電脳筆写『 心超臨界 』

不平等の最悪の形態は
平等でないものを平等にしようとすることである
( アリストテレス )

セレンディビティの予感 《 質問力——蓮實重彦 》

2024-08-18 | 05-真相・背景・経緯
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


  セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
  予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
  いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
  ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
  [ ウィキペディア ]


たった一つの質問が千の言葉より影響力をもつ
( ボー・ヴェンネット )
A single question can be more influential than a thousand statements.
( Bo Vennett )


◆質問力

『「できる人」はどこがちがうのか』
( 斎藤孝、筑摩書房 (2001/07)、p60 )

〈質問力〉ということについては、蓮實重彦がゴダールにはじめて会ったときの話が印象に残っている(蓮實重彦『映画に目が眩んで』中央公論社)。

蓮實重彦は、フランス文学者で映画評論家でもあり、批評の世界では影響力の大きい大物批評家だ。彼は、ヌーヴェル・ヴァーグを代表するフランスの映画監督ゴダール(デビュー作『勝手にしやがれ』は今見ても斬新で面白い)の大ファンで、ゴダールのインタビューを自分がする雑誌企画を立てた。

ところが、相手は大物なので、なかなか会う予約がとれない。紆余曲折を経てようやくのことで会えることになったが、「映画祭に出品するフィルムの編集の追いこみなので、その仕事をしながらでもよければ」という条件つきであった。もちろん構いませんというわけで、スイスのレマン湖まで出かけていった。そして、ゴダールの仕事部屋のドアを開けたまではよかった。しかし、その後自分でも思いもかけなかった危機に陥った。

脇目も振らずに仕事に没頭するゴダールを目の当たりにした瞬間、一体どういう質問から対話を切り出したらよいかわからなくなって頭が真っ白になってしまったのである。蓮實重彦は、もちろんゴダール映画に詳しいし、しかもインタビューしに出かけていくのだから、もちろん多くの質問事項を用意していった。しかし、あの偉大なゴダールが仕事を中断して話をする気になる質問かと言えば自信がない。ゴダールもどこか不機嫌そうだ。何か、何か引きつけることを言わなければ、というあせりにつつまれ、必死で瞬間的に頭をフル回転させた。

さて、このとき彼は、いったいどういう質問をしたのであろうか? ヒントは、この質問で、ゴダールは即座に仕事を止めて身を乗り出してきて、二人は一気に意気投合したということだ。

たとえば、「私は、あなたの映画のなかでは……が好きですが、ご自身では何が一番好きですか」とかがまず普通考えられるところだが、面白みはない。「もう、飯食いましたか。まだでしたら、一緒にいかがですか」、「おいしいお菓子もってきたんですが、どうですか」では、一気に意気投合とはいかない。

最悪なのは、「あなたにとって映画とは何ですか」という類の質問であろう。そんなことを一言で言えというのは、非常識きわまりない。「私にとって映画とは愛です」とでも相手に言わせて自己満足に浸るインタビュアーは、〈質問力〉を鍛える努力を怠っている。その典型がいわゆるヒーローインタビューである。「今のお気持ちをお聞かせください」「うれしいです」といったやりとりには、新しい意味が生まれる可能性がない。

イチローも、いつか、「今日はフォームがおかしかったんじゃないの」という質問には、「あなたにそう見えたんならそうでしょう」という、とりつくしまもない答えをしていた時期があった。これはプロの領域であるフォームの問題にまで、しろうとが口を出すことに対する不快感の表明であろう。それを質問したのが、毎日見ていてくれる人ならばいい。200本安打のときも、210本までの10本が実に自分にとってすごく大変だし大切だったのに、それを見にきていた人は少なかったし、それについて聞いてくれる人もなかったとイチローは言う。プロセスや実際のプレイを見ないで、数字や結果でだけものをいう人に大切なことは話せないと考えるのは当然である。

ジャイアンツの松井秀喜は、シーズン中にときどき長嶋監督の部屋に呼ばれて素振りをしていたらしい。素振りを繰り返すあいだ、二人は言葉をかわさない。というよりも、素振りの音で対話をしている。松井によれば、ボワッと音が広がるのはだめで、ヒュと空気を斬るような高くて鋭い音がいいらしい。一言も言葉をかわさないで、スイングの音だけを聴くなんて、まさに真のプロ同士の対話の仕方だと思う。

さて、ゴダールと蓮實重彦の話にもどる。彼は、こう切り出したのであった。「あなたの映画は、だいたいどれも1時間半ですが、それは、あなたの職業的な倫理観からくるものでしょうか。」

これは、非常にすばらしい質問だと思う。相手が今一番関心をもって取り組んでいる作業(フィルムをカットしてつなぐ編集作業)に合わせているし、相手の過去についてちゃんと勉強をしてきていることがわかるし、長い映画が多くなってきているという今の映画界の問題点がわかっていることが伝わるし、その上、相手のプロ意識を刺激している。

せっかく撮ったすばらしいシーンのフィルムを切りすてなければならない痛みはプロのみが知る痛みである。普通の人は、見ている映像のことしか考えない。カットされた部分に想像力を働かせることはない。それだけに、ついに誰も見ることのない、数しれない愛すべきシーンの存在に思いをはせることのできる者は、面識がなくても同志である。

この質問は完全にゴダールのツボにはまって、「よくぞいってくれた、そうそう、まったくそうなんだ、今の監督たちは平気で3時間以上の長い映画をそのまんま出しているが、観客の立場からすれば、1時間半のいい映画を2本見られるほうがずっといいはずだ。プロとしての努力が足りない」という感じで盛り上がっていったということだ。

つまり、相手に「これは話すに足るやつだ」という感触をもってもらわなければ、いい話はできないということだ。熱く語り合うには、それだけの熱をお互いにもっている必要がある。冷めてる相手を自分の熱で熱くしてまで、語り合おうとするのは、真の教育者しかいない。そして情熱の質と実力は、なされる質問の質ではかられることが多い。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 般若心経 《 無上菩提――永遠... | トップ | 読むクスリ 《 天才の足し算—... »
最新の画像もっと見る

05-真相・背景・経緯」カテゴリの最新記事