三国志のゲームを行うと、左上の端っこに割拠し、そのままこじんまりと割拠し続け、そして能力値も対したことの無い公孫度です。しかし、実は凄い人物だと言うことで再評価してみたいと思います。
公孫度は幼名は豹で、役人クラスの家柄なんで身分は低い方です。しかも父親は罪を犯して逃亡してしまいます。しかし玄菟郡太守の公孫イキが亡くなった息子と同名だったのを気に入って、我が子のように育てます。
この公孫イキはかなりつわものの太守で、当時 精強だった高句麗が度々漢の領土に侵入しては略奪を行ったり、楽浪太守の妻子を誘拐したりしていたのですが、これに対抗して軍隊を編成して高句麗の領土に逆に侵攻し、屈服させるなどした人物です。
そして180年頃、公孫イキと高句麗の間に再び先端が開かれます。この際、公孫度は前線指揮官として出陣し、敵の前線指揮官だった高句麗の王子の首級を挙げるなど活躍をしています。この時の戦いがどれだけのものだったか記述が少ないのでなんとも言えませんが、もしかしたら公孫度は武勇に秀でた将軍だったのかもしれません。
その後、公孫イキの記述は無く病死でもしたのでしょうか。一方、公孫度についての記述も少なく、尚書郎から冀州刺史を任じられ、直ぐに謡言を理由に職を追われたとされます。公孫イキの元で学び学問を修めていたと言いますが、公孫度の家柄を考えると冀州刺史はびっくりするぐらいの高い地位です。
年代は187年前後だと思われます。この時はちょうど張純の乱に答応して烏丸の丘力居が幽州・青州を荒らしまわっていた時期です。これに対抗する為に公孫度の武力に期待したのかもしれません。しかし、身分の低い家柄の公孫度は完全に冀州の役人になめられ、そして解任にまで追い込まれます。公孫度にとって生涯で最大の屈辱だったでしょう。
しかし、再びチャンスが巡ってきます。董卓政権になるとその有力将軍である徐栄が、公孫度のことを遼東太守に推薦してくれます。徐栄も公孫度と同じく遼東の出身です。同郷のよしみだけではなく、史書には書かれていない2人の関係があったのかもしれません。私としては2人が鞍を並べて、高句麗と戦った記述があって欲しかったものです。
この推薦によって公孫度は太守として遼東に赴任します。ここでも公孫度は役人や地元の有力者になめられます。しかし、公孫度は冀州での経験を活かして、自分に反対する勢力を太守権限で集めると、片っ端から粛清してしまいます。このことで遼東において公孫度に対抗する勢力は無くなります。一見、独裁政治のように見えますが、このやり方は荊州に赴任した際の劉表と同じです。
またその後の公孫度の政治は安定していたようで、190年から200年の間、黄海を挟んだ対岸の青州・エン州などが戦乱で荒れると、王烈・管寧・ヘイ原と言った名士らが難を避けて遼東に渡ってくる程でした(ちなみに3人は華キンや王朗クラスの政治力)。これには戦乱に荒れる青州の先っちょの東菜郡を占拠して営州としたのが大きかったのでは無いでしょうか。これによって遼東と大陸は海を通じて繋がり、多くの人と物が行き来したと思います。あの太史慈もこの海路を使って青州と遼東を往復しています。
外交においては、高句麗に対しては後継者争いに関与することで、高句麗の力を落とすことに成功しています。また、夫余には娘を嫁がせることで婚姻関係を結ぶことで、友好関係を築きます。これによって常に北からの異民族の侵入を受けていた遼東や玄菟・楽浪の地は公孫度の治世で安定した状態になります。
このように公孫度は僅か10年の治世で遼東を中心にその支配域を広げ、かつ安定した政治基盤を作り上げます。彼の作った基盤のおかげでその後、孫の公孫淵の代まで一族はこの地を治め続けることになります。
以上のことから、公孫度は武力・政治(外交も内政も)共に優れた人物だったのではないでしょうか?
公孫度は幼名は豹で、役人クラスの家柄なんで身分は低い方です。しかも父親は罪を犯して逃亡してしまいます。しかし玄菟郡太守の公孫イキが亡くなった息子と同名だったのを気に入って、我が子のように育てます。
この公孫イキはかなりつわものの太守で、当時 精強だった高句麗が度々漢の領土に侵入しては略奪を行ったり、楽浪太守の妻子を誘拐したりしていたのですが、これに対抗して軍隊を編成して高句麗の領土に逆に侵攻し、屈服させるなどした人物です。
そして180年頃、公孫イキと高句麗の間に再び先端が開かれます。この際、公孫度は前線指揮官として出陣し、敵の前線指揮官だった高句麗の王子の首級を挙げるなど活躍をしています。この時の戦いがどれだけのものだったか記述が少ないのでなんとも言えませんが、もしかしたら公孫度は武勇に秀でた将軍だったのかもしれません。
その後、公孫イキの記述は無く病死でもしたのでしょうか。一方、公孫度についての記述も少なく、尚書郎から冀州刺史を任じられ、直ぐに謡言を理由に職を追われたとされます。公孫イキの元で学び学問を修めていたと言いますが、公孫度の家柄を考えると冀州刺史はびっくりするぐらいの高い地位です。
年代は187年前後だと思われます。この時はちょうど張純の乱に答応して烏丸の丘力居が幽州・青州を荒らしまわっていた時期です。これに対抗する為に公孫度の武力に期待したのかもしれません。しかし、身分の低い家柄の公孫度は完全に冀州の役人になめられ、そして解任にまで追い込まれます。公孫度にとって生涯で最大の屈辱だったでしょう。
しかし、再びチャンスが巡ってきます。董卓政権になるとその有力将軍である徐栄が、公孫度のことを遼東太守に推薦してくれます。徐栄も公孫度と同じく遼東の出身です。同郷のよしみだけではなく、史書には書かれていない2人の関係があったのかもしれません。私としては2人が鞍を並べて、高句麗と戦った記述があって欲しかったものです。
この推薦によって公孫度は太守として遼東に赴任します。ここでも公孫度は役人や地元の有力者になめられます。しかし、公孫度は冀州での経験を活かして、自分に反対する勢力を太守権限で集めると、片っ端から粛清してしまいます。このことで遼東において公孫度に対抗する勢力は無くなります。一見、独裁政治のように見えますが、このやり方は荊州に赴任した際の劉表と同じです。
またその後の公孫度の政治は安定していたようで、190年から200年の間、黄海を挟んだ対岸の青州・エン州などが戦乱で荒れると、王烈・管寧・ヘイ原と言った名士らが難を避けて遼東に渡ってくる程でした(ちなみに3人は華キンや王朗クラスの政治力)。これには戦乱に荒れる青州の先っちょの東菜郡を占拠して営州としたのが大きかったのでは無いでしょうか。これによって遼東と大陸は海を通じて繋がり、多くの人と物が行き来したと思います。あの太史慈もこの海路を使って青州と遼東を往復しています。
外交においては、高句麗に対しては後継者争いに関与することで、高句麗の力を落とすことに成功しています。また、夫余には娘を嫁がせることで婚姻関係を結ぶことで、友好関係を築きます。これによって常に北からの異民族の侵入を受けていた遼東や玄菟・楽浪の地は公孫度の治世で安定した状態になります。
このように公孫度は僅か10年の治世で遼東を中心にその支配域を広げ、かつ安定した政治基盤を作り上げます。彼の作った基盤のおかげでその後、孫の公孫淵の代まで一族はこの地を治め続けることになります。
以上のことから、公孫度は武力・政治(外交も内政も)共に優れた人物だったのではないでしょうか?