寅さんみたいに「それを言っちゃあおしめぇよ。」と言いたくなる言葉があります。
それは、「でも、それを選んだのはあなたでしょ。」っていう言葉。
どんなときに使われるかと言いますと、例えば夫のDVに悩む妻が、親友とか身内とかに相談をすると、
「でも、そういう人を選んだのはあなたでしょ。」
あんな夫だとは思わなかった、もう離婚したい、と同じく親友やら身内やらに打ち明けると、
「そもそもあなたが好きで、あなたが選んで結婚した人でしょ。」
これをやられるとただでさえ傷ついているところへもってきて、二重に傷ついてしまいますねぇ。
私は友人や知人で何人も、これをやられた人の話を聞いたことがあります。
そんなとき、ほんとうにやるせない気持ちになります。
よく何らかの事件に巻き込まれた人とか交通事故の被害者とか、テレビでニュース沙汰として取り上げられるような人はたいてい被害者として十二分に傷ついているにもかかわらず、「いや、そうはいってもこういう側面からみると、あなたにもおかしいところがある。」みたいな重箱の隅をあげつらわれて二重に傷つくことが多い、と言います。
それと同じようなことですね。
どうしてただでさえ傷ついている人に対して時間軸を遡るようなことまでして、「そうはいえ、そもそも・・」というようなことをあげつらって責めるのでしょう。
相談する人というのは、たいてい「この人なら私の気持ちをわかってくれる。」と思って相談していますから、そういう人からそんなことを言われると裏切られたような、突き放されたような気持ちになってしまいます。
そして、先述の例で言えば、
「DVをするような気配までは見抜けなかったけれど、そういう要素を隠し持っていたような人を好きになったのは私だ、ということは確か。」
「もう離婚したいけれど、はじめはこの人となら一生添い遂げられる、と思って選んで結婚したのは私である、ということは確か。」なので、言われた方はぐぅの音も出ません。
相手の言っていることは正論なので、打ちのめされ、それ以上言い返す気力もなく、「相談した私がバカだった・・」あるいは、「本当に私はバカかもしれない・・」と落ちこみ、もうよそう、人になんて話したってわかってくれるわけないんだ、と心を閉ざし、ひいては人間不信にまで陥ってしまう人もいます。
んな、国会じゃないんですから、“任命責任”みたいなこと問われてもねぇ。
こういうことを言う人は、そんなにご立派で完璧な人生を送っているんでしょうか。
1度も自分の選択には間違いはない、と言いきれるんでしょうか。
そういう人がいたら、恐い、と思ってしまいます。
そうじゃないなら、自分も時には理屈じゃ割り切れない選択ミスとか、あのときは良かれと思ったけれど後になってみると間違っていた、ということを犯したことがあるなら、どうして人にばかりはそんなに厳しいんでしょう。
親しい間柄だからこそ、その人にもっと強くなってほしいから、もっと本来は強い人だとわかっているから、あえて・・という場合もあるのかもしれません。
でもどんなに強い人だって、現にその場では弱っているのに・・・
少し前も、人気子役の春名風花ちゃんというほんの10歳だか11歳だかの子どもがツィッターで殺害予告をされて警察に通報したら、同じくツィッターで、「それよりもそもそもほんの10歳か11歳の子どもがツィッターをいつもやってる、っていうのはどういうことだ。」みたいなお叱りを受けて炎上するほどの騒ぎになってしまって、それに対して風花ちゃんは、「いつものように我慢すればよかった。本当に殺されそうになるまで我慢すればよかった。ツィートなんてするんじゃなかった。」とつぶやいたそうです。
たった10歳の子どもが殺害予告なんて恐ろしい目にあっているのに、その件からはそれたような部分のことで被害にあっている当の本人を責める人がそんなにも世の中に多いのか、ということに私は愕然としてしまいました。
10歳の子が“いつものように”我慢すればよかった、と言うほどにどれほどの目に遭ったことがあるんだろう、というのは有名人になったことがない私には想像もつきません。
想像できないほどの重圧に耐えているんだと思うと気の毒でしかたがありません。
ツィッターとかブログとかネットの正しい利用法については私も試行錯誤するところではありますが、そもそも「殺害予告を受けて、恐かったので警察に通報した。」ということと、「10歳ほどの子どもがそんなにいつもツィッターしているのか。」ということとは全く問題が違うじゃありませんか。
