20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』 55.1K
■安倍晋三総理 移民受入れ4連発動画 419.7K
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6月14日にフランスがドイツに降伏すると、その日から猛烈な数のウィルキー支持者が共和党大会に電報を送りウィルキー支持を訴えます。結局他の有力候補を抑えて、彼が大統領選挙の候補者になったのです。これは極めて重要な話で、なぜヨーロッパで戦争が起きている時にまったく無名の人間が共和党の候補に選出されたのか。最近の研究で出てきた話なので、しかたない面もありますが、釈明史観の歴史家は、アメリカの不可解な1940年大統領選挙を深く考察しようとしていません。
◆日米戦争と1940年のアメリカ大統領選の関係――渡辺惣樹
『グローバリストの近現代史』
( 渡辺惣樹&茂木誠、ビジネス社 (2022/2/17)、p167 )
なぜ日中戦争から日米戦争に移ったかを見てみたいと思います。
基本的に日中戦争は、日本軍が圧倒的に勝っていました。一方ヨーロッパではフランスがドイツ軍に蹂躙されて、イギリスが孤立していた。ヨーロッパではナチスが勝ち、アジアでは日本が勝つといった状況でした。
ここで困ったのが、チャーチルと蒋介石です。だから二人は何が何でもアメリカを引っ張り込みたかった。ただしルーズヴェルトの頭にあったのは、ヨーロッパだけです。おそらく9対1ぐらいの割合で、イギリスを助けることを考えていた。
そう考えた時、多くの日本の歴史家が言う「日本の中国戦線の拡大が日米戦争を招いた」という見方は中国目線に偏りすぎです。
ここで注目したいのが、1940年のアメリカ大統領選挙です。政治家として無名だったウェンデル・L・ウィルキーが、元大統領のハーバート・フーバーら名だたる共和党の候補者を抑えて大統領選に出られた。これはなぜなのか。
これは先ほど申し上げた、釈明史観の人たちがまったく触れない事件の一つです。ウィルキーは1939年まで民主党員で、いっさい公務についたことのないニューヨークの法律家でした。裏では女性問題もかかえていた。1940年5月の世論調査でウィルキーの支持は3パーセントです。
それからわずか、1カ月半後の6月第3週の共和党全国大会で、彼は大統領候補に選ばれるのです。こんなことができたのは、チャーチルの工作があったからです。
当時のイギリスは、アメリカのロックフェラーセンタービルの22階と23階にBSCという諜報機関を置き、2000人ほどがスパイ活動とアメリカの世論工作に暗躍していました。BSCに関する研究が最近かなり進み、彼らが1940年の大統領選挙に深く関与していたことが、わかっています。BSCの活動は米国内法に反しますがルーズヴェルトの「積極的な黙認」がありました。彼の指示を受けてFBIも協力していた節があります。
6月に行われる共和党全国大会の1カ月前まで、全国大会の委員長は上院議員のロバート・タフトを押していました。ところが委員長が急死し、パンナム航空の幹部が新しい委員長になります。彼がJPモルガンとつながっていて、共和党大会に大変な数のウィルキー支持者を送り込むのです。
さらに6月14日にフランスがドイツに降伏すると、その日から猛烈な数のウィルキー支持者が共和党大会に電報を送りウィルキー支持を訴えます。結局他の有力候補を抑えて、彼が大統領選挙の候補者になったのです。
これは極めて重要な話で、なぜヨーロッパで戦争が起きている時にまったく無名の人間が共和党の候補に選出されたのか。最近の研究で出てきた話なので、しかたない面もありますが、釈明史観の歴史家は、アメリカの不可解な1940年大統領選挙を深く考察しようとしていません。
結局ウィルキーは大統領選で負けますが、その後は勝利したルーズヴェルト支持に転じ、ルーズヴェルトの名代みたいな形で世界中を回るようになります。1941年1月には報道陣を連れてロンドンへ行き、空爆されたロンドンを視察して、チャーチルを激励します。これはチャーチルの仕掛けでもあります。イギリス国民の果敢に戦う姿をアメリカ国民に見せようとしたのです。
翌10月にはエジプト、エルサレム、モスクワを回り、モスクワではスターリンと会っています。その後、中国の重慶に入り、蒋介石夫妻と妻の宋美齢の兄・宋子文から大歓迎を受けます。
ここでウィルキーは、宋美齢からハニートラップを仕掛けられます。パーティを二人で抜け出し、美齢が設立に関与した病院の最上階に行くのです。しっかりと警備された部屋で何があったかは想像するしかありませんが、朝の4時頃に帰ってきたウィルキーは、すっかり舞い上がって「同伴帰国する」とまで言い出したほどです。
1943年3月に宋美齢はアメリカ議会で演説を行い、中国の奮闘ぶりを述べて抗日戦へのさらなる援助を訴えています。宋美齢がウィルキーに仕掛けたハニートラップが、この演説につながるのです。
