ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

日本の食卓

2009-12-04 08:09:00 | テレビ番組

先日の日曜日、久々にダーリンと娘と3人でランチを食べに行きました。

何でも娘の親友がウエディングコーディネイターで、レストランウエディングができるところに勤めているのだけれど、ウエディングが入らない日は、そこで食事だけすることができるんだって、というので、へぇ~、じゃあ、行ってみようか、ということになったのでした。

娘にしては珍しくそう言った次の日にすぐ「予約しといたからね。」と連絡が入ったので、あらあらえらく今回は手回しのいいこと、と思っていたら、二十歳そこそこの若者にしては敷居が高くてなかなか行けないところなので私たちの誘いにここぞ、と渡りに船とばかりにほいほいとコトを進めたのだ、ということがわかりました。

だって、玄関にはお迎えのボーイさんが立ってるんだもん。

私たちだってびびりましたよ・・

ダーリンはタータンチェックのシャツにジーパンという、木こりのおっさんのようなスタイルだし、私もユニクロのジーンズで、「この格好で入ってもいいのかねぇ・・?」と思わずふたりで顔を見合わせたのでした。

個室の席に案内されるとあらかじめ「おまかせコース」を頼んであったので、飲み物だけをオーダーしました。

娘はブラッドオレンジジュースを、私は赤ワインを、ダーリンは生ビールを。

そして出てきた前菜は、確かに手の込んだものでとてもおいしそうでした。


娘は、白いんげん豆のサラダを

「おいし~い! 少し固めに茹でてあるところがサラダにはぴったりって感じで。」とお気に入りの様子。

その後も、「カリフラワーのスープ、おいしー! ホワイトソースの味しかしないかと思ったけどカリフラワーの香りがふわっと立ち上るぅ。」とか「平打ちのパスタがこのくらいの細さでよかったぁ。あんまり太いとソースがからみきれずに口の中に粉っぽい味が残るんだもん。」とか言うのを聞いていて、

(こやつ・・ できるな。)と若い割りには味がわかるのを喜ぶと同時に、食べることがこれくらい好きで調理の過程にも興味があれば、今でこそばあちゃんに頼りっきりで料理なんて手伝いもしないようだけれど、いざとなればやるだろうな、とちょっと安心したのでした。(※ちなみに娘は、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に住んでます。)

どうして安心したか、というと、少し前に、テレビの特番で「日本の食卓」という今の日本の食の現状を憂えるような主旨の番組を見たからです。

そのなかで、無作為に100だったか1000だったかの家庭に、1ヶ月の朝昼晩の献立の写真を撮ってもらい、そこから読み取れるものを分析していく、というコーナーがありました。

そこでは、朝食がいつも菓子パンの家庭。

家族がそれぞれ同じ食卓についても、バラバラのメニューを食べている様子、運動会でなんと出前あるいはレストランに食べに行く家族の様子などが写し出されていました。

そのなかで私がびっくりしたのは、3分の2以上の家庭で「味噌汁」というものを作らなくなっている、ということ。

その理由は、主婦側から言えば、「だって、私は料理があまり得意でないので、毎日毎日具を考えなくては、と思うと苦痛だから。」というものであり、家族側から言えば、「ま、合理的だからいいかも。」でした。

味噌汁ってそんなに「具」に困るものですかねぇ。

そこいらのあまりモノの菜っ葉とか放り込んでおけば出来ちゃうじゃないですか。

それがなければいつも「豆腐にわかめ」とかでも構わないと思うし。

味噌汁の具を考えるのに困る、っていう感覚がよくわからないな、と驚いたのでした。

それと、食事をしていると「味噌汁」でなくてもいいけれど、何かしらの「汁物」って欲しくなりませんか?

味噌汁つくらないだけで、「コンソメスープ」やら「ポタージュ」やらは作っていますよ、という調査結果だとは思えないんだけどねぇ。

そりゃそんな家庭がたまにはあってもおかしくはないけれど、それが日本国中のもはや3分の2以上を占めるのだ、というところに驚愕したのでした。


それから、1週間毎日毎日、夕食は「鍋」という家庭がありました。

鍋のメニューは毎日違うのだけれど、特徴は料理した鍋ごと食卓に運ばれ、それ以外は何ひとつ副菜はなく、取り皿もなく、こどもたちは直接その調理鍋からがっついていました。

このときの主婦は「洗い物が少なくていいから。」でした。

洗い物が少ないほうがそりゃあ助かるのはわかるよぉ・・・

だけど、調理鍋をそのままガン!って食卓において、以上!!ってのは洗い物節約っていうより、ただの粗雑、がさつ、って感じじゃないのぉ・・?

