先日、ある人と話していたときのことです。
その人は今、ご主人と離婚を考えているとのこと。
後は切り出し方と自分の離婚後の人生の基盤を固める問題があるだけで、離婚そのものについては、それはもうダイヤモンドのように固い意志でした。
「この先、主人の浮気グセが治った、とか散財するクセが治ったとかライフスタイルや性格の面で改善がみられても、私の意志は変わることはない。それは、良い友人にはなれるよね、という改善ではあっても、根本的に私と結婚する人ではなかったね、ということがわかっているから。」
私は思わずこう言ってしまいました。
「幸せだね。」と。
というのは、私はこの人がまだご主人とやり直せるだろうか、ということで悶々と悩んでいたときからをずっと知っているからです。
かつては愛した人が、1つずつボタンをかけ違うようにして心が離れてしまったとき、誰もが「相手が○○だったからだ。」「相手が心を入れ替えてくれればまだ私も考え直さないでもない。」と考えます。
特に男女間で別れる、別れない、という話になったときはなおさらです。
片方がもうやっていけない、このままなら別れるしかない、と思っており、片方がこの状態の何がいけないっていうんだよ、俺は別れないよ、と思っている場合なら、“別れたい”と思っている側は、“別れたくない”と思っている側に対して“変わる”ことを求めます。
だって、“別れたい”と思うほどの理由がそちらの言動にあったんだから。
このままなら“別れるって言ってるでしょう。
“別れたくない”って言うなら、そちらさんが変わるしかないでしょ?という正論ですわね。
ですが、人間、相手を変えることというのがいかに無理なことか、というのを悟ることになります。
そして「じゃあ、別れようっと。」とすぐにはいかず、「私が変わるしかないのだろうか。鏡の法則というではないか。」と今度は自分が変わる努力をします。
そしてそのようにして悩み、努力をしているにもかかわらず、まったく事態は好転せず、相手も変わらないという場合、いったいいつまでこの努力を続ければいいのか、というジレンマに陥ります。
そして傷ついた自分を抱きしめ、「もう、無理。これ以上は無理。」「わたし、努力したもん。それでも足りないのかもしれないけれど、足りないってことを誰かから責められる云われはない。」と最後の防衛策として、やっぱり別れるということを決意したとします。
その時点で、まだ相手に対する愛情が残っていたり、強がりでそう決意しただけの場合は悶々としてしまうでしょうが、ここでふっきれてきれいさっぱりと何かの憑き物が落ちたようになる人もいるんです。
彼女がそうでした。
以前と比べると格段に明るい顔をしています。
自分がどうしたいのかわからない悩みのうちにいるよりは、「離婚する」と決意したなかでの「さて、子どもの親権はどうしよう。」とか「これから食べていくには働き口を見つけなければいけないけれど、雇ってくれるようなところがあるかしら。」というような具体的な悩みに移行できることは幸せだと思いました。
進むベクトルがわかったから、やみくもに真っ暗闇のなかでスイッチを探す、というような不毛な場所に居なくても済むからです。
この悩みならこう動けばいい、とわかるからです。
だから、思わず冒頭のように私は、輝いている彼女を見て、「幸せだよね。」と声をかけたのでした。
最近、悩みが明確である、ということは自分にまだまだ取り組むべき課題がある、とわかるということでもあり、それは本当に幸せなことだよな、と思うようなことが続けざまにありました。
自分のことでもあり、他人の生きざまからわかるようなことがあったり、それはいろいろでしたが。
例えば、こんな方もいらっしゃいました。
なかなか子どもができないのだけれど、いざ医者に「不妊治療しますか?」と問いかけられて、ハタと「そこまでして、私って自分の子どもが欲しいんだろうか?」とわからなくなってしまった、というのです。
確かに不妊治療ってべらぼうにお金がかかりますし、相当痛いらしいですし、よほどの覚悟がないとためらってしまいますよね。
でも私は自分の身に遠く関係のない事柄だったこともあり、ついこれまでは不妊治療をしている人を見ると、「あぁ、気の毒に。世の中には欲しくてもなかなか子どもができない人がいるんだよなぁ。」と同情していました。
けれど、ハタと「私って、そこまでして自分の子どもが欲しいのかな?」とわからなくなった、という人の話を聞いて、どーしても自分の子どもが欲しいから不妊治療してます、ってきっぱりと言える人はむしろ幸せな部類なのかなぁ、と思い始めました。
これでよかったのかな・・?なんて疑問を抱かずに全身全霊で治療に専念できるぶん。
たいていの女性なら、漠然と「女に生まれたからには、結婚したら自然に子どもが出来て、生んで、育てるものだという人生設計を描いていた。」という人がほとんどではないでしょうか。
けれど、その自然なはずの流れにいったん障害がたちはだかったときに初めて自分の本当の気持ちと向かい合わざるを得なくなる。
向き合うのだけれど、よくわからない・・・
なかなか結論が出せない・・
これは苦しいでしょう。
だから、今、何かの悩みを抱いている人は、まずその悩みを解消するにはどうしたらいいのか?が探せそうな悩みなのか、それともこれはそもそも悩みなのか?とか悩んでいる必要があることなのか?とか自分の気持ちがどこにあるのかよくわからない、という種類の悩みなのかを見極めてみましょう。
どうしたらいいのかがそんなにすんなりわかっていたらそもそもそんなの悩みじゃないよ、とおっしゃるかもしれませんが、いやいや、どうして、私たちって自分のこととなると結構見えなくなるだけで、人が同じ悩みを打ち明けたとしたら、「なんで、そんなことで悩んでいるの? 簡単なことじゃん。こうするしかないじゃ~ん。」という場合も多いと思いますよぉ。
というのは、私は自分がよく使う手法なんですが、自分に悩みがあるとき、それをいったん他人の悩みとして見るんです。
そして、自分はそれを相談された側になってみる。
要するに、ラジオの人生相談でも、ヤフーの智恵袋でもいいですけれど、自分の悩みをそういう相談をしてきた人がいて、自分はそれに対して答えてあげる側になってみる。
すると、不思議なことに自分だとどうしようもない袋小路のなかにいるような気分になっていたけれど、他人の悩みだと思いつき離してみると、「どうしてこの人、こんなところでうじうじしているのかしら。答えはこれっきゃないじゃん。」とよぉく見えてくることがあるんですよ。
この人にどう答えてあげるかな~って感じで自分の悩みを見てみてください。
意外にも「お、私ってばもう、十分に答えはわかっていたんじゃないか。」と思えること、請け合いですよ。
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フランクリンプランナー・・???
なんだろう、それって、・・と自分の知らない職業(?)がまだまだいっぱいこの世にはあるのだなぁ、と思うことがまた私にとっては興味が広がることであり、幸せです。
それと同じように悩みが明確であることが、「フランクリンプランナーに挑戦中」さんにとって、ハッと何かひっかかりがあり気付くきっかけになったのかぁ、と思うとまたまた幸せです。
どうかご活躍ください。
そして前進しましょう!