電脳筆写『 心超臨界 』

水の流れが岩と衝突するところ常に水の流れが勝る
力ではなくその持続性によって
( お釈迦さま )

日本史 昭和編 《 溥儀の家庭教師ジョンストンが伝えた真実――渡部昇一 》

2023-12-10 | 04-歴史・文化・社会
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11月29日、その日は強風が吹き、砂塵濛々(もうもう)として視界が利かなかった。溥儀は荷造(にづくり)もせず、宝石類をジョンストンの毛皮の服に隠し持たせただけで逃げ、まず租界内のドイツ病院に入った。そこの医者は紫禁城に来たことがあって、知り合いだったからである。そして、ジョンストンは直ぐに日本公使館に行った。ジョンストンは日本公使館が最も効果ある保護を与えてくれると信じたからである。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p332 )
2章 世界史から見た「大東亜(だいとうあ)戦争」
――三つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた
(4) 満州国建国の真実

◆溥儀(ふぎ)の家庭教師ジョンストンが伝えた真実

ラスト・エンペラー宣統(せんとう)皇帝こと溥儀は、3歳で清朝第12代皇帝として即位したが、革命が起きたので退位するに至った。

しかし、退位後もしばらくは紫禁(しきん)城(現在の故宮(こきゅう))に居ることを許され、後に頣和(いわ)園(北京の名園)に移ることになっていた(映画では革命後も溥儀が前と変わりなく生活している様子が示されていた)。又年金400万両を与えられ、皇帝の尊称はそのまま残し、外国君主に対すると同じ礼遇を受けることになっていた。また、宗廟(そうびょう)の祀(まつり)を続け、代々の皇帝の陵墓には警備をつけてもらい、皇族も位も保ち、私産を保護され、兵役を免ぜられるという特権も与えられていた。廃帝(はいてい)に与えられた待遇としては破格の優遇であって、フランス革命や、ロシア革命のごとき残虐さは、まったくない。これは、仲介に立ったイギリスの忠告があった結果だと思われる。

その後、ふたたび皇帝に戻そうという復辟(ふくへき)運動が、康有為(こうゆうい)らによって行なわれたが成功せず、溥儀は17歳で紫禁城内で結婚し、そこに留(とど)まっていた。

そのコップの中の、否(いな)、紫禁城の中の平和も長く続かず、1924年(大正13)に馮玉祥(ひょうぎょくしょう)がクーデターを起こし、その軍隊は、溥儀と皇后たちに3時間以内で紫禁城から退去することを命じたのである。

馮玉祥はクリスチャン・ジェネラル(将軍)ということで、外人宣教師の間に一時は人気があったが、共産主義に共鳴していたのである。その後モスクワに行った時、その滞在中、レーニンの肖像画を描(えが)いて暮らしたという男であった。

溥儀の紫禁城脱出後の行為を、中国人たちは例のデマ宣伝で、日本人が溥儀の意志に逆って、その身柄を誘拐したのだということを言い触らし、この話はヨーロッパにも広まり、それを信じている人々も少なくないが、これはまったくのでたらめである。

この前後の事実の詳細を、溥儀の側にいてよく知っており、それを書き残してくれたのは、溥儀の個人教師を務めていたイギリス人レジナルド・フレミング・ジョンストン卿である。彼の Twilight in the Forbidden City(1934年=昭和9、荒木武行訳『禁苑(きんえん)の黎明(れいめい)』大樹社書房)以外には、この問題についての信頼できる資料はないと言ってよい(本書については、荒木訳の他に関東玄洋社刊の訳書があるが未見である。最近、岩波文庫より『紫禁城の黄昏』〔入江・春名訳〕が出たが、10章以上も削除され、原著の意義が損なわれている)。

彼はエジンバラに生まれ、エジンバラ大学およびオクスフォード大学に学び、後にシナ各地を踏査しつつ研究を続け、秀(すぐ)れた業績をあげた。その後、映画『ラストエンペラー』にも描かれているが、溥儀に忠実に仕え、イギリスに帰ってからも死ぬまで溥儀に忠誠心を失わなかった。晩年はロンドン大学で教えたが、彼と政治的見解を異にする人も、彼の真摯で飾り気のない人柄に尊敬を払わざるをえなかったという。

ところで、エドワード・ベアも『ラスト・エンペラー』という小説を書いており、やはりこのジョンストンの本を使っている。だが、ベア自身は病的とも思われるほどの日本人嫌いであるので、ジョンストンの書いている肝腎のところが伝わっていない(映画のほうが、ジョンストンの記述に忠実である)。

そこで溥儀が、いかにして祖宗の発祥地である満州に帰る決心をするに至ったかを、ジョンストンの本から要点を紹介してみよう。

1924年(大正13)11月5日、3時間以内に紫禁城から退去することを命じられた溥儀夫妻は、わずかな身の回りの物を持っただけで、父の邸(やしき)のある北府(ほくふ)にいくことになった。今や皇帝でなくなったのに、溥儀には居住地を決める自由も与えられなかった。馮玉祥らは、溥儀が自分たちの武力の及ばない外国公使館区域に行かれては都合が悪いと考えたからである。父の邸は北京市街の北端にあり、公使館区域(租界)からは5、6キロ離れていた。この邸は安全でなかった。

というのは、当時の北京にも「滅清興漢(めっしんこうかん)」、すなわち満州族の清を滅ぼして、漢人(チャイニーズ)の国を造ろうという民族運動が盛んであって、テロの虞(おそれ)が充分あったからである。特に学生たちは共産主義にかぶれていた(ロマノフ王朝の人々に対してなされた大虐殺が手本になる可能性が、つねにあった)。溥儀一族に最も丁寧であったのは汪兆銘(おうちょうめい)(精衛(せいえい))であったことは、注目に値しよう。

そのうち北京に再びクーデターが起こるという噂が生じ、早く溥儀が公使館区域に逃げこまないと危くなった。しかし、主要道路は馮玉祥の軍隊でいっぱいである。

11月29日、その日は強風が吹き、砂塵濛々(もうもう)として視界が利かなかった。溥儀は荷造(にづくり)もせず、宝石類をジョンストンの毛皮の服に隠し持たせただけで逃げ、まず租界内のドイツ病院に入った。そこの医者は紫禁城に来たことがあって、知り合いだったからである。

そして、ジョンストンは直ぐに日本公使館に行った。ジョンストンは日本公使館が最も効果ある保護を与えてくれると信じたからである。また、この考えには英国公使ロナルド・マクレー卿も同意してくれた。北清事変以来、シナ大陸に駐在する列国外交官たちの、日本に対する信頼は絶大なるものがあったのである。

日本公使(当時は、まだ大使の派遣はない)は、芳沢謙吉(よしざわけんきち)であったが、ジョンストンの依頼をすぐに引き受けてくれなかった。芳沢は部屋の中をぐるぐる歩きながら考えてから、ようやく溥儀を引き受ける決断を下したのであった。それから芳沢は、「適当な部屋」を準備したいから、しばらく今いるドイツ病院で待ってくれるように言った。1時間ほどして日本公使館に溥儀は入ることになったが、芳沢夫妻が溥儀のために用意した「適当な部屋」とは、公使館の中の最善の部屋である自分たちの私室を含む、2階の3部屋であった。そして、溥儀は翌1925年(大正14)2月23日まで、約4ヵ月間、この日本公使館の賓客として過ごすことになったのである。
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