぼ手中に収めて大友氏の全盛期を築いた武将ですが、しかし後半生は毛利氏や島津氏との抗争に追い詰められて中央の豊臣秀吉を頼り、そして最後はこの津久見の地で病死をしました。
ここ宗麟公園はその大友宗麟の墓があり、入ってすぐのところに墓所への階段があります。

ドン・フランシスコの洗礼名を持つ宗麟らしく、その墓は戦国武将らしからぬキリスト教式のものとなっています。
しかしこれは1977年に作られたもので、当時からこういったものがあったわけではありません。
死の直後にはキリスト教式で葬儀が行われたものの暫くして嫡男の義統が仏式で葬儀をやり直し、よってこの墓が出来るまでは仏式の墓が宗麟の墓だったことになります。

同じ墓所内に、その仏式の墓がありました。
当時のものかは分かりませんが、戒名が刻まれていましたので間違いありません。
そもそも宗麟という呼び方は出家をした際の休庵宗麟からきており、本来の名前は大友義鎮です。
洗礼を受けたのは晩年ですので、いろいろと国内の事情がありながらもキリシタン大名とひとくくりにするには異質な存在ではあります。

戦国期の島津氏当主が軽視をされているようにも見える鹿児島に対して、この大分での大友宗麟は異様なぐらいに存在感があります。
あちらこちらに銅像や胸像などがあり、この墓所にも1メートルにも満たない小さなものですが十字架を手にした宗麟像がありました。
どこのものも老齢の顔つきに左手で刀を杖代わりにしているものが多く、また当然のように首には十字架がぶら下がっています。
おそらくはモデルになるものから派生をしたのだと思われますが、ここまでイメージが共通をしているのはそれはそれでありでしょう。

宗麟公園があるのとは反対側の津久見駅前には、やはり大友宗麟の像があります。
先のものに比べれば穏やかな表情で、終焉の地だけに険がない表情にしたのかもしれません。
駅前にある銅像は駅の方を向いているものと背にしているものがありますが、訪れた人を迎えるがごとく駅の方を向いているものが多いようです。

津久見を出て佐伯に着いた頃には、ほとんど雨は上がっていました。
まず向かったのは佐伯城跡で、関ヶ原の合戦の後に佐伯に転封をされた毛利高政が築きました。
こちらは三の丸櫓門で、唯一の遺構です。

なぜにこのタイミングで山城よ、というのが正直な感想です。
世は既に平城が主流となりつつある中で、あるいはまだもう一騒動も二騒動もあると考えたのかもしれません。
海抜140メートルですからそれなりの高さで、しかも山城らしさ爆発かつ朝からの雨で滑りやすかったために、少しでも雨が降っていたら登らなかったでしょう。
際を歩くと危険だったので、歩きづらくとも山肌にそって登ったためにかなりハードでした。

そんな山城ながらも山頂にはしっかりと石垣があり、これは感動ものです。
使役をされたであろう民百姓の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったでしょうが、その苦労が少しでも報われるようしっかりと鑑賞をさせてもらいました。
登り口から直角に曲がっているのは攻められたときのことを考えたのでしょうし、藩政の中心と言うよりはやはり城郭としての意味合いが強かったのでしょう。

二の丸跡や本丸跡はご多分に漏れずに単なる野っ原の装いでしたが、それでも天守台の石垣がありますのでいろいろと夢想できます。
この天守台の規模からすればさほど大きなものではなかったのでしょうが、かつては三重の天守閣がありました。
しかし失火により天守閣を含む本丸、二の丸の建物はほとんどが焼失し、三の丸に建てられた御殿が藩政の中心となります。
その後にいくらかの整備はされたとのことですが廃城令によって多くが払い下げられたり破却をされたりしたことで、現在の状態に至りました。
写真は左から二の丸跡、本丸跡、天守台跡で、トップは本丸跡から城下を望んだものです。

佐伯城跡の登り口は「登城の道」と「独歩碑の道」があるのですが、帰りは車両が通れるように舗装をされた後者で下りてきました。
さすがに前者で下りると滑って崖を転げ落ちるリスクが高いだろうとの判断で、また同じ景色を繰り返すのもつまらないということもあります。
三の丸櫓門をくぐったところにある御下櫓も登りには気がつきませんでしたので、視線が変わることは大切です。
もっともこの御下櫓は櫓の形をした公衆トイレですから、何ら資料的な価値はありません。
また佐伯城から移築をしたらしい薬医門がありましたが、すっかりと民家の門となっていました。
写真は左が御下櫓、右が薬医門です。

養賢寺は初代藩主の毛利高政が建立をした毛利氏の菩提寺です。
修行僧の道場とのことで拝観は断られる、木で鼻をくくったような態度をされるとは事前の情報でしたが、しかし墓フリークとしては諦めきれません。
ダメモトで特攻をしたところやはり拝観については断られましたが、目的が墓所であれば自由に見てくださいと丁寧な対応をいただきました。

毛利氏と言えば安芸毛利氏を思い浮かべてしまいますが、しかし毛利高政はその毛利氏とは血の繋がりはありません。
尾張の出身で森高次の子であり、羽柴秀吉の中国大返しの際に毛利氏に人質として出されたのが高政と兄の重政でした。
能力的には今ひとつだった毛利輝元はしかしいたって好人物だったようで、その輝元に気に入られた高政は毛利姓を名乗るように奨められて以降は毛利高政となります。
その高政を初めとした藩主、一族、正室の墓が、ここ毛利氏墓所に整然と並んでいました。

やはり初代藩主である高政は別格のようで、奥に霊廟がありました。
どの墓が誰のものかの説明が一切無かったので不安はあったのですが、その戒名で確認をしましたので間違いはありません。
高政は見ようによっては豊臣氏から徳川氏に上手く乗り替えたと言えなくもありませんが、2万石程度の身代ですから当たり前の出処進退だったのでしょう。

高政の跡を継いだのは高成で、高政の次男です。
正室の子であったために庶兄の高定ではなく高成が嫡男となりましたが、そのことが後の騒動に繋がりました。
2代藩主となってから4年余り、30歳の若さで没しましたのでさしたる事績はありません。

3代は高成の嫡男である高直が継ぎましたが僅か4歳だったために、高直にとって叔父にあたる高定を担ごうとする一派が現れました。
その中心が初代藩主の高政の弟である吉安だったために大きな騒動となりましたが、最終的には吉安が藩を追われたことで決着をします。
そして高直の子の高重が4代となるものの嗣子無きままに21歳で没したために、5代は養子の高久が継ぎました。
この高久は同じ豊後の森藩の久留島通清の三男で、毛利氏との血縁関係はありません。
このあたりが自分には全く理解ができないところで、家中も含めて血の繋がりを重視するのが一般的でそれが故にお家騒動が絶えないのですが、しかし江戸期に入ると血の繋がりよりも中央との関係を重視するために大藩であれば将軍家から、そうでなくとも幕閣から養子を迎えることが多くなってきます。
それでも外様の小藩である毛利氏はそういった流れからは歯牙にもかけられなかったでしょうから一族から当主を出すのが妥当ではないかとも思うのですが、あるいは直系が絶えたことで外部から迎えなければ逆に各々の思惑からお家騒動に発展をすることを危惧したのかもしれません。
何はともあれ同じく子の無かった高久は自身の弟である高慶を6代に迎えて自らは隠居をしたことで、毛利佐伯藩は実質的には久留島氏の血脈となってしまいました。
高慶の長男の高通は一時は嫡子となるものの病弱であったことで廃嫡をされて弟の高能が嫡子となり、しかしその高能も26歳で早世をしたために甥の、つまりは高通の子であり高慶にとっては孫にあたる高丘が7代となります。
その後は無難に8代の高標、9代の高誠、10代の高翰、11代の高泰、そして12代の高謙と続いて幕末を迎えました。
写真は上段左から高直、高重、高久、高慶、高通、高能、高丘、高標、高誠、高翰、高泰、高謙ですが、いくつかは間違っているかもしれません。
墓石の背面に官位が刻まれたものの全てがこれらの墓で、その官職と戒名を頼りに特定をしたつもりなのですが、どうにも戒名が読めなかったり同じ官職のものがあったりしたために3基ほどは消去法的にこれだろうと見なしたものがありますので、不幸にも違っていたとしても責めないでやってください。

