電脳筆写『 心超臨界 』

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桑の葉がやがてシルクのガウンになる
( 中国のことわざ )

日本史 鎌倉編 《 現実主義によって統合した南北朝――渡部昇一 》

2024-06-02 | 04-歴史・文化・社会
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北朝は、元来は武家方が状況処理の便宜上から作ったものであるから、どちらかといえば状況倫理的であった。足利尊氏などは、どこから見ても固定倫理を持っていた人間とは思われない。それに反して南朝は、楠木正成から北畠親房に至るまで、正統論という固定倫理で支えられており、これが力の根源であった。しかし、南朝の柱石とも言うべき楠木氏が状況倫理に動かされるや、立ち続けることができなくなったのである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p152 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(4) 正統論からの脱却――楠木正儀(まさのり)の現実主義

◆現実主義によって統合した南北朝

一方、南朝方もずいぶん混乱しているのだ。楠木正儀(まさのり)と言えば、正成(まさしげ)の子であり、正行(まさつら)の弟である。父や兄が戦死してからは、楠木一族のリーダーであり、兵力不足の南朝側にあっては主力軍を形成していた。南朝側が京都に4回も攻めこむことができたのも、楠木正儀がいたからである。

南朝も楠木氏を信頼すること厚く、正儀は河内(かわち)・和泉(いずみ)・摂津(せっつ)三カ国の国守(こくしゅ)と守護を兼ね、左衛門督(さえもんのかみ)・左馬頭(さまのかみ)に任ぜられている。その正儀が、後醍醐天皇の跡を継がれた後村上(ごむらかみ)天皇が没されるや、その翌年に、足利側になったのだから大変である。

楠木正儀という人は父ゆずりの武勇の人であったが、同時に政治的な配慮のある人でもあった。正成・正行はただ一筋に宋学的な正統論者であって、その主義に殉じたのに反し、正儀は啓蒙されていたと言えると思う。そして啓蒙時代の西洋の戦争のように、相当にゲーム化していくところがある。

たとえば南朝軍が第四回目の京都進駐を行なったとき、足利二代将軍義詮(よしあきら)の下の最高幹部であった佐々木道誉(どうよ)(高氏(たかうじ))は、自分の邸(やしき)を美しく飾り、ご馳走まで用意して正儀に引き渡している。そして正儀自身も、南朝軍が京都を持ちこたえることができなくなって撤退するときには、その邸をきちんとし、お土産として鎧(よろい)や刀を置いて引き揚げたという。

湊川で七生報国を念じて死んだ父の世代や、四条畷(しじょうなわて)の戦い(1348年、楠木正行が足利方の高師直(こうのもろなお)らを河内・四条畷に迎撃した戦い)で、

「かえらじと かねて思えば あずさ弓……」

という辞世の句を詠んで玉砕した兄の正行の世代と違った発想である。

それなのに、新しく南朝の天皇になられた長慶(ちょうけい)天皇とその取巻きの人々の間では、昔と同じ強硬論が支配的であった。

啓蒙時代の人が三十年戦争(1618-48年、ドイツを舞台に行なわれた、新教と旧教の戦争)のような宗教戦争を見れば、まったく無駄な流血と思うであろうが、まったくそれと同じ具合に、宋学イデオロギーから抜けた正儀には、南北両朝の争いが無駄に思われたのであろう。

正儀は南朝軍の主力でありながらも、和平には最も熱心であった。

彼は長い間、河内・和泉の領主であり、南朝にも重んじられ、北朝にも一目置かれていたのであるから、これ以上、戦い続けることの意義を認めなかったのである。

しかし北畠親房(ちかふさ)が生きている間は、強硬論が南朝を支配していたし、親房の器量も大きかったので、むしろ尊氏を降参させたりもしたのである。だが、親房亡きあとの強硬論は、単に強硬論を吐く人がいるだけで、親房のような人物はいない。

それに反して、足利方は義満が三代将軍となり、その後見役となった細川頼之(よりゆき)は立派な人物であった。それで将軍義満は10歳の少年だったのに、頼之の力によって天下は尊氏や義詮(よしあきら)のときよりもずっと安定してきた。

正儀はこの天下の形勢を知っていたし、頼之とは前から和平について話をすすめていたのである。

しかし後村上天皇の没後、強硬派によって和平交渉は反対され、南朝での立場が浮き上がってくると、足利方に投じたのであった。

足利方はもちろん楠木の投降を歓迎し、本領安堵(領地の所有権を承認すること)し、中務大輔(なかつかさたゆう)の官職を与えている。

当然、南朝方の反感は強く、また楠木一族の中にも反対者が出た。このため正儀は一時、河内から退却しなければならぬような事態にもなった。

しかし、その後、正儀は足利軍を先導して、南朝の行宮(あんぐう)(仮の宮居)のある高野山金剛寺を襲撃し、長慶天皇は吉野山に逃れた。そして南朝側の強硬派の多くもこの戦(いくさ)で敗死した。

ところがさらにおかしいのは、これから数年後に、正儀は再び南朝にもどって、参議という高位を与えられているのである。

この背景には、南朝側では、強硬派の長慶天皇に代わって、穏健派の後亀山(ごかめやま)天皇が即位されたことと、足利方でも細川頼之が失脚し、かの有名な「海南行(かいなんこう)」の七言絶句(「人生五十にして功なきを愧(は)ず……」)を作って四国の讃岐へ帰ってしまったことがあるのであろう。

正儀から見れば、足利方にいる知己(ちき)を失ったわけであるし、南朝は元来の古巣であるから、強硬派がいなくなればもどってもよい、ということであったのだろう。

ここでも正儀の行動の原理は、今日でいう状況倫理(シチュエイション・エセックス)に近いものである。行動の正か否かは、そのときの状況を考えて判断すべきであるという思想であって、行動の原理はドグマからはこない。

数年前に亡くなったアメリカの神学者ラインホウルド・ニーバーは、人によっては現代アメリカの最大の政治学者とも言われているが、彼の神学というのは、簡単に言うとドグマ的なことにとらわれずに、もっとよく状況というものを考えるのが倫理であるということらしい。

だから彼は戦前のデトロイトの牧師としての経験から、激しい資本主義の批判者となった。しかし平和主義に固執する社会主義者と手を切って、ヒトラーとの戦いに参加することを主張する。マルキシズムに近い思想を抱きながら、ソ連の拡大主義に反対して、冷戦の熱心な支持者であった。反共ではあるが、北京政府を承認することを早くから主張していた少数のアメリカ人の一人でもあり、ヴェトナム戦争にも早い時期から反対していた。

振り返ってみると彼の判断は、そのときそのときの情勢から見て、実に的確で現実的である。しかし、それがキリスト教の倫理とどう連なっているのかは明らかでない。だから状況倫理なのである。

ドグマ的宋学倫理ではじまった楠木一族は、現実的な状況倫理で終わったのである。それとともに南朝も終わることになった。

北朝は、元来は武家方が状況処理の便宜上から作ったものであるから、どちらかといえば状況倫理的であった。足利尊氏などは、どこから見ても固定倫理を持っていた人間とは思われない。

それに反して南朝は、楠木正成から北畠親房に至るまで、正統論という固定倫理で支えられており、これが力の根源であった。

しかし、南朝の柱石とも言うべき楠木氏が状況倫理に動かされるや、立ち続けることができなくなったのである。

そして楠木氏自体も消えてしまう。これは固定倫理に固執した北畠氏が、戦国大名として残ったのと奇妙な対比を示している。

そして、この状況倫理支配の下で南北両朝は再び「統合」されることになった。
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