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■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』 55.1K
■安倍晋三総理 移民受入れ4連発動画 419.7K
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6月14日にフランスがドイツに降伏すると、その日から猛烈な数のウィルキー支持者が共和党大会に電報を送りウィルキー支持を訴えます。結局他の有力候補を抑えて、彼が大統領選挙の候補者になったのです。これは極めて重要な話で、なぜヨーロッパで戦争が起きている時にまったく無名の人間が共和党の候補に選出されたのか。最近の研究で出てきた話なので、しかたない面もありますが、釈明史観の歴史家は、アメリカの不可解な1940年大統領選挙を深く考察しようとしていません。
◆日米戦争と1940年のアメリカ大統領選の関係――渡辺惣樹
『グローバリストの近現代史』
( 渡辺惣樹&茂木誠、ビジネス社 (2022/2/17)、p167 )
なぜ日中戦争から日米戦争に移ったかを見てみたいと思います。
基本的に日中戦争は、日本軍が圧倒的に勝っていました。一方ヨーロッパではフランスがドイツ軍に蹂躙されて、イギリスが孤立していた。ヨーロッパではナチスが勝ち、アジアでは日本が勝つといった状況でした。
ここで困ったのが、チャーチルと蒋介石です。だから二人は何が何でもアメリカを引っ張り込みたかった。ただしルーズヴェルトの頭にあったのは、ヨーロッパだけです。おそらく9対1ぐらいの割合で、イギリスを助けることを考えていた。
そう考えた時、多くの日本の歴史家が言う「日本の中国戦線の拡大が日米戦争を招いた」という見方は中国目線に偏りすぎです。
ここで注目したいのが、1940年のアメリカ大統領選挙です。政治家として無名だったウェンデル・L・ウィルキーが、元大統領のハーバート・フーバーら名だたる共和党の候補者を抑えて大統領選に出られた。これはなぜなのか。
これは先ほど申し上げた、釈明史観の人たちがまったく触れない事件の一つです。ウィルキーは1939年まで民主党員で、いっさい公務についたことのないニューヨークの法律家でした。裏では女性問題もかかえていた。1940年5月の世論調査でウィルキーの支持は3パーセントです。
それからわずか、1カ月半後の6月第3週の共和党全国大会で、彼は大統領候補に選ばれるのです。こんなことができたのは、チャーチルの工作があったからです。
当時のイギリスは、アメリカのロックフェラーセンタービルの22階と23階にBSCという諜報機関を置き、2000人ほどがスパイ活動とアメリカの世論工作に暗躍していました。BSCに関する研究が最近かなり進み、彼らが1940年の大統領選挙に深く関与していたことが、わかっています。BSCの活動は米国内法に反しますがルーズヴェルトの「積極的な黙認」がありました。彼の指示を受けてFBIも協力していた節があります。
6月に行われる共和党全国大会の1カ月前まで、全国大会の委員長は上院議員のロバート・タフトを押していました。ところが委員長が急死し、パンナム航空の幹部が新しい委員長になります。彼がJPモルガンとつながっていて、共和党大会に大変な数のウィルキー支持者を送り込むのです。
さらに6月14日にフランスがドイツに降伏すると、その日から猛烈な数のウィルキー支持者が共和党大会に電報を送りウィルキー支持を訴えます。結局他の有力候補を抑えて、彼が大統領選挙の候補者になったのです。
これは極めて重要な話で、なぜヨーロッパで戦争が起きている時にまったく無名の人間が共和党の候補に選出されたのか。最近の研究で出てきた話なので、しかたない面もありますが、釈明史観の歴史家は、アメリカの不可解な1940年大統領選挙を深く考察しようとしていません。
結局ウィルキーは大統領選で負けますが、その後は勝利したルーズヴェルト支持に転じ、ルーズヴェルトの名代みたいな形で世界中を回るようになります。1941年1月には報道陣を連れてロンドンへ行き、空爆されたロンドンを視察して、チャーチルを激励します。これはチャーチルの仕掛けでもあります。イギリス国民の果敢に戦う姿をアメリカ国民に見せようとしたのです。
翌10月にはエジプト、エルサレム、モスクワを回り、モスクワではスターリンと会っています。その後、中国の重慶に入り、蒋介石夫妻と妻の宋美齢の兄・宋子文から大歓迎を受けます。
ここでウィルキーは、宋美齢からハニートラップを仕掛けられます。パーティを二人で抜け出し、美齢が設立に関与した病院の最上階に行くのです。しっかりと警備された部屋で何があったかは想像するしかありませんが、朝の4時頃に帰ってきたウィルキーは、すっかり舞い上がって「同伴帰国する」とまで言い出したほどです。
1943年3月に宋美齢はアメリカ議会で演説を行い、中国の奮闘ぶりを述べて抗日戦へのさらなる援助を訴えています。宋美齢がウィルキーに仕掛けたハニートラップが、この演説につながるのです。