この日の最後は臼杵で、まずはやはり臼杵城です。
大友宗麟が築いた城で今は埋め立てられたことで陸続きとなっていますが、築城当時は丹生島と呼ばれる孤島にあった海城でした。
大友氏が改易をされた後は福原直高、太田一吉が入り、そして関ヶ原の合戦の後に美濃から加増転封をされた稲葉貞通が臼杵藩を興します。
稲葉貞通は美濃三人衆の一人である稲葉良通の嫡男ですので、稲葉氏の正統がここ臼杵に根付いたことになります。

この臼杵城には嬉しいことにいくつかの遺構がありますが、その一つが畳櫓です。
二階建ての入母屋造りの屋根を持つ櫓で、臼杵稲葉氏の4代である信通の頃に建てられたとのことです。
しかしその後に焼失をしたことで今の畳櫓は9代の泰通の頃に再建をされたもので、それでも300年近い歴史が刻み込まれた重みが感じられました。

大門櫓も畳櫓と同時期に建てられ、また焼失をして再建をされたものですが、残念ながらこちらは遺構ではありません。
明治の廃城令に際して取り壊されてしまい、現在のものは復元をされたものです。
しかし綿密な発掘調査や絵図を基に忠実に再現をしたとのことで、楼門形式や二枚開戸、入母屋屋根などは当時のものと遜色はないとのことでした。
いわゆる櫓門で、おそらくはその両側にも櫓が連なっていたものと思われます。

この大門櫓を抜けると本丸跡に至りますが、やはりただの公園です。
ただそれでもいくつかの跡には石垣が遺されていますので、市民にとっては憩いの場所として重宝しているものと思われます。
写真は左から本丸跡、会所櫓跡、井楼櫓跡です。

本丸跡には大友宗麟のレリーフと、佛狼機砲がありました。
やはり大分と言いますか豊後は大友宗麟なんだなと、これは薩摩などとは違い大友氏が改易をされた後は小藩が分立をしたことでこれといった有名になるような武将が出なかったことと、やはり何だかんだ言いながらも独特の輝きを見せた宗麟だったということなのでしょう。
また佛狼機砲はポルトガル人から大友宗麟に贈られたもので、宗麟はこれを国崩と名付けて臼杵城の備砲としました。
もちろんこれはレプリカで、本物は靖国神社にあるそうです。
城に大砲が備え付けてあったとはいかにも西洋的で、大友宗麟らしいかもしれません。

臼杵城に天守閣を建てたのは福原直高で、その後に稲葉氏が何度か修築をしたと伝えられています。
この天守台跡がそれにあたり、約10メートル四方で高さが12メートル程度との記録が残されていますので、見た感じではだいたいそんなところかと思います。
戦国末期に建てられたということもありますが、石垣が野面積みなのがちょっと意外ではありました。

本丸跡を抜けて反対側に至ると、卯寅口門櫓が見えてきます。
これも当時の遺構で、見た目は畳櫓と同様の黒っぽい板塀になっています。
側に卯寅口門がありますのでここを守るための櫓だったのでしょうが、その大きさからして実際は武具などの備蓄倉庫といった目的で使われていたのでしょう。

次に向かったのは稲葉氏の菩提寺である月桂寺ですが、これはあくまでも儀式に過ぎません。
20年以上も前の学生のときに臼杵を訪れた際にも来たのですが、けんもほろろで追い返されました。
いろいろと事情もあるのでしょうがそれは今も変わらないようで、地元の方と話した感じでも「月桂寺さんはねぇ・・・」みたいな反応でしたのでやはり異質な存在なのだと思います。
菩提寺とは言いながらも藩主の墓の大半は東京や京都にありますので、そういう意味でももう未練はありません。

その後は大友氏の当主の墓を探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。
事前に住所を調べてそこには至ったものの見当たらず、しかも住所としての番地と表札などにかかっている組という表記が一致をしないためにかなり混乱をしました。
もう少し粘ろうとも思ったのですが次のイベントが時間を要するために一時間ほどで断念し、その代わりでもないですが分かりやすかった臼杵氏の墓所に突撃です。
臼杵氏は豊後に古くからある在地武士の一族で、立花道雪で有名な戸次氏もこの臼杵氏の庶家になります。
しかし大友氏が豊後に入ったことで徐々に浸食をされていき、戸次氏も大友氏から養子を取ったことで大友氏の一族となり、臼杵氏もその戸次氏から時直が入ったことで同じく大友氏の有力庶家となり、戦国期には長景、鑑続、鑑速と大友家臣団の中核となる武将を輩出しました。
写真は左が時直、右が鑑速です。

同じ場所に臼杵統景の供養塔がありました。
統景は鑑速の子で、主に外交面で活躍をした父や叔父の鑑続とは違って武に秀でていたと言われています。
しかし残念なことに大友氏が斜陽となるきっかけとなった耳川の合戦で、もう一人の叔父の鎮続とともに壮絶な討ち死にを遂げてしまいました。

そして臼杵の最後が、大友義鑑の墓です。
このために他の大友氏の当主の墓の探索を諦めたようなもので、往復30キロ弱ですから雨が降り出さないかとかなりヒヤヒヤとしました。
義鑑は義鎮、つまりは宗麟の父で、世継ぎを義鎮と決めながらも三男の塩市丸を溺愛したことで家中が割れ、反対派に殺されてしまいました。
この反対派の襲撃が大友館の二階で行われたことから二階崩れの変と言われており、裏で義鎮が糸を引いていたとも言われています。
その大友館跡や他の当主の墓に行けなかったのは残念ですが次の楽しみと考えれば活力となりますし、肝の義鑑と義鎮の墓に行けたのでかなり満足をしています。


【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇

 

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二日がかりの白星

2012-07-07 23:17:26 | 千葉ロッテ

 

ややスケールが小さめながらも昨日と似たような雨空、序盤の大量失点に中盤からの追い上げといった試合展開でしたが、今日は見事な逆転勝利でした。
その昨日に平野と岸田を引っ張り出せなかったら今日は吉野と香月ではなかったかもしれず、また益田と内が昨日に投げなかったことが今日の好投に繋がったと考えれば、無理矢理感はありながらも二日がかりで白星をもぎ取ったことになります。
そんな今日のヒーローは珍しくも大谷、荻野貴、根元の三人で、七夕ですのでヒーローインタビューの後に短冊と呼ぶには大きめの紙に大谷は「リーグ制覇できますように」、荻野貴は「優勝」、そして根元は「日本一」と書いていましたので、きっと明日のスポーツ紙を飾ることになるでしょう。
何はともあれ重ね重ねの指摘で申し訳ありませんが、手嶌さん、あなたの後頭部はもはや凶器です。