完全なテーマのすり替えです。
この前テレビを見ていて知りましたが、ちなみにフジテレビのアナウンサーたちは会社から一切個人的にブログを開設することを禁じられているそうです。
理由は、そんなつもりで言ったわけじゃないのに・・ということがどんなことに飛び火して本人がいたく傷つくかもしれないことを未然に防ぐため、だそうです。
・・・結局、賢いならツィッターとかブログとかやらないことよ、というのが結論、というのはちょっと寂しい気もしますが、ワールドワイドに世の中全般を相手にするということはとてつもない負荷がかかることがありますから、有名人ならそうするしかない、というのもわかるような気がします。
風花ちゃんのようにお門違いな非難を浴びるのをみるとほんとにそう思いますね。
だいたい人の落ち度を突いてくるような人は、こういう問題のすり替えをやります。
冒頭で例にあげたような「DVにあっている」という人に対しても、DVを受けていることに対する心身の状態を心配するということを飛び越えて、「そういう人を選んだのはあなたでしょ。」といきなりそこへ論理をもっていくのは飛躍がすぎると思います。
しかもそれは「だったら、我慢するしかないよね。」という言葉しかつづけようがないので、いきなり結論を押し付けたような形となってチャンチャン、で終わりです。
相手の感情に添ってあげる、という段階がまるでない。
結局、自分が強くなるしかない、というところに落ち着くしかないのが現状のようです。
私も強くありたい、とは思いますが、へたれるときはどうしたって、ある。
そのときに自分だけの内側に入って心を閉ざさないようにしよう、ということだけは気をつけようと思います。
どこまでも人を信じたいから。
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しかしながら、そのワードを使いたくなる瞬間が私にはあります。
それは、物事が拗れた原因をいつまでも相手のせいにし続ける人に出会った時。
本文のDVを例えにすると、確かに暴力は許される事ではありませんし、
傷付いて悲しい気持ちには出来るだけ寄り添いたいとは思うんです。
でも、時が流れ状況が変わり、そろそろ立ち直り動き出さなくては、という段階になっても
彼のせいで、と恨み続ける事を止めない様子をみると、言ってしまいたくなります…
私も悪かったけれど、という枕詞を使う方もいるのですが
大抵は、自己擁護であり自分の非に対しては実感がわいていないケースが多いように思います。
ブログ、Twitter等の顔の見えないコミュニケーションでは
言葉が単純にそのままの意味でしか伝わらなくなり
裏を読むことが難しく、
理論でふっかけ、丸め込み、言った者勝ち、のような図式が出来上がっているように感じます。
どんなコミュニケーションの手段をとるにしろ
相手を尊重することを忘れずにいたいと思います。
熟考出来るテーマを有り難う御座いました!(*^^*)
ハトリキさんの例の場合なんかは、言っちゃっていいんだ、と思いますよぉ。
だって、1度はその人の気持ちに寄り添ってあげてるんだもん。
それでもいつまでもいつまでもそこから抜け出られなくておっしゃってる人に対して、ですもんね。
・・・でも、逆に意地悪かもしれませんが、そういう人に対して、「いよっ! 成田屋」って合いの手を入れるかのごとくに、いちいち大きくうなづきながら、
「ほんとにねぇ。」
「そうそう、あなたの言うとおり。」
「ま~ったく」
「あ、そいで。」
「ほい、もう一丁」
とか言い続けたらどうなるんでしょう?と思ってしまいました。
ちょっとやってみたくなりました(笑)
ふつう、バカにされてるわぁ~と思いますよねぇ。
そこに気付いてくれればでも、めっけもんですよね。
「私も悪かったけど・・」っていうのも、あるある!そういう人ぉ。
あのあとに続く言葉は、「デモ、向こうのほうがもっと悪いんだしぃ。」ということですよね。
あらかじめ防御線をはっておくのは卑怯な感じもしますね。
結局一律に語れるものはほとんどないでしょうね。
1つ1つが微妙に違う例ばかりなんでしょうね。
だから人は面白い。
だから人生は面白い、と思うようにいたしましょうか。