昨日、オーラソーマ仲間のKAORIさんから電話が入り、
「レベル4、合格した!」とのこと。
それも一発合格!!
そういう人もいる、と話には聞いたことがあるけれど、すごいねぇ。
やったね!
そしてそれを1番に私に連絡してくれたんです。
「なんでかっていうと、前に恵津子さんがくれたアドバイスがホントに役に立ったから。」って。
アドバイスったって・・・
綴じ方をどうするだの、コンサルシートのクライアントの名前は消さなくちゃいけないよねぇ、とか提出に当たってのマナーみたいなもんで、設問に関するようなアドバイスは彼女は何も聞かなかったし、私もしなかった。
それをありがたがられてもとてもこそばゆいのですが、「これからお世話になったティーチャーにも連絡するところ。」というその前に私だなんて、涙ちょちょぎれそうですわ。
かなり重度だと思われるのに、履歴書にその友人がしている資格の必要な仕事をした経験がある、と書いてあったために発達障害の履歴のほうが見逃され、入社に及んだみたいです。
ひょっとしたら「発達障害」の履歴が見落とされていたわけでなくても、発達障害って“病気”じゃなくて、あくまでも“症状”のことを言うのかしらん?
だからそういう症状を持っている、っていうことだけで入社を落とす、っていう差別をしてはいけない、っていうことを重く受け止めすぎたのかもしれません。
私もよく知りませんでしたが、皆さんは「発達障害」ってどういう症状のことかごぞんじでしたか?
「発達障害」とは人として初期の発達過程において、認知、言語、社会性、運動などの機能の獲得が障害された状態のことを呼びます。
なのでそれはかなり広い範囲に及びます。
一般的には、「知的障害」「広汎性発達障害(自閉症のこと)」「高機能広汎性発達障害(アスペルガー症候群)」、「注意欠陥多動性発達障害」「学習障害」などいろいろあるようです。
彼女の職場に入ってきた人というのはこのなかの「高機能広汎性発達障害」(アスペルガー症候群)だったそうです。
「それ、どういう症状が起こるの?」と尋ねてみると、
「例えば、だけど」と彼女は前置きしながら、
「どれだけ重要なことや覚えていなくてはいけないことだ、と自分でも認識があっても、それはパソコンで書いていった文字を保存せずに“上書き”にしたのと同じ状態で、一瞬にして消えてしまうの。」と言います。
「具体的には、この前、その人がとんでもないミスを犯したので、こういうときにはこうするものよ、とこんこんと言って聞かせていたの。
その人も、しおしおとなりながら肩をすぼめて『ほんとうにすみません。』って聞いていたわ。
その彼の前に、たまたま前の来客に出したコーヒー碗皿がそのままになっていたのね。
そうしたら彼、そのコーヒースプーンがグリーンだったことに目を奪われてしまったようで、それに目を奪われた瞬間、もうそれまで私が『次からはこうしてね。』って説明してた段取りはすべてどっかにぶっ飛んでしまい、『コーヒースプーンにグリーンのものがある!』っていう新しい情報に上書きされてしまったのね。
だから『すみません・・』って言った一瞬あとに、目を輝かせて、『N先輩! コーヒースプーンがグリーンですよぉ!』って言うわけ・・・
わたし、ものすごく丁寧に説明していたのにそのむなしさっていったら・・・」
そ、それはさすがにいかんだろー・・・
それでは仕事にも何もなりゃあしないではないか。
私には彼女のこれだけの説明では、「博士の愛した数式」に出てくる記憶が80分しかもたない、というあの主人公を思い出してしまいました。
とか、「明日の記憶」という夫が若年性のアルツハイマーにかかってしまい、最後には「お釜にスイッチを入れる」「スイッチを入れたら40分待つ」などキッチンにベタベタと指示の札を貼っておかなければわからなくなってしまう、という渡辺謙が映画で演じた主人公とか・・
でも、いつもいつも記憶が持たない、っていうのとも違うそうで・・
いずれにしてもこれは立派な病気ではないか、と思えました。
「・・・だから私もさ~、差別しちゃいけない、って頭ではわかっていても、反省してるように見えた矢先に『コーヒースプーンにグリーンがあるんですね!』ではこちらがバカにされてるようで教える気にもならなくなるし・・