先発の渡辺俊は3回も持たずに5失点でKOをされてしまい、雨男としては不甲斐ないピッチングとなってしまいました。
ボールが高めに抜けるでもなく、コントロールに苦しんだわけでもありませんので、そういう意味ではむしろ乱れて打たれた方がよかったかもしれません。
つまりは緩急が上手く使えない、あるいは少しでも甘くなると球威がないことで火薬庫状態になるということで、その湿気も関係なく雨の中でもあれだけ完璧に捉えられた打球が続けば昨日のグライシンガーの交代のタイミングが遅れたことがなくともベンチが早めに動いたのは当然に過ぎる打たれっぷりです。
そうなればかなり神経のいる起用をしなければならなくなりますが、登板間隔と対戦相手を考慮すればまだまだやれるはずです。
オールスター戦までの苦しい日程で渡辺俊が存在感を示せる場は用意をされていますので、そのベテランの意地を見せてもらいましょう。

その渡辺俊の撃沈をサルベージしたのは中郷、大谷の同い年コンビでした。
中郷は相変わらずに走者を背負った場面では気弱なピッチングで四球を連発して傷口を広げかけましたが、その後は完璧に抑えて味方打線の奮起を促します。
大谷もその中郷からバトンを受けて2回を無失点に切り抜けての今季初勝利で、これまで好投をしながらも運に見放されていただけに喜びもひとしおでしょう。
140キロ前後のストレートにキレのあるスライダー、そしてタイミングを外すカーブが思ったようにコントロールできていましたので、安心して見ていられました。
中郷が今日ぐらいのピッチングを安定してできれば大谷を先発に回せるのですが、そのあたりは荻野忠との兼ね合いもありますので暫くは様子見です。

最後は勝利の方程式で益田と内の登場で、得点差もありましたが久しぶりにドキドキすることなく勝利を確信しての幕引きです。
益田はストレートのスピードと球威は完全に戻ってきた感じで、あとはスライダーのコントロールでしょう。
ちょっと曲がりが早すぎると言いますか曲がり過ぎと言いますか、このあたりを制御できるようになればまた上向きになってくると思います。
その益田が三者凡退に抑えましたので内にも期待をしたのですが、なかなか上手くはいきません。
伝統の四者凡退は劇場主襲名のようで面白くはないものの、それでも150キロのストレートに落差のある縦のスライダーで貫禄の4セーブ目です。
両投手ともに連投ともなるとバタバタとしていますがそうでなければ落ち着きを取り戻し始めましたので、きっちりとした計画を持って起用をしてもらいたいと思います。

打線は昨日に続いて大量ビハインドにめげることなく、終盤の攻勢で一気にひっくり返してくれたので大興奮です。
ヒーローとなった根元のホームランは真ん中やや低めの甘いボールながらも打った瞬間にそれと分かるホームランバッターのような打球で、ホームで迎え入れた井口とサブローがその後に「やられちゃったよ」と言わんばかりの苦笑いをしていたのが印象的でした。
まだシーズン半ばですし来季以降も活躍ができる保証はどこにもありませんが左腕を苦にせずに広角にヒットを量産する根元ですし、スローイングも安定をして危惧された三塁寄りの打球も今江とのシェアで無難なところを見せていますので、あるいは今オフに西岡がNPB復帰をぶち上げてもロッテは手を挙げないかもしれません。
そう思えるほどに根元の成長ぶりは目を見張るほどで、使い続ければ相応の数字は残せると言い続けていた自分の想像すら上回っています。
打撃が好調だから守備が安定をしているのか、守備に不安が無くなったから打撃に集中ができているのかは分かりませんが、ロッテの要潤が全国区になる日も遠くはなさそうです。
またダメ押しのツーベースを放った荻野貴は二塁ベースを回ったところで足を滑らせたことで悲鳴を上げかけましたが、その後の走塁を見る限りでは問題はなさそうで、久しぶりの長打でベンチに戻ってから手加減抜きで頭を叩かれまくっていました。
Mではないでしょうがそんな荻野貴の笑顔は輝いており、少しずつでもこういったプレーが増えてくればと思います。

そんな派手なヒーローに隠れがちですが、福浦と大松の師弟コンビの活躍も見逃せません。
ベンチに置いておくのがもったいないぐらいの好調さを見せる福浦は今日も代打で技ありの流し打ちで逆転のきっかけを作り、打率もいつの間にか.286まで上がってきました。
その福浦をベンチに追いやっているのが大松で、この大松のマルチヒット&2打点があってこその今日の勝利です。
一打席目のヒットがレフトに引っ張ったような素晴らしい当たりで、三打席目もやや詰まりながらもセンターに弾き返すようなバッティングができていましたから、牛歩な感じがありながらも徐々に上がってきているのでしょうし、だからこそ福浦を差し置いても大松を使うベンチなのでしょう。
ただそれだけに最終打席に力みまくって引っ張ってのフライがもったいなく、このあたりが改善をされるときこそが全開宣言ができる大松だと思います。

明日は三度目の吉見、そろそろかなと思っているロッテファンも多いことと思います。
しかしこの二日間で中継ぎ陣が総出といった感じになってしまいましたので、吉見には頑張ってもらうしかありません。
最低でも六回を投げきるつもりで願わくば七回を3失点ぐらいでまとめてくれれば、きっと両目が開くだけの援護はもらえるはずです。
とにかく立ち上がりと無駄な四球に気をつけること、これだけはお願いします。


  1 2 3 4 5 6 7 8 9

オリックス

0 4 1 0 0 0 0 0 0 5 10 0

 千葉ロッテ

0 1 1 0 0 2 2 2 X 8 11

0


◆7月7日(土) 千葉ロッテ-オリックス10回戦(オリックス5勝4敗1分、14時、QVCマリン、17,191人)
▽勝 大谷 20試合1勝2敗
▽S 内 19試合1勝4S
▽敗 吉野 31試合2勝1敗
▽本塁打 スケールズ3号(渡辺俊)、根元5号(吉野)

▽バッテリー
千葉ロッテ 渡辺俊、中郷、大谷、益田、内―里崎
オリックス フィガロ、吉野、香月、海田―伊藤、鈴木

 

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むしろ悔しい

2012-07-07 00:18:12 | 千葉ロッテ

さすがに平日のスーツで今日の雨は厳しかったので久しぶりに欠席をしたのですが、その雨の中で球場に足を運ばれた方には申し訳ないのですが自分にとっては結果的には正解だったかなと、球場でナマで見ていれば序盤に滅多打ちにされたことよりも追いつけない程度の反撃に意気消沈をして帰ってきたことでしょう。
ワンサイドゲームも辛いですが追いつき追い越せるチャンスがあったところでの最後は力負けでしたので、むしろ悔しさは倍増です。

