電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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◆我に続け!
『人生を創る言葉』
( 渡部昇一、致知出版社 (2005/2/3)、p115 )
第3章 勇気と覚悟――運命を開くもの
[ 蒲生氏郷 ]
安土桃山時代の武将。秀吉に仕え、小田原の役の功によって、会津
若松城主となる。また、キリスト教の信者であった。
(1556~95)
蒲生氏郷は、17歳のときに主君である織田信長に頼んで、柴田勝家の下につけてもらいたいと願った。なぜ柴田の下なのか。その理由が面白い。
柴田につけば又者(またもの)、つまり信長の家来の家来になる。それよりは信長直属の家来でいるほうが、格としては上である。しかし、と氏郷はいうのである。
「又者になるのはいかにも残念であるけれど、柴田はいつも織田軍の先方をうけたまわる軍隊である。しばらくはその部下について、その戦いの駆け引きを見習いたい」
こうして氏郷は17歳のときに柴田勝家の部下となった。
この氏郷が新しい侍を召し抱えるときに、こんなことをいった。
「お前が縁があって蒲生家に仕えることになったからには、どうかよろしく勤めてもらいたい。何よりもお前に望みたいことがある。合戦のときに銀の鯰尾(なまずお)の兜(かぶと)を頂いた武士が真っ先に進むであろう。そちはその者に負けぬように懸命に働いてくれ」
さて、合戦になると、なるほど銀の鯰尾の兜が真っ先に進んで行く。すると「これが殿様が仰せになったことだ」と、誰もがあの銀の鯰尾に遅れてたまるかと、我も我もと突き進んで必死になって戦うので、蒲生軍はいつも勝利した。
それでは、その銀の鯰尾の兜をかぶって真っ先に進むのは何人かといえば、それは氏郷自身であった。それについて氏郷はこういっている。
「主将となって人を指揮する者が、進め進めと後ろから号令をかけているようでは、誰も進む者はあるまい。己がまず進むべき地に進み、我に続けといってこそ、人も進んで来るものじゃ。真に人を進ましめる道は、この外にない」
これは実戦の部隊長の心得である。しかし、蒲生氏郷は実戦部隊長にとどまらない大きな器量の持主でもあって。そのため秀吉も非常に重んじて、仙台の伊達政宗を抑えるために会津百万石(正確には九十一万石と言われる)を与えたのである。
そのとき、蒲生氏郷ははらはらと涙を流したという。家来たちは「百万石の大大名になったので、嬉しくて泣いたのだろう」と思っていたが、そうではなかった。たとえ十分の一の十万石でも、また五万石でも、京都の近くにいれば事が起こったときに名を成せるが、会津にいてはいざというときに働けない。「それが残念だ」といって泣いたのである。
武人とは氏郷のような人のことをいうのである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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◆我に続け!
『人生を創る言葉』
( 渡部昇一、致知出版社 (2005/2/3)、p115 )
第3章 勇気と覚悟――運命を開くもの
[ 蒲生氏郷 ]
安土桃山時代の武将。秀吉に仕え、小田原の役の功によって、会津
若松城主となる。また、キリスト教の信者であった。
(1556~95)
蒲生氏郷は、17歳のときに主君である織田信長に頼んで、柴田勝家の下につけてもらいたいと願った。なぜ柴田の下なのか。その理由が面白い。
柴田につけば又者(またもの)、つまり信長の家来の家来になる。それよりは信長直属の家来でいるほうが、格としては上である。しかし、と氏郷はいうのである。
「又者になるのはいかにも残念であるけれど、柴田はいつも織田軍の先方をうけたまわる軍隊である。しばらくはその部下について、その戦いの駆け引きを見習いたい」
こうして氏郷は17歳のときに柴田勝家の部下となった。
この氏郷が新しい侍を召し抱えるときに、こんなことをいった。
「お前が縁があって蒲生家に仕えることになったからには、どうかよろしく勤めてもらいたい。何よりもお前に望みたいことがある。合戦のときに銀の鯰尾(なまずお)の兜(かぶと)を頂いた武士が真っ先に進むであろう。そちはその者に負けぬように懸命に働いてくれ」
さて、合戦になると、なるほど銀の鯰尾の兜が真っ先に進んで行く。すると「これが殿様が仰せになったことだ」と、誰もがあの銀の鯰尾に遅れてたまるかと、我も我もと突き進んで必死になって戦うので、蒲生軍はいつも勝利した。
それでは、その銀の鯰尾の兜をかぶって真っ先に進むのは何人かといえば、それは氏郷自身であった。それについて氏郷はこういっている。
「主将となって人を指揮する者が、進め進めと後ろから号令をかけているようでは、誰も進む者はあるまい。己がまず進むべき地に進み、我に続けといってこそ、人も進んで来るものじゃ。真に人を進ましめる道は、この外にない」
これは実戦の部隊長の心得である。しかし、蒲生氏郷は実戦部隊長にとどまらない大きな器量の持主でもあって。そのため秀吉も非常に重んじて、仙台の伊達政宗を抑えるために会津百万石(正確には九十一万石と言われる)を与えたのである。
そのとき、蒲生氏郷ははらはらと涙を流したという。家来たちは「百万石の大大名になったので、嬉しくて泣いたのだろう」と思っていたが、そうではなかった。たとえ十分の一の十万石でも、また五万石でも、京都の近くにいれば事が起こったときに名を成せるが、会津にいてはいざというときに働けない。「それが残念だ」といって泣いたのである。
武人とは氏郷のような人のことをいうのである。