電脳筆写『 心超臨界 』

行動は人を作りもし壊しもする
人は自らの行為が生み出したものである
( ヴィクトル・ユーゴー )

悪魔の思想 《 大塚久雄――戦後進歩的文化人の最初の原型/谷沢永一 》

2024-10-06 | 04-歴史・文化・社会
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■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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その天晴(あっぱ)れな独創によって、大塚久雄は戦後進歩的文化人の最初に現われた原型としての歴史的な役割を担うことになりました。稲垣武(いながきたけし)が『「悪魔祓(あくまばら)い」の戦後史』(平成6年8月15日・文藝春秋)に詳しく描きだしてみせたピンからキリまで、浮塵子(うんか)のごとく飛び跳ねた戦後進歩的な文化人の発言様式は、すべて大塚久雄の真似であり、敷衍(ふえん)であり、拡大であり、誇張であり、複写であり、替え唄でありました。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p287 )
進歩的文化人の原型・大塚久雄(おおつかひさお)への告発状
第13章 近代日本を全否定した国賊

  大塚久雄(おおつかひさお)
  明治40年生まれ。京都帝大卒。法政大教授、東大教授、東大名誉
  教授を歴任。反日感情を前提とした“大塚史学”を確立させる。

  明治以来の日本人が苦心の末に築き上げた近代社会を全面的に否定
  し、近代国家である日本は実は近代社会ではなかったのだと弾劾し
  たのが大塚久雄です。近代の日本人には近代精神がどこにも見出さ
  れないのだと、それほどまでに徹底的にわが国民を侮蔑した例は他
  にありません。日本には近代科学を成立させる基盤であるところの
  合理的思考がなかったと断言するのですから、我が国の近代科学は
  すべて虚構虚偽(うそはったり)だったということになります。この
  ような妄言が生まれた根拠を探ってみようではありませんか。

13-5 戦後進歩的文化人の最初の原型

では、その桃源境を連想させる「より高い段階」とは、いかなる社会構成を指すのでしょうか。それを推察するための材料は、次の一節でしょう。

  人類の経済生活或(ある)ひは社会の経済的構造は悠久な世界史の過
  程の裡にあつて、幾つかの発達段階を経過してゐる。大づかみに言
  へば、古代アジア的、古代奴隷制的、中世封建的、近代資本主義的
  の諸構造段階がそれである。
  (『近代化の歴史的起点』序の10頁~11頁)

要するに、型どおりの唯物史観に基づく構想らしいのですが、慎重な大塚久雄は「より高い段階」とは何かについて、この時期、つまり昭和22年現在においては、ついにひとことも明言しませんでした。まるで謎解きのように読者に首を傾(かし)げさせ、腕組みさせ、考えこませ、焦(じ)らして迷わせるなんて悪趣味ですね。

ようやく率直に解答を明示したのは、なんと22年後のことでした。『大塚久雄著作集』第八巻(昭和44年10月9日・岩波書店)の「後記」において、次のように種明かしをします。

  近代化という語について(中略)私のばあいには(中略)資本主義
  以前の社会諸形態のどれか一つから資本主義へだけでなく、社会主
  義への移行を含めるようなものだったのである。
  (615頁)

足かけ23年かかって、道中双六(どうちゅうすごろく)はようやく上(あが)りに達しました。大塚久雄がもうよかろうと見込みをつけて、ついに本音をはいたのです。思えば長い長い年月でしたねえ。

終戦直後の大塚久雄は日本が「社会主義への移行」を果たすよう心の底で願っていました。大塚久雄は生粋の社会主義者であり、共産主義者としての信念を持していたのです。

しかし、彼の思想が公式主義に忠実な型どおりの左翼だったとは、なんら取りたてて異とするにたりません。当時、社会主義も共産主義も一向に珍しくはなく、日本中に掃いて捨てるほどいましたからね。単に戦後風景の一齣(ひとこま)であったというだけのことです

しかし大塚久雄の言論活動には、実に顕著なふたつの特色が認められます。

その天晴(あっぱ)れな独創によって、大塚久雄は戦後進歩的文化人の最初に現われた原型としての歴史的な役割を担うことになりました。稲垣武(いながきたけし)が『「悪魔祓(あくまばら)い」の戦後史』(平成6年8月15日・文藝春秋)に詳しく描きだしてみせたピンからキリまで、浮塵子(うんか)のごとく飛び跳ねた戦後進歩的な文化人の発言様式は、すべて大塚久雄の真似であり、敷衍(ふえん)であり、拡大であり、誇張であり、複写であり、替え唄でありました。

偉大なるかな大塚久雄、彼は戦後50年におよぶ論壇の主導調をいちはやく独力で確立したのです。並み大抵の誰にもできる力業(ちからわざ)ではありません。日本論壇史に特筆大書されるべき創業の偉勲(いくん)でありましょう。

艶(つや)やかな表皮につつまれた毒饅頭(まんじゅう) へつづく
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