ここまでオリックスに対しては3戦ともに好投をしながらも1勝しかできていないグライシンガーでしたので何とか今日こそは白星をプレゼントしてあげたかったのですが、これまでとは違って試合としては大量点の援護がありながらも当のグライシンガーが大炎上をしたのですから野球なんてのはこんなものです。
立ち上がりからボールが高めに浮きがちでグライシンガーらしくもなく、初回は5連打を食らっての4失点に二回も立ち直りの兆しが見られませんでしたから、もちろん先発が二回も持たずにKOをされれば中継ぎ陣の負担が大きいので続投をさせたことを否定はしませんが、それであれば二回の3失点を嘆くコメントは勘弁です。
55球も投げましたので次の登板は普段どおりの間隔が必要になりますし、結局は三回から継投に入りましたので中継ぎ陣の負担に変わりはありません。
まるで為す術もないような表情で立ち尽くしていた西村監督と西本コーチの姿が、今日の敗戦を象徴していました。

三回からは前日に打球を左肘に受けて暫くは消息不明だった大谷が登板をしましたので、これが今日の一番の収穫かもしれません。
2回を無失点に抑えたことが味方打線の反撃を呼んだ一つのきっかけだったと思いますので、やはり貴重な存在です。
ああいった場面で使うのはどうにももったいなく、暫くはご無沙汰の古谷あたりを突っ込んで野手も地蔵さんたちの虫干しならぬ雨干しになるかと思っていたのですが、試合を諦めずに流れを堰き止めるべく調整登板を兼ねた大谷を起用したベンチの意欲は買いたいです。
そして九連戦の先発要員かと思っていた小野が久しぶりの登板で4回を2失点は微妙なピッチングでしたが、やはりボールが高めで痛いところでの失点に及第点はあげられません。
そして最後は荻野忠が豪快に二発を食らって以上終了、明日に引きずりそうな嫌な幕引きでした。
やはり荻野忠はもう少しストレートにスピードが戻ってこなければ今のコントロールでは全幅の信頼を置くには厳しいかなと、それでも一歩ずつでも前に進んでもらいたいです。

打線はほぼ終わった試合を逆転の一歩手前まで持ち直しましたので頑張ってくれましたが、どちらかと言えば勝手に相手が四球で自滅をしただけというのが本質で、そこから一気にたたみ込めなかったことが逆に敗因の大きな要素だったように思います。
雨になると打球が飛ぶわけでもないのでしょうが里崎のスリーランでは球場にいるがごとく立ち上がってしまったところまでがピークで、七回の無死満塁で1点も取れなかったのが当たり前ですが痛すぎで、それでもこんな試合で平野と岸田を引っ張り出したことを明日以降の材料と考えたいです。
こちらは益田と内に休養を、この展開であれば終盤にはプルペンに入ったと思われますので完全休養とはならなかったでしょうが、その差を活かす明日にしてもらいましょう。
またしても日本ハムは増井が炎上をするなど苦しいのはロッテだけではありませんので、ここからが我慢比べです。


  1 2 3 4 5 6 7 8 9

オリックス

4 3 0 0 1 0 0 1 2 11 15 1

 千葉ロッテ

1 0 2 1 3 0 0 0 0 7 6

0


◆7月6日(金) 千葉ロッテ-オリックス9回戦(オリックス5勝3敗1分、18時15分、QVCマリン、10,973人)
▽勝 寺原 10試合4勝5敗
▽敗 グライシンガー 13試合6勝3敗
▽本塁打 里崎5号(寺原)、李大浩13号(荻野忠)、T-岡田2号(荻野忠)

▽バッテリー
千葉ロッテ グライシンガー、大谷、小野、荻野忠―里崎
オリックス 寺原、中山、平野、岸田―伊藤

 

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ハッピーバースデーな唐川のデンジャラスな目線

2012-07-06 01:16:59 | 千葉ロッテ

 

落ちそうで落ちない今季のロッテは大型連敗の危機から一転しての三連勝で、昇り鷲を叩き落としたことは大きな収穫です。
名前からすれば勝って当然のマッチメイクを額面どおりに勝つとはロッテらしくもないと言ってしまえば自虐的に過ぎますが、順調すぎて怖すぎます。
もっとも不可解な継投がありましたので前途洋々というわけでもなさそうですから、やはり地道に一歩ずつ進んでいく姿勢を崩さないよう願いましょう。

先発の唐川は23歳の誕生日を自ら祝う8勝目は成瀬と並ぶリーグトップで、7回を4安打無四球の零封ですから100点満点と言ってよいでしょう。
今日はコントロールが絶妙だったことで里崎もリードのしがいがあったでしょうし、それもあってか楽天打線も早いカウントから手を出してくれたことで5回で54球、7回で80球ですのでどう考えても完封ペースでしたから、だからこそ八回からの継投が意味不明でした。
あるいは次の九連戦を視野に入れての中5日のための温存かとも思ったのですが、試合後の西村監督のコメントを見る限りでは何らかの異変があったようです。
ただ肩の張りなどが理由であれば違和感のある内容ですので、あるいは爪が割れたりマメが潰れたりなどの本人の不注意によるものなのかもしれません。
それでもヒーローインタビューでの唐川の素振りを見る限りでは次の登板に差し支えがあるような雰囲気はありませんでしたので大丈夫だと思うのが精神衛生上はよさそうで、しかし好投よりもその後始末が気になる唐川のハッピーバースデーでした。

もしかすると緊急登板だったのかもしれない益田と内は、昨日に続いてヒヤヒヤとした勝利の方程式でした。
益田はやはり現状では連投は厳しそうで、今日はストレートに球威が無かったのかあっさりと痛打をされての1失点です。
ちょっとやや高めのストライクゾーンで勝負をしすぎではないかとは思いつつも、精緻なコントロールを持ち合わせているわけではありませんからこれが益田のスタイルなのでしょう。
そうなれば疲れが溜まっている今は適度な休養を与えながら起用をしていくことがベターだと思われ、そのあたりのベンチの判断が注目です。
一方の内もボールが高めで軽く外野に打球を運ばれてしまい、楽天の走塁ミスが無ければやばいところでした。
やはり守護神にかかるプレッシャーは相当なものらしく、まだそのプレッシャーを楽しむところまではいっていないのでしょう。
それでも力のあるストレートとキレのある変化球があるからこそギリギリのところで抑えられるわけで、これも一つの経験と思って前向きに見守っていきたいです。
最初からとんとん拍子では後が苦しくなりそうですから、心身ともにタフさを備えるための産みの苦しみとでも思うことにします。

打線ではやはり大松でしょう。
昨日まで好調さを見せていた福浦を地蔵にしてまでの大松のスタメン起用ですから、西村監督は冴えていたとしか言いようがありません。
その左腕から左方向へのアーチはややタイミングを外されたスライダーに上手くバットが遅れて出たことで流したと言うよりは流れたといった打球ではありましたが、まさかあそこまで打球が伸びるとは誰も思わなかったでしょうし、それは本人も同様だったようです。
このパンチ力があるからこそベンチは辛抱強く我慢をしていたのだと思われますから、その期待に応えた大松は見事な一発でした。
布施博のようなくしゃくしゃな笑顔は今後の上昇を予想させるに充分な明るさを感じさせましたので、明日以降も楽しみにしています。
また福浦も負けていないでしょうし、負けたくもないでしょうから、上手く競わせてくれればと思います。
そして今日もしっかりとバントをさせる堅実さとともに角中の盗塁が光っており、大松のホームランを引き出したスパイスだったかもしれません。
左腕からの盗塁はバッテリーも意外だったでしょうから、じわじわとバントの効果が出てきたように思います。
どうしても僅差のゲームが今後も続くのでしょうから、八回の根元がやらかしたようにミスはあるでしょうが怖れることなく、慎重さと大胆さを兼ね備えた采配に期待をします。

