電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意すると決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

人生を創る言葉 《 我に続け!――蒲生氏郷 》

2024-09-26 | 03-自己・信念・努力
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◆我に続け!


『人生を創る言葉』
( 渡部昇一、致知出版社 (2005/2/3)、p115 )
第3章 勇気と覚悟――運命を開くもの

[ 蒲生氏郷 ]
安土桃山時代の武将。秀吉に仕え、小田原の役の功によって、会津
若松城主となる。また、キリスト教の信者であった。
(1556~95)

蒲生氏郷は、17歳のときに主君である織田信長に頼んで、柴田勝家の下につけてもらいたいと願った。なぜ柴田の下なのか。その理由が面白い。

柴田につけば又者(またもの)、つまり信長の家来の家来になる。それよりは信長直属の家来でいるほうが、格としては上である。しかし、と氏郷はいうのである。

「又者になるのはいかにも残念であるけれど、柴田はいつも織田軍の先方をうけたまわる軍隊である。しばらくはその部下について、その戦いの駆け引きを見習いたい」

こうして氏郷は17歳のときに柴田勝家の部下となった。

この氏郷が新しい侍を召し抱えるときに、こんなことをいった。

「お前が縁があって蒲生家に仕えることになったからには、どうかよろしく勤めてもらいたい。何よりもお前に望みたいことがある。合戦のときに銀の鯰尾(なまずお)の兜(かぶと)を頂いた武士が真っ先に進むであろう。そちはその者に負けぬように懸命に働いてくれ」

さて、合戦になると、なるほど銀の鯰尾の兜が真っ先に進んで行く。すると「これが殿様が仰せになったことだ」と、誰もがあの銀の鯰尾に遅れてたまるかと、我も我もと突き進んで必死になって戦うので、蒲生軍はいつも勝利した。

それでは、その銀の鯰尾の兜をかぶって真っ先に進むのは何人かといえば、それは氏郷自身であった。それについて氏郷はこういっている。

「主将となって人を指揮する者が、進め進めと後ろから号令をかけているようでは、誰も進む者はあるまい。己がまず進むべき地に進み、我に続けといってこそ、人も進んで来るものじゃ。真に人を進ましめる道は、この外にない」

これは実戦の部隊長の心得である。しかし、蒲生氏郷は実戦部隊長にとどまらない大きな器量の持主でもあって。そのため秀吉も非常に重んじて、仙台の伊達政宗を抑えるために会津百万石(正確には九十一万石と言われる)を与えたのである。

そのとき、蒲生氏郷ははらはらと涙を流したという。家来たちは「百万石の大大名になったので、嬉しくて泣いたのだろう」と思っていたが、そうではなかった。たとえ十分の一の十万石でも、また五万石でも、京都の近くにいれば事が起こったときに名を成せるが、会津にいてはいざというときに働けない。「それが残念だ」といって泣いたのである。

武人とは氏郷のような人のことをいうのである。
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