何せ私たちの仕事ってチームでやるものだから、彼のミスは全部同じチームの人たちがカバーしたり尻拭いしなくてはいけないことを思うと、つい気の毒だ、とか甘い顔ばかりしてられなくなるんだよね。」と彼女は疲れた表情で言いました。
そりゃあ私もそうなる、と思う。
なって当然だし、そんな自分を恥じたり戒めたりする必要もないと思う。
今、大人の発達障害が増えているんだそうです。
そもそも病気って不思議なことに、グルーピングされ名前がついたとたんに「その症状、わたしにそっくりです。わたし、それです。」と名乗りをあげる人も増えますよね。
この「アスペルガー症候群」についても1944年にオーストリアのアスペルガーという医師が自閉症として一括でくくられていた子どもたちの中に知恵遅れの様子は全くみられないにもかかわらずどう見てもおかしい・・という子どもの観察を続け「アスペルガー症候群」として発表したんだそうです。
この「知性についての障害をもたない」のに、っていうところがわかりにくいですよね。
それまではきっと一般社会にも「普通の人のはずなんだけれど、何かとんちんかんなところがあるっていうか、あの人ヘンよね。」ぐらいで片付けられていたんでしょうね。
そしてこの「アスペルガー症候群」が発見された当時は戦時中であったために何となくなぁなぁになってしまい、WHOが正式に認めたのは1992年になってからなんだそうです。
なんと約50年もこの発表は放置されていたんだ!
そしてさらには日本ではそれでもピンとこずに取り上げられなかったけれど、精神科医が発達障害のなかの多動性機能障害のことを「のび太ジャイアン症候群」と名づけたことによってようやく1997年に日の目をみたようです。
歴史的に見てもまだ15年そこそこなんですよね。
自分の気持ちだけは人にわかってほしいけれど、反対の立場になって他人の気持ちをわかってあげられるかというととんとわからない、という発達障害もあるらしいですから、大人になるとさらにその人が「発達障害」なのか、単に性格的にそういう人なのか、わかりにくいと思います。
グレーゾーンのような人がわんさかいらっしゃるんじゃないでしょうか。
っていうか、私たちは自分のことを正常だと思っていても、ときに感情が高ぶったり自分では処理できないようなことに巻き込まれたりしたときに「発達障害」のような症状を呈することがあるかもしれません。
そうなるともう、どこからを「まぁまぁ、あの人は病気なんだから仕方がないよ。許してあげようよ。」になるのか、「あの人はいつもあぁなんだよ。ちょっとおかしいよ。」で済まされてしまうのかわけわかりません。
そもそも発達障害だ、という診断書がありお墨付きだからこの人の言動のすべてはそこに起因するもので仕方がない、で済ませるのか、診断書がないから普通のはずなのにこの仕事の出来はなんだ、と怒ってもいいのか、とそういうものさしで見てもいいんだろうか、という気になります。
「あの人は病気だから許す。」
「あの人は病気でもないのに許せない。」
「あの人は病気だけれど軽度なのに、許せない。」
「あの人は病気ではないけれど、あれだけ病気のような言動があるのはどういうことなんだ?」
「病気だから仕方ない。」と、いたわることは必要でしょう。
けれどそうすると“病気だから”“病気でもないのに”と巻頭につけた条件付けで人を判断していくことになってしまいます。
そして私の友人のように「病気だとはわかっていても、目の前でそれをやられるとやるせなくて仕事を教えることを放棄したくなる。」という人の気持ちもわかります。
こう病気の名前が増えると難しい時代になったもんだ、と思いますね。
誰も特別視したり、条件付けで見たくない、と思うのですが、実際に世の中で起こっている例を聞くと、どれもがオンリーワンの事例でそんなきれいごとを言ってたって収まらないんですよ、現実は、というのもわかりますし。
病気も含めてその人をまるごと受け入れてあげられるようになるといいんでしょうけれどね。
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そのとき、私はちょうど夕飯のお買い物に行こうとしていたところなんですが、なんだかテンションあがっちゃって、豚肉のカレーにしようとしていたのをランクアップして牛肉のカレーにしました!(それを食べるのは私とダーリンだぜぃ。合格した本人にはなんにも関係ないんだけどねん。)
