ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

食べるときの音のこと

2019-01-10 09:01:30 | 本と雑誌
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  毎月  第四土曜日  14:00~15:30
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  参加費   ¥2000

 <2019年度のテーマ>  ※テーマは予告なく変えることがあります。ご了承ください。

1月  2019 イヤーボトル
2月  天命を知る 第一弾ネームボトル
3月  天命を知る 第二弾バースボトル
4月  天