この日の大分が今回の旅の象徴のような荒天でした。
朝からかなりの雨で自転車での移動を躊躇するぐらいのものだったのですが、しかし目的地にはバスや徒歩では無理なものも多かったために頑張るしかありません。
竹田に続いてレインコートにレインパンツを着込んでの70キロ超の自転車による移動は、おそらくは今後も含めての最長不倒になると思います。
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まずは大分駅前にある大友宗麟の像ですが、しかし空模様は晴れです。
それもそもはずでこの写真のみが二日目に小倉に向かう前に撮ったもので、しかし前日の竹田の雨滴がレンズに残っているのに気がついていなかったのは失態でした。
やはり首から十字架を提げて、また刀を杖代わりにしているオーソドックスな宗麟で、もうこのイメージが脳裏に焼き付いて離れません。
雨の中をまず向かったのは長宗我部信親の墓で、長宗我部フリークですから外すわけにはいきません。
片道15キロほどですので前日の臼杵での大友義鑑の墓と似たような距離だったのですが、かなりの雨の中でしたので難渋をしました。
比較的に平坦な道だったのでそういう意味での苦労はなかったのですが、しかし最後の最後にはかなり長い坂道を登らなければならなかったのは産みの苦しみだったのでしょう。
たどり着いたときの喜びは思わず叫んでしまったほどで、周りには誰もいなかったので助かりました。
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長宗我部信親は元親の嫡男で、文武に秀でた武将として家中の期待を一身に集めていました。
しかし豊臣秀吉の九州征伐の先鋒隊として十河存保らと出陣をした際に軍監だった仙石秀久の軍功を焦っての暴走に引きずられる形で戦場で孤立をしてしまい、元服の際に織田信長から与えられた左文字の銘刀がボロボロになるぐらいに奮闘をしたものの23歳の若さで討ち取られてしまいました。
このときに桑名親光や本山親茂らも戦死し、その後の家督騒動に絡んで吉良親実や比江山親興らといった一族が粛正されるなどして長宗我部氏の力は著しく落ちましたので、この信親があまりに早く逝ってしまったことが惜しくてなりません。
近くには奮戦してちぎれんばかりだった信親の鎧が埋められたと伝えられている、鎧塚があります。
おそらくは伝承に過ぎないのでしょうが、それだけ信親の戦いぶりが壮烈なものだったのでしょう。
700人余りだった信親の部隊の一人と欠けることなく討ち死にをしたことに、島津氏で鬼武蔵と怖れられた新納忠元も敬意を表したそうです。
この長宗我部信親が逝った戦いは戸次川の戦いと呼ばれていますが、その発端は島津氏が大友氏の敦賀城を囲んだことから始まりました。
敦賀城の城主だったのが利光鑑教で、出家をした際の宗魚の号の方が有名です。
こちらは利光氏の祈願寺であった成大寺で、利光宗魚の墓があります。
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島津氏の大軍を相手に奮戦をした宗魚でしたが、戸次川の戦いの前に敢えなく討ち死にをしてしまいます。
逆に言えば城主であった宗魚が死したことで落城の危機にされされた敦賀城を守るための戦いが、戸次川の戦いのきっかけとなったとも言えます。
これは敦賀城が落ちれば大友氏の本拠である府内が直接に狙われる危険があったことが理由で、しかし肝心の大友義統、宗麟の嫡男ですが、その戦意は低かったとも言われていますので援軍として参じた豊臣軍、つまりは長宗我部氏や十河氏からすればいい迷惑だったことでしょう。
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その戸次川古戦場には場所を示す看板が立っているだけで、その激戦を思わせるものは当たり前ですが何も残っていません。
そもそも戸次川はこの戸次付近に流れる部分をそう呼んでいただけで、今も昔も本来は大野川です。
ざっと見た感じでは軽く100メートルは超えるであろう川幅がありますので、調子に乗って渡れば進退窮まるのは目に見えています。
一部には四国勢の勢力を削るために敢えて無謀な戦いを挑んだとも言われていますが、これだけの失態をして改易をされながらも仙石秀久は数年後には大名として復活をしましたので全くない話でもないかなと、そうなれば長宗我部フリークとしては腸の煮えかえる話であることは言うまでもありません。
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川に沿って走る国道の脇に、長宗我部信親終焉の地の碑があります。
これは気がつかない方が不思議なぐらいなのですが、なぜか見つけるのに一時間以上もかかりました。
相当な雨で人が歩いていなかったことで場所を聞くことができなかったという理由もありましたが、あまりの雨に気持ちが焦っていたこともあったのでしょう。
何はともあれ無事に目的の全てをクリアしましたので、少しだけ気が楽になりつつ大分市街まで戻ることとなりました。
その大分市街で最初に目についてしまったのが、道路に挟まれたところにある瀧廉太郎終焉の地です。
瀧廉太郎は華々しく活躍をしたかと思いきや、僅か23歳で結核のために亡くなっています。
その最後の場所が府内町で、ここに自宅がありました。
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ほど近いところに、フランシスコ・ザビエルの像があります。
このポーズを見て、前回に訪れたときに三脚のケースを十字架に見立てて同じポーズをして写真を撮ったことを思い出しました。
そのときは今回とは違って晴天でしたので人通りも多く、この怖いもの知らずは齢を重ねても変わりはありません。
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いよいよ日本100名城の府内城跡です。