私は、電子レンジなるものが初めて我が家に登場した日のことを思い出しました。

それ以降、母は、多目に炊いておいたごはんを一食分ずつラップでくるみ、冷蔵庫で保管し、食事のたびごとにレンジでチンしたごはんをそのラップごと各自の飯碗に放り込み、ほれ、一丁上がり!って感じで寄こしました。

私は、これが大っきらいでした。

大嫌いを通り越して、この行為のたびごとに母親を憎んでいた、と言ってもいいくらいです。

じんじんに熱くなっているラップを火傷しそうになりながら、「あちち!」といって剥ぎ、白いご飯粒を飯碗に入れるたびになんだかとてもみじめでわびしい気持ちになりました。

母は決してがさつな人ではないのです。

ただ、こんな手間ぐらい自分たちでやりなさいよ! といかに自分ひとりが忙しい思いをしているのかをアピールしたかったのです。

あるとき実際に「こんな風にしてごはん渡されるくらいなら食べないほうがましだ。」とまで食ってかかったことがあります。

そうしたら、母親は冷ややかに「そう。じゃあ、自分で炊いたら?」と言いました。

こう言われるとしゅんとして「そうだね。作ってくれてるのはお母さんなんだもんね。」という可愛い娘では私は、ありませんでした。

「おう! 作ってやらあ」と台所に立つのですが、圧力鍋の使い方がわからない、軽量カップのありかがわからない、で「あれ、どこ?」「これ、どこ?」と聞いているうちに母親が業を煮やして、「あー、もう、どきなさい。私がやるから!」と言うのです。

こうした攻防を何につけず繰り広げてきた親子なのでした。

ま、これは余談でしたが、私は買ってきたコロッケを「洗わずにすむから」という理由で、発泡スチロールのトレイのまま出されるのも大嫌いでした。

自分がつくるときは絶対にこんなことはしまい、と思っていました。

実際、今も、これだけはしません。

逆に買ってきたものだからこそ、あわよくばいかにも自分が作ったもののように見せたい、ほかに自分がつくったもののなかに自然に溶け込むように見せたいものだから、お皿に入れ替えるのはもちろん、ひと手間かけたりもします。

たとえば魚の塩焼きを買ってきたとすると、はしばみを添えるとか。

だから、「面倒くさい」とか「洗い物が少なくてすむ」という主婦の気持ちはわかるけれど、それ以上に「ほぉーっ!今日の料理もおいしそう」という自分の手柄にしたい気持ちのほうが強くて、結果的にこの番組で紹介された人たちのような行為をするまでの気持ちは実際のところ、わからないんですね。

「めんどくさい」という気持ちと、実際に「だから皿には乗せずにだす」という行為までは、100メートル競走じゃなくて、マラソンくらいの距離があるように思います。

そりゃあめんどくさいけれど、それくらいはやるわよ、という人のほうが圧倒的に多いと思っていた。

けれど、今、日本の家庭は「合理的」という一言のもと、めんどくさいという気持ちに行為が近づいてきているようですね。

これはもはや“手抜き”という域を超えて、“家族への思いやり放棄”に加えて“自分のプライド放棄”だという気がしてしまいます。

ある家庭では、お母さんがあじの唐揚げの料理をちゃんとつくってあるのにそれを食べるのは長男だけで、次男とお父さんは自分の好きなコンビニの弁当を食べている、という光景がありました。

これなど、次男とお父さんが「今日の夕食なに? あじの唐揚げかぁ。あんまりいただけないな。俺は自分で好きなもの買ってきて食べるわ。」と言ったのだとしたら、お母さんはあまりにも可愛そうです。

こんな日が続けば、確かにもう目くじら立てるを通り越して、能面のような顔で、「そう、勝手に好きにしたら。」と言いたくなる気持ち、わかります、わかります。


番組ではそれらのすべての理由が「だって、本人が食べるものにしたほうがいいから。」で落ち着いていたように思います。

「こんな料理、食べない!」

「なに、ぜいたくなこと言ってるの。食べなさい。」

「いやだ、食べない」

「勝手にしなさい!」

「おう、勝手にするわ。今日の夕食はいらない。」

と言って、プイと自分の個室にとじこもってしまう、というような攻防戦が何度も何度も繰り返された結果の成れの果てなのでしょうか。

これがきっかけで引きこもりになってしまわれるよりはいいから、というような理由で。

これは、深い根をはらんでるなぁ、と思いました。

食の問題ではなく、家族のあり方とか何を大切にして生きていくのか、というような人として根底に持っていなければならない思いやりやら信義というような部分にかかわってくるような。

そして、「食べる」ということにがむしゃらにならずにとても冷めているように思いました。

「食べる」ということは、シンプルに「エネルギーを取り入れる」ということです。

その生きていくにあたって行わなければならないエネルギー補給に一生懸命になれない、ということは、「生きていくこと自体がどうでもいいや」と無気力になっている証拠ではないのか?と危惧しました。

そして「食べる」ということは、何かしら植物であれ、動物であれ、その「いのち」をいただくことです。

その点においてもいいかげんではなく、敬意をはらって真摯に取り組むべき行為だとも思います。

そんなことをつらつらと思ったので、娘が“生きることに無気力”で、ほかの“生きている生物に敬意を払う”ことなんかどうでもいいじゃん、と思っている人間ではない、ということがわかって安心したのでした。


なんだか今日は、日本中の主婦を敵に回したかもしれないなぁ。

日本中の主婦はほとんどおまえのブログなんか読んでないから安心しろ、って? なぁ~るほど!




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