私ってこういうの「えっ、わたしは再提出だったのに。」とか羨むほうかと思ってたけど、そんな感情は全然湧いてこない。
これから彼女や同期の人たちや、どこかのシェアリングデーで一緒になった仲間たちがどんどん次のステップに進むのかと思うと、そして彼女たちとまたどこかで一緒に学ぶことができ、共に悩んだりしながらも前に進むのかぁ、と思うと感慨深く、マジ、嬉しいって感情だけしかわいてきませんでした。
あれぇ、私って人のことを一緒に喜んであげられる意外にいいヤツじゃん。
・・・とさりげなく自分も褒めといて、本日の話題へと。
先日、友人と話していたら、その友人の職場に何の間違いか「発達障害」の人が入ってきたそうです。
私のことに触れて下さっていたなんて、嬉しいです。
いや~本当に些々羅さんとお話した事、メールでやりとりした事がとても役立ちました。
内容もそうですが、審査していただくという姿勢で提出書類を見返すことがポイントだったように思います。
コメントありがとうございます。
最近、facebookものぞくようになったので、KAORIさんにより触れることができるようになりました。
帰る最後には不二家で甘味を、なんてね(笑)
さて、あれはいやいや、ほんとに本人の力だけだと思います!(きっぱり)
これからは、また別の意味で今後の取るコースのことなど「どうする~?」なんて話せますね。
楽しみです。
「脳の働きのマイノリティー」と表現している医者もいて、先天的に脳の働き方が一般的な多くの人と異なるため、物事のとらえ方が周囲とずれてしまうそうです。
そのずれ方が生活に支障をきたすようなものだと「障害」となるようです。
これは、薬で治るようなものではありません。
本人(と周囲)が妥協と努力を積み重ねて「すれ」を埋めるしかありません。
ここで話題に上った方のことはわかりませんが、少なくとも私は、物心ついたときから、どんな周囲に合わせようとしてもできない自分に苦しんできました。(この悩みからオーラソーマに出会いました。)
些々羅 さんのご意見は、「発達障害」をこれまで認識していなかった人の正直なご意見だろうな、と思い、とても勉強になりました。
ただ、オーラソーマに関わっていらっしゃる方だから申し上げるのですが、全く異種の人間同士が相互理解を深める良い機会ととらえていただくことはできませんでしょうか。
私の場合でしたら、「仕事の注意をした直後にまったく別の話を出されると、注意したことが理解できたかどうか不安になる」と言われれば、次からはそのような思いをさせないように気を付けると思います。
言われなくてはわからないところが情けなく申し訳ないのですが、自分の行いが相手に迷惑をかけている、と認識できれば、行動をあらためることはできます。
一般的な人とアプローチが異なり、負担が大きいと思いますが、本当に限界が来る前に、違和感を感じたことを指摘して、本人も納得の上、改善してもらうようにすることが、双方にとってプラスになると思います。
長文失礼しました。
記事を読んで、勇気を奮ってコメントしてくださったことに感謝いたします。
このように当事者の方が声をあげてくださることで、その障害のことを全く知らなかった私たちも「ほー」とか「へー」とか思いながらまた新たな知識を得ることができたり、これをどう考えてみるか、というきっかけにつながると思います。
発達障害は病気ではないんですね。
それがもうまずもう第一の大きな情報です。
「脳のマイノリティー」という表現を聞くと、多数決で何でも決めている民主主義の世の中と同じひずみを感じたりしますね。
私もあの記事を書いた目的が、「自分は”条件付け”で人を受け容れたり、受け容れなかったり、ということを決めているのではないだろうか。」という自分自身に対する疑問であり、「丸ごとその人らしさを受け容れてあげられるようになりたい。」ということでした。
なので、当事者さんのおっしゃる「相互理解を深める良い機会になればいい」というのはまったくその通りだ、と思います。
いろんな人たちが自分とは違う人を排除するのではなく、理解を深めようとする社会になればいいなぁ、と思います。