豊後の中心地とも言える府内の城ですので大友氏の居城と思いがちですが、築いたのは福原直高です。
同じ府内に大友館がありましたので大友氏の本拠であったことは間違いありませんが、しかしあくまで館であり城郭ではありません。
この府内城は関ヶ原の戦いの直前から築城が始まったものの西軍に加わった福原直高が改易をされたために、現在の形にしたのは府内藩を興した竹中重利です。
重利は竹中重治の従兄弟であり、またその妹を娶ったことで義兄弟でもあります。
こちらは着到櫓で、1965年に復元をされました。
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着到櫓は文字どおりに城に着いた者を出迎えるような場所に位置していますので、そこに大手門が連なっています。
よってそのまま城内に入りたい誘惑に駆られましたが、何とかこらえて時計と反対回りに回ることとしました。
写真は上から平櫓、二重櫓、人質櫓、西南隅二重櫓ですが、このうちで遺構なのは人質櫓だけです。
他は着到櫓と同時期に復元をされたものですが、特に違和感はありません。
これで天守閣があればもう完璧なのですが、やはりそこまでを一度に望むのは無理なのでしょう。
少しずつでも現状復帰の方向に向かってくれれば、残り長い人生でもありませんが気長に待つことができます。
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そう思えるのはこの廊下橋が1996年に復元をされたからで、きっといつかは天守閣がそびえる日が来るだろうと期待が持てます。
かなりの雨で自転車を放置するのが躊躇されましたが、せっかくですのでしっかりと往復を渡らせてもらいました。
ただ中の灯りが電灯なのがちょっと興ざめで、もちろん火の用心ですから仕方のないところではあるのですが、それであれば無灯でもよかったのではないかと思います。
廊下橋の脇には慶長の石垣がありました。
府内城は先の福原氏、竹中氏、日根野氏、そして大給松平氏が城主となりましたが、慶長は1615年までですから福原直高か竹中重利のときのものとなります。
必ずしも築城当時の石垣が残っているわけではなく、改修によって失われることもままありますので、よってこうやって特別に展示がされているのでしょう。
何かが足りないと暫く考えて、ようやくに気がついたのが宗門櫓です。
こちらも人質櫓と同じく当時の遺構で、これを見落とすわけにはいきません。
城の外側から見ればかなり地味な感じですが、内側から見るとしっかり二重櫓となっています。
雨が全盛で見るも無惨な写真となってしまったことで、ご紹介できないことが残念至極です。
外側からの堪能も終わりましたので、いよいよ城内に踏み込みます。
迎え入れるのは大手門で、いわゆる櫓門となっています。
こちらも他の復元櫓と同じく1965年の復元ですので、ちょっと親近感がわいてくるのは個人的な事情であることは言を俟ちません。
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ここにも当たり前のように大友宗麟の胸像がありました。
府内城は大友氏の居城ではありませんでしたので本来は違和感がありありなのですが、それを感じさせない存在感です。
他の像と違うのはおそらくは洋装であることで何となくこちらの方がしっくりとしますし、一方で顔つきが似た感じなのはやはり共通のモデルがあるのでしょう。
府内城には四重の天守がありましたが、火災で焼失をした後は再建をされることはありませんでした。
経済的な問題が大きかったのでしょうが、江戸期ともなれば城郭としての天守閣はもはや不要ということだったのでしょう。
城内に遺されている天守台の規模からすればそれなりの天守閣だったと思いますので残念ではありますが、こればっかりは仕方がありません。
トップの写真はその天守台を登ったところで、天気さえよければのんびりと時間を潰すには最高の場所だと思います。
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雨は止むどころか雨足がむしろ強まったことで心が折れかけましたが、近場だけでも回っておこうと向かったのが浄土寺です。
ここには徳川家康の孫にあたる、松平忠直の廟所があります。
忠直の父は家康の次男の秀康であることから本来であれば自らが将軍だったはずとの思いがあったらしく、そのことで叔父の2代将軍の秀忠との仲は悪かったと言われています。
しかし秀忠は娘を娶せるなどして兄の秀康と同様に一定の配慮をしますが、粗暴な忠直の行状が改まらないために隠居を命じて府内に配流としました。
忠直は出家をして一伯と名乗りここ府内で30年近い謹慎生活の後に56歳で病死をし、菩提寺とした浄土寺で眠っています。
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浄土寺の近くにある神宮寺浦公園、公園と呼ぶにはあまりに狭い場所ですが、ここにも大友宗麟の像がありました。
宗麟が南蛮貿易をした跡地ですので銅像があっても不思議ではないのですが、それにしても同じようなものばかりで食傷気味です。
同一人物かよ、みたいなものもどうかとは思いますが、さすがにここまでくればやり過ぎでしょう。
もう少しバラエティさが欲しかったかなと、いろいろと事情はあるのでしょうがちょっと残念ではありました。
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最後は円寿寺で、日根野吉明の廟所があります。
吉明は美濃斎藤氏の重臣だった弘就の孫で、竹中氏が改易となった後に府内城に入りました。
城下町の整備と治水事業に大きな成果を上げたことで名君として称えられましたが、無嗣断絶で日根野氏は一代で途絶えています。
死の直前に末期養子を申し出たものの家中の足並みが揃わなかったことで幕府に認めて貰えなかった、という話もあるようです。
【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