余談ではありますが今日のヒーローインタビューは、個人的にはかなり興味深かったです。
二試合続けての大松とのお立ち台をインタビュアに言われるまで気がつかない唐川のマイペースには驚きもしませんでしたが、その唐川もこんな表情をするのだとビックリとしたのが左の写真で、年齢相応の若々しさは新鮮さを感じさせました。
また右の写真の注目は女の子チックなケーキの持ち方ではなく、これを大松の顔にぶつけたらどうなるかなといったイタズラ小僧みたいな唐川の表情です。
実際はそんなことは思ってもいなかったのでしょうが老成感のある唐川だけに、何だかちょっとホッとした気になります。
この普段とは違った唐川がピッチングに何らかの影響を与えると面白いのですが、まずは成瀬との最多勝争いを楽しませてもらいましょう。


  1 2 3 4 5 6 7 8 9

楽天 

0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 8 1

 千葉ロッテ

0 2 0 0 0 0 0 0 X 2 7

0


◆7月5日(木) 千葉ロッテ-楽天10回戦(ロッテ6勝3敗1分、18時15分、QVCマリン、9,979人)
▽勝 唐川 12試合8勝2敗
▽S 内 18試合1勝3S
▽敗 川井 7試合2勝1敗
▽本塁打 大松4号(川井)

▽バッテリー
千葉ロッテ 唐川、益田、内―里崎
楽天 川井、橋本、加藤大、ラズナー―岡島

 

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雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻

2012-07-05 23:28:24 | 日本史

 

この旅で唯一に晴天だったのは小倉と中津を訪れた二日目のみで、晴れたら晴れたで逆光に悩まされるのですから贅沢なものです。
先日に導入をしたTZ30の逆光補正でも限界があり、しかしそれでも以前に比べればマシな状態ではあります。
前日の雨の水滴の痕がレンズについているのに気がつかないままだったという失態はありましたが、やはり青空はいいものです。
そしてタイトルに大分と銘打ちながらも始発で足を運んだ小倉は福岡県ですので、ちょっと逸脱をしてしまいました。
ちょっと前も日向路と言いながらも鹿児島県の肝付に行ったりもしましたので、その辺りと思っていただければと思います。
次は福岡とぶち上げるつもりですが目玉の対馬は長崎県ですから、ちょっと納まりがよくないのは確信犯です。

その小倉と言えば小倉城で、これまでは九州には新幹線で入っていましたから、まず最初にお目見えをするのがお約束でした。
自分にとっては九州の玄関口、とも言えます。
そんな小倉城は昭和に入ってからの鉄筋コンクリートで造られた天守閣ではあるのですが、やはりテンションが上がります。
四方八方から写真を撮りまくり、さながら珍しい玩具を与えられて興奮をする幼児のようでした。
近世の小倉城は毛利勝信が関ヶ原の合戦で西軍に荷担をしたことで追われた後に入った細川忠興が改修をしたことで形作られ、その細川氏が肥後熊本に移封をされたことで小笠原忠真が城主となり、幕末には第二次長州征伐の際に自ら火を付けて灰燼に帰するという哀れな末路を迎えます。
天守閣はそれ以前に火災で焼失をしており、その後に再建をされることはありませんでした。

城内は石垣あり、堀ありと変化に富んでおり、またその規模もかなり大きいです。
しかし平日の早朝ということもあってか人っ子一人おらず、まさに独り占め状態でした。
もし船橋にこれだけの城跡があればそれこそ入り浸ってしまうこと必至で、何とももったいない気がします。
灯台下暗しとでも言いますか、あまりに身近にあることで当たり前となってしまったのかもしれません。

福聚寺は小笠原忠真が創建をした小笠原氏の菩提寺で、小倉小笠原氏の240年間をともに歩んできました。
幕末に戦火で諸堂の多くを失いましたが、本堂などは当時のものが遺されています。
説明板があったのでこちらが正面かと思っていたのですが、どうやら裏手だったようです。

菩提寺ですから藩主の墓所も当然のようにあるのですが、残念なことに今は非公開とのことです。
20年以上前には自由に入れたようですが、いろいろとあったのでしょう。
入ろうと思えば入れないことはないハードルではありましたが、それをやってしまえば犯罪ですので大人しく帰ってきました。

大分に戻っての中津でまず出迎えてくれたのは、中津藩の下級武士の出である福澤諭吉です。
自分にとっての中津は中津城でしかないのですが、地元ではむしろ福澤諭吉の存在感の方が圧倒的にあるようです。
地元出身、とは言いながらも生まれたのは大阪ですが、それでも中津では一番の名士なのでしょう。

すぐにでも中津城に行きたい気持ちを抑えつつ、その途中にある寺にまず足を運びました。
最初は赤壁で有名な合元寺で、ちょっとペンキっぽさがありながらも周りとは異質な雰囲気を醸し出しています。
城井谷を治めていた宇都宮鎮房は伊予への転封を拒んだために豊前中津に封ぜられた黒田氏の配下に組み入れられましたが、反抗の構えを崩さなかったために黒田長政に謀殺をされ、その際に合元寺には宇都宮氏の家臣が籠もっていましたが全員が討ち取られてしまいました。
そのときに壁に飛んだ鮮血がいくら洗っても塗り替えても消えなかったために、赤色で塗りつぶしたと言われています。

円応寺は河童寺として有名です。
河童の墓があるらしく、完全に専門外ですがせっかくですので寄ってみました。
檀家さんからしたら河童ってどうなんだろうとは思いつつも、中津の観光名所になっていますので悪い気はしていないかもしれません。

河童の墓ではありますが、見た目は普通の墓と何ら変わりはありません。
江戸時代に住職が河童に戒名を与えたことで、恩返しに寺を火災から守ってくれたとのことです。
その河童は三匹で、よって墓の前には三種類の戒名の書かれた卒塔婆が立てかけてありました。
ちなみに墓の前が水たまりになっているのは河童だからではなく、前日の雨の名残でしかないことは言うまでもありません。

いよいよ中津城です。
黒田孝高が築いた中津城は関ヶ原の合戦の勲功で黒田氏が筑前名島に加増転封された後は細川忠興が入り、その細川氏が肥後熊本に移ったことで小笠原氏が中津藩を興しますが5代で無嗣改易となり、丹後宮津から奥平昌成が移封をされて9代を経て幕末を迎えました。
2年ほど前に奥平氏の子孫が営む企業から埼玉の企業に模擬天守が売却をされたことが話題になりましたが、特に問題などは起きていないようです。

その模擬天守は堀にせり出したような造りとなっており、ちょっと珍しい感じです。
堀には海水が引き入れられていますので、海城としての性格を持っているとのことです。
ただこの模擬天守は史実に忠実に復元をされたものではなく観光用に他の城の天守閣を模倣して鉄筋コンクリートで造られましたので、資料的な価値はありません。
そもそも中津城に天守閣があったかどうかは議論のあるところらしく、おそらくは無かったであろうというのが大勢のようです。

こちらは模擬天守に連なる大鞁櫓で、城主の馬具等を格納するところとの説明書きがありました。
ただ模擬天守と同様に再建をされたものですから、当時にそういった性格を持ち合わせていたかどうかは不明です。
五重五階の模擬天守に対して二重二階とやや小ぶりですが、両者がいいバランスで連なっていますので観光用としては大成功でしょう。
黒塗りの板壁がいい味を出しています。

城内には三斎池がありますが、これは細川忠興の号にちなんでいます。
忠興は城の水不足を補うために近くの川から水を引く大工事を行い、その水を貯めたのがこの三斎池とのことです。
現在は上水道を用いていますし噴水などもありますので、やや趣きに欠ける感じがありました。

城内には三つの神社があります。
奥平神社は奥平氏の中興の祖である貞能、信昌、家昌を祀ったものです。
また城井神社は先に書いた黒田氏に謀殺をされた宇都宮鎮房が祭神で、祟りを怖れた長政が祀ったとは説明板でした。
その脇にある扇城神社は合元寺で討ち死にをした宇都宮氏の家臣が祀られており、主君の側で眠っているということなのでしょう。
写真は左から奥平神社、城井神社、扇城神社です。

中津城を後にして向かったのは自性寺で、奥平氏の菩提寺です。
そうなれば藩主の墓所もあるのではないかと期待をしたのですが、残念ながらありませんでした。
奥平氏は江戸の清光院を墓所としており、中津にはどうやらないようです。

その代わりというわけでもないのでしょうが、ここにも河童の墓がありました。
よほどに豊前は河童にとって住みやすい土地だったのでしょう。
イタズラをしていた河童を住職が改心をさせたとのことで、河童が書いた詫び状が寺には遺されているそうです。

浄安寺は小笠原長継の菩提を弔うために、長男の政直が建立をしたと伝えられています。
長継は小笠原中津藩の初代の長次の曾祖父である貞慶の従兄弟であり、政直は祖父の秀政の又従兄弟という近いようで遠い存在ですので、ちょっと不思議な感じがあります。
一族のつてを辿って中津に在したのかもしれませんが、詳しいことはよく分かりません。

最後は福澤諭吉の旧宅です。
ちょっとした観光名所になっているらしく、平日ながらも観光バスが留まっていました。
たまたま前を通りかかったので写真を撮ったのですが、中津は興味外の諭吉で始まり諭吉で終わるのですから皮肉なものです。


【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
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100回目のほくろ

2012-07-05 00:06:43 | 千葉ロッテ

 

昨日の雨で一段落がついたのか夏を思わせる日差しに梅雨明けも近いのかなと思ったりもしましたが、しかし大分では豪雨で酷いことになっているニュースをQVCマリンで食事をしながら見ましたので、残念ながらまだまだ雨に悩まされる日々は暫くは続くのでしょう。
それでも今週の関東は週末までは雨で試合が流れることはなさそうで、そうなれば幸先のよい今日の白星スタートはいい景気づけになります。
日本ハムに急ブレーキがかかったために気がつけば4.5差と独走態勢に入りかけていることに油断をせずに、確実に明日も楽天を仕留めて勢いに乗りたいところです。

リーグ単独トップの8勝目を手にした成瀬は調子はさほど良いとは思いませんでしたが、粘り強いピッチングはまさにエースの貫禄でした。
左打者が5人も並んだことでかえって投げづらそうにしていましたし、その左打者にあそこまで振り切られていたことを考えればボールの出所も今ひとつだったのでしょうが、走者を背負いながらも最後の一本を打たれなかったことは昨年に比べると大きな変化です。
ルーキーの岡島にプロ初アーチをプレゼントしてしまうところなどは悪い意味でのらしさを垣間見せましたが、ここぞというところで低めにボールを集めることができていました。
長いシーズンを投げ抜くにはそういったメリハリは大事ですし、やや下降曲線に入ったことは間違いないだけに丁寧さも必要です。
そういう意味では今日のピッチングはその試金石としてはもってこいの展開でしたので、ヒーローに相応しい成瀬だったと思います。
本人が言うようにオールスター戦までのあと2試合をきっちりと勝って、パシフィックのエースとして臨んでもらいましょう。

成瀬を継いだ益田と内は走者を出しながらも力でねじ伏せるピッチングでピンチを凌ぎ、勝利の方程式での逃げ切りです。
益田はストレートにスピードが戻ってきましたし、荒々しさもまた魅力の一つですから今日のバタバタもあまり気にはしていません。
ただ登板間隔が詰まると傷口が広がりそうなので、今後の起用法が悩ましくもあります。
八回は益田にこだわらずに大谷を上手く使って、その大谷のポジションに中郷が入ることができれば理想なのですが、まずは大谷の捜索願を出すことが第一でしょう。
そして内にはそろそろ三者凡退での最終回を見せてもらいたかったのですが、ストレートが抜け気味で四球を出してしまったのが残念でした。
それでもそのストレートにスピードとキレがあったからこそ変化球が活きてくるわけで、ボール気味であっても打者が手を出してくれたことがその証左です。
今後も厳しい場面での登板が続くでしょうが、まずは藪田の17セーブを目指して一つずつ積み上げていってもらいたいです。

試合の流れとしては序盤から押され気味で先制をされた直後の里崎の同点アーチが大きく、文句なしのヒーローです。
これが記念すべき100号で、生え抜きの捕手としては初となります。
里崎らしい右方向への打球はぐんぐんと伸びてロッテファンが待つライトスタンドに吸い込まれていき、成瀬も大喜びだったでしょう。
今後にどれだけほくろを触るようなバッティングができるかは分かりませんが、ロッテの歴史に名を刻んだ里崎の今後の活躍に期待をします。
また六回、七回としっかりとバントで走者を進める野球をやってくれましたので、自分でも意外ですが僅差ながらも安心をして試合を見ていました。
先日の大松と同様に福浦にバントをさせるのであれば代打を出せよ、と思ったりもしましたが、難しいバントを福浦がきっちりと決めてくれたことで助かりましたし、その福浦がかつてに比べれば衰えは隠せないものの守備を楽しんでいるような姿が嬉しく、またしっかりとヒットも打っています。
大松の膝の状態が分からないので何とも言えませんが、暫くは嬉しい悩みを抱えるベンチになりそうです。

井口の勝ち越しタイムリーはオリックス戦の流れを引きずったかのような投手の拙守とも言える僥倖でしたが、きっちりとセンター前に打ち返したからこそのヒットでしょう。
そこで切れることなくサブローが犠牲フライで追加点を叩き出したことも、チームに勢いをつけてくれそうです。
そしておそらくは議論になると思われるのが七回の角中の走塁で、球場では思わず怒声をあげてしまったのですが、冷静になってみるとかなり微妙なプレーではありました。
あの打球でベースについたままでもしワンバウンドでの捕球になったらホームインが出来たのか、牧田はかなりの強肩だったはずです。
思わず飛び出したにしては佐藤コーチがベースに戻るよう指示をしていたようにも見えませんでしたし、おそらくは勝ったことでこのプレーについて西村監督なりがコメントをすることはないのでしょうが、あれがミスだったのか仕方がなかったのかはかなり気になります。
それでも七分三分でミスだったのではないかと思うのは里崎の素振りからの判断で、有藤の尻馬に乗ったわけではありません。

ちなみに今日はかなり早く球場に着いたため、初めてこの手のものに書き込みをしてきました。
多くのファンが書くのだろうと控えめにしたのですが、後で見てみればもしかしたら一番に小さなものだったかもしれません。
同じようなフラッグは球場内に飾られていますがこのボールはどうなるのかと、せっかくですので同じように飾ってくれればと思います。

早く着いた理由はTEAM26のサイン会に参加をするためで、先月に続いての2回連続です。
当たらないときは全く当たらないのですが当たりだすと不思議なぐらいに当たるもので、ちょっと自分でもビックリしています。
今回も前回に続いてAグループだったのですが登場をしたのは鈴木と岡田で、Bグループの渡辺俊と内も魅力的でしたが内は薩摩川内でサインをもらったので自分としてはAグループでよかったかなと、これで今年のルーキーの4人のサインをルーキーイヤーにもらうことができたのはラッキーでした。
ただ今回は握手は無しで、もしかしたら前回は成瀬が握手をしたから金澤もという流れだったのかもしれず、もしそうであればエース成瀬に感謝感激雨あられです。


  1 2 3 4 5 6 7 8 9

楽天 

0 1 0 0 0 0 1 0 0 2 10 1

 千葉ロッテ

0 0 1 0 0 2 0 0 X 3 6

0


◆7月4日(水) 千葉ロッテ-楽天9回戦(ロッテ5勝3敗1分、18時15分、QVCマリン、10,786人)
▽勝 成瀬 14試合8勝3敗
▽S 内 17試合1勝2S
▽敗 美馬 10試合5勝3敗
▽本塁打 里崎4号(美馬)、岡島1号(成瀬)

▽バッテリー
千葉ロッテ 成瀬、益田、内―里崎
楽天 美馬―岡島

 

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角中節、西村節

2012-07-04 00:05:48 | 千葉ロッテ

中止が発表となったときには職場の周りは雨が上がっていたのでそれなりの違和感があったのですが、19時過ぎには千葉市に大雨洪水警報が出ていましたから予報からして妥当な判断だったのでしょうし、ファンからすればズルズルと引っ張られるよりは早めの判断は助かります。
また先日の大分を考えればこの程度の雨での20キロぐらいは屁でもないものの、今日を楽しみにしていた方には申し訳ないながらも平日のスーツですので中止はウエルカムです。
日程的にも厳しいですからチームとしてもウエルカムだったのではないかと、スライドの成瀬にはネジを巻き直しての好投を期待しましょう。

角さん球宴より休養? (7/3 日刊スポーツ)

ロッテの西村徳文監督(52)が、オールスター戦に特別枠で出場する「最後の一人」を選ぶファン投票で、打率3割3分と打撃好調な角中勝也外野手(25)への投票を呼び掛けた。
球宴には選手時代に5度出場した西村監督は「他球団の選手と話して勉強できる。一回りも二回りも大きくなれる」と“オールスター効果”を期待する。
もっとも、角中本人は「日程もきついので、休みになれば。休みの計画もしている」と気乗り薄だった。

そんな中で角中がいい味を出しています。
西村監督がオールスター戦の出場に向けてアピールをしてくれているのをよそに、我が道を行くといった感じです。
こういったコメントを見れば逆手にとって票を集めようとしているのではないかとのうがった受け取り方も出来なくもありませんが、こと角中が口にすれば本音ではないかと思えるのが不思議なところで、まさに私が推すきっかけとなった異世界人ぶりが発揮をされた角中節と言ってもよいでしょう。
オールスター戦よりもスーパー銭湯にでも行って雪見だいふくを食べてた方が気楽でいいや、なんて声が聞こえてきそうです。
こういった角中であればマークが厳しくなるであろう後半戦もペースを落とさずに打ち続けてくれるだろうと、そんな期待ができるニュースでした。

ロッテ・西村監督、2軍降格の藤岡に「はい上がってほしい」 (7/3 sportsnavi)

千葉ロッテは3日、QVCマリンで東北楽天と対戦予定だったが、降雨中止となった。
以下は西村徳文監督のコメント。
「(明日は)成瀬(善久)のスライドです。早めに(中止が)決まって良かった。この天気じゃ、しょうがないでしょ。
(角中勝也はオールスターに選ばれなかったが?)パリーグの首位打者ですからね。それは出場させてあげたかった。1軍合流が少し遅かったのかなと思いますねぇ。若いので、まだまだチャンスがありますから。今みたいな結果を残していってほしいですね。
(藤岡貴裕が抹消だが?)特に期限は決めていない。彼自身も6月に1勝もできず、気持ちもめいっていた。気持ち的なリフレッシュです。入団して1軍しか知らないと思うんで、ファームに行っていろいろな経験をして、下で結果を残してはい上がってきてほしい。なので投球回数も期限も決めていない。先の分からない約束はしたくないですからね。自分の力で、またはい上がって来てくれればいいですよ」

一方で西村節も絶好調です。
角中について「少し遅かったのかな」とは他人事の極致で、もう乾いた笑いしか出てきません。
それを言うのであれば「一軍に引き上げるのが遅すぎましたね」でしょうし、藤岡に対しても「テーマを与えたのでそれをこなして逞しくなって戻ってきて欲しい」ぐらいのことは言えないのかと、毎度のことながらマスコミを使うのがあまりに下手くそすぎます。
全体の文脈が見えませんのでどこまで真意が伝わっているかは分かりませんし、悪意があってではないことも承知の上ですが、結果的にこういった形でファンだけではなく選手やスタッフの目にも触れることを意識して喋っているのかどうかは極めて疑問で、素のままにさして考えずにコメントをしているようにしか思えません。
言っている内容に問題はありませんので言い方をちょっと変えるだけで大きな武器、魅力に繋がることを、誰か教えてあげてください。
そういったところをフォローするのも広報の仕事ではないかと、ここは手嶌を刺して終わることにします。

 

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雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻

2012-07-03 20:02:26 | 日本史

 

初っ端からいきなりの大雨でした。
豊後竹田駅に併設してある観光案内所でレンタサイクルを借りたのですが、担当の方に本当に行くのかと念を押されたぐらいです。
時折に小降りになったときもありましたが、どのぐらいの雨だったかは写真に写っている跳ねっ返りを見ていただければ分かるかと思います。
トップの写真は岡城跡と言えばここという定番の石垣ですが、霧にむせぶ感じはそれはそれで幻想的かもしれません。

岡城跡は今回が二度目で、前回に来たときにはかなり上まで自転車で登ったはずなのですが、今は駄目だと断られました。
もっともこれだけの雨ですからOKでも自転車では登らなかったですし、その前回は工事車両などが多くありましたので状況が違ったのだと思います。
岡城は戦国期には大友氏の一族である志賀氏の居城で、島津氏の攻勢に対して志賀親次が耐えきったことで有名です。
説明板には播磨から移封をされた中川氏が築いたような内容になっていますが、大幅に手を入れたのはその中川氏の時代ですからあながち間違ってはいないでしょう。
残念ながら明治維新の際の廃城令で全ての建物が破却をされてしまい、悲しいかな何も遺っていません。

登り口から登っていくとぶつかるのは当たり前ですが大手門跡で、しかしやはり石垣しかありません。
ただ10年ちょっと前に一時的に再建をされたそうで、近くのお土産物屋さんにそのときの写真が置いてありました。
僅か3ヶ月で壊してしまったらしいので見てくれだけで完全な再建ではなかったのでしょうが、なんとももったいない気がします。
国の史跡なので勝手なことはできないのが理由みたいなことをお店の人は言っていましたが、実際のところはよく分かりません。

そこから進んでいくといろいろな跡があるのですが、言われなければ分からないただの野っ原でしかありません。
このあたりは岡城跡に限らず多くの城跡も似たようなもので、雨の中をちょっとだけ歩いてみましたが礎石のようなものは見当たりませんでした。
こんな建物があったんだよ、ぐらいのつもりでいればいいのでしょう。
写真は左から西ノ丸御殿跡、家老屋敷跡、城代屋敷跡です。

現在で唯一の建物はこの中川覚左衛門屋敷跡で、もちろん再建をされたものです。
中川氏の家老である中川覚左衛門家は茶道織部流の祖である古田重勝の子孫との説明板ですが、しかし古田織部正は重勝ではなく重然となります。
重勝は織部正ではなく兵部少輔で、一般的には重然の弟である重則の子と言われていますので重然の甥にあたり、中川氏の家老ではなくれっきとした大名です。
また重勝の系統は子の重恒が無嗣断絶をしていますので、その子孫であるはずがありません。
ただ重然は中川清秀の妹、つまりは岡藩の藩祖である秀成の叔母を正室としたため、全くの無関係ではないでしょう。
重然は豊臣氏への内通を疑われて嫡男の重広とともに自害をしており、係累の誰かがつてを頼って中川氏に仕官をしたことは充分に考えられます。
また重然と重勝は混同をされることが多いので、単に説明板もそれが理由だと考えるのが妥当かもしれません。

この中川覚左衛門屋敷跡はちょっと道を逸れなければ行き着けないのですが、滑るのには充分な急な坂道がありますので要注意です。
元の場所に戻ってから進めば貫木門跡、鎧櫓跡、太鼓櫓跡と続きますが、この貫木門跡の脇から見えるのがトップの石垣です。
また鎧櫓跡は貫木門跡の裏手にあたりますので、この門を守るための櫓の意味合いもあったのでしょう。
いずれもしっかりとした石垣が遺されており、さすがに国の史跡だけのことはあります。
写真は左から貫木門跡、鎧櫓跡、太鼓櫓跡です。

さらに進めば三ノ丸跡、二ノ丸跡に至りますが、こちらも言われなければ分かりません。
何かそれらしきものがないかと歩き回ってみたのですが、裸足にサンダルが泥まみれになっただけでした。
写真は左が三ノ丸跡、右が二ノ丸跡になりますが、この二ノ丸跡に瀧廉太郎の像があります。

瀧廉太郎は有名な「荒城の月」をこの岡城をイメージして作曲をしたとも言われていますが、生まれは東京です。
しかし父親に連れられてこの竹田に住んだこともあったようですので、そのときの経験が活かされたのでしょう。
ちなみに瀧家はこの後に訪れた日出藩の家老だったそうで、そちらにも全く同じポーズの銅像がありました。
これは記憶違いかもしれませんが、前回に訪れたときには銅像は今とは違って城の外側を向いていたような気がします。
写真を撮るために距離をとろうとして落ちかけたはずで、あるいは何らかの理由で場所が変わったのかもしれません。
またかなり気をつけたつもりではあったのですが、レンズに水滴がついていたことによる残念な写真にかなり凹み気味です。

岡城跡の最後は本丸跡です。
こちらもありがちな社があるぐらいでこれといったものはなく、大手門と同様に以前に見てくれの天守閣が再建をされた場所がここかどうかは分かりません。
城全体の規模が大きいので当たり前かもしれませんが、、かなり広いなという感想です。

ところで山城などはどこでも似たようなものなのですが、この岡城跡にも柵などはありません。
側まで寄ればかなり危険で、雨が降っていて滑りやすいときなどはなおさらです。
アメリカなどではこの状態で万が一にでも事故に遭えば訴訟問題となるのでしょうが、自己責任が基本の日本ならではといった感じです。
下城をしたことを誰が確認をしてくれるわけでもありませんので、この険しさですから落ちたら一ヶ月ぐらいは見つからなくても不思議ではありません。

次に向かったのはおたまや公園で、その名のとおりに中川氏の墓所があります。
岡城跡では暫くは雨が弱まったのですが二ノ丸跡あたりからまた強く降りだして、このおたまや公園に着いた頃が一番に酷かったかもしれません。
2代藩主の久盛が中川氏の菩提寺として碧雲寺を創建しましたが、これは父である初代藩主の秀成の法号にちなんでいます。

ここには中川氏の歴代藩主の墓がありますが、3代の久清は城下北方の大船山に、7代の久慶は江戸に、8代の久貞は城下東方の小富士山に埋葬をされており、また10代の久貴もここ碧雲寺に墓があるはずですが見当たらず説明板にも省かれていましたので何か理由があるのかもしれません。
また12代の久昭と13代の久成の墓は青山霊園にありましたが、現当主によりここに改葬をされています。

岡藩の初代藩主である秀成は中川清秀の次男で、兄の秀政が朝鮮の役で討ち死にをしたことで家督を継ぎました。
父の清秀は賎ケ岳の合戦で佐久間盛政に攻め殺されたことが有名ですが、従兄弟である高山重友とともに荒木村重に仕えて、その村重が謀反をするきっかけとなったと言われている本願寺への兵粮米の横流しをしたのが清秀の家臣で、かつ村重を唆しながらも自らは織田信長に降ったとも言われています。
秀成は父、兄の跡を継いで播磨三木の城主となりますが、後に豊後岡に移封をされて中川氏はそのまま岡藩主として幕末を迎えました。
2代の久盛は秀成の嫡男で、祖父である清秀を討ち取った盛政の娘を母に持つというかなり特異な出自となります。
写真は左が秀成、右が久盛です。

ここからは毎度のことながら駆け足です。
久盛の跡は嫡男の久清が3代を継ぎ、4代の久恒、5代の久通、6代の久忠と直系が続きますが、7代の久慶と8代の久貞と続けて他家から養子を取ったことで男系は断たれてしまい、一族からの養女を正室に迎えて女系で血を保とうとしたものの9代の久持が養子に迎えた10代の久貴で完全に清秀の血は消え失せてしまいました。
11代の久教、12代の久昭もまた養子ですし、何ともやるせない気持ちになります。
久昭の長男である13代の久成が久しぶりの実子相続でしたが、この久成のときに幕末を迎えて最後の岡藩主となりました。
写真は上段左から久恒、久通、久忠、久持、久教、久昭&久成です。


【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇

 

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頑張ってちょ

2012-07-03 01:05:34 | 千葉ロッテ

オールスター戦の監督推薦が発表となりました。
ロッテからは成瀬、唐川、益田、里崎で、ファン投票の井口と合わせると5人ですから標準的な人数です。
唐川よりもグライシンガーではないかと、あるいは里崎よりも角中でしょ、などと思ったりもしていますし、攝津が選ばれていないところなどには作為的なものを感じたりもしているのですが、そもそも興味がないですし頭数の都合などもあるのでしょうから的外れな指摘かもしれません。
何にせよ選ばれたからにはロッテ魂ここにありとアピールをして欲しいですし、しかし無理をして故障をしないよう頑張ってもらいたいです。
今年は三試合もありますので間延びをしたオールスター休みとなりますが、不出場組には休養と調整をしっかりとこなして後半戦に臨んでもらいましょう。

 

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