20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
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◆公山弗擾(こうざんふつじょう)、費(ひ)を以て畔(そむ)き子を召す
『現代語訳 論語』
( 宮崎市定、岩波書店 (2000/5/16)、p291 )
陽貨第十七(435~460)
439 公山弗擾。以費畔。召子。欲往。子路不説曰。末之也已。何必公山氏之之也。子曰。夫召我者。而豈徒哉。如有用我者。吾其為東周乎。
(訓) 公山弗擾(こうざんふつじょう)、費(ひ)を以て畔(そむ)き子を召す。往かんと欲す。子路(しろ)、説(よろこ)ばずして曰く、之(ゆ)く末(な)からんのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之(ゆ)かんや。子曰く、夫れ我を召す者は、豈(あ)に徒(いたず)らのみならんや。如し我を用うる者あらば、吾は其れ東周と為さんか。
(新) 公山弗擾なる者が費の邑に拠って叛乱を起し、孔子を招いた。孔子が往こうとした。子路は不賛成を唱えて言った。行くには及ばないでしょう。何故、選りに選って公山弗擾などを助けに行くのですか。子曰、私を見込んで招くからには、きっとそれだけの理由があるに違いない。本当に私の言うことに従うなら、わたしはそれを東周再興のように仕立ててみせるのだが。
召子欲往の句を、従前の注釈はほとんど凡て、召す、で句を切り、子往かんと欲す、と続ける。これは子を召す、と続けると、何か孔子に対して失礼にあたるように感じた上でのことであろう。しかし下文を見ると、孔子の言葉の中に、我れを召す、という句があり、これはこの外に別な読み方をしようと思っても方法がない。してみれば論語のこの章の筆者は、明かに上文を、子を召す、と読まれることを期待して書いたに違いないのである。同じく孔子を尊崇するにしても、論語成立の当初と、これを経典として受取った後世との間には、孔子観においてこれだけ大きな隔たりがあることを注意すべきであろう。441も同じ。
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◆公山弗擾(こうざんふつじょう)、費(ひ)を以て畔(そむ)き子を召す
『現代語訳 論語』
( 宮崎市定、岩波書店 (2000/5/16)、p291 )
陽貨第十七(435~460)
439 公山弗擾。以費畔。召子。欲往。子路不説曰。末之也已。何必公山氏之之也。子曰。夫召我者。而豈徒哉。如有用我者。吾其為東周乎。
(訓) 公山弗擾(こうざんふつじょう)、費(ひ)を以て畔(そむ)き子を召す。往かんと欲す。子路(しろ)、説(よろこ)ばずして曰く、之(ゆ)く末(な)からんのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之(ゆ)かんや。子曰く、夫れ我を召す者は、豈(あ)に徒(いたず)らのみならんや。如し我を用うる者あらば、吾は其れ東周と為さんか。
(新) 公山弗擾なる者が費の邑に拠って叛乱を起し、孔子を招いた。孔子が往こうとした。子路は不賛成を唱えて言った。行くには及ばないでしょう。何故、選りに選って公山弗擾などを助けに行くのですか。子曰、私を見込んで招くからには、きっとそれだけの理由があるに違いない。本当に私の言うことに従うなら、わたしはそれを東周再興のように仕立ててみせるのだが。
召子欲往の句を、従前の注釈はほとんど凡て、召す、で句を切り、子往かんと欲す、と続ける。これは子を召す、と続けると、何か孔子に対して失礼にあたるように感じた上でのことであろう。しかし下文を見ると、孔子の言葉の中に、我れを召す、という句があり、これはこの外に別な読み方をしようと思っても方法がない。してみれば論語のこの章の筆者は、明かに上文を、子を召す、と読まれることを期待して書いたに違いないのである。同じく孔子を尊崇するにしても、論語成立の当初と、これを経典として受取った後世との間には、孔子観においてこれだけ大きな隔たりがあることを注意すべきであろう。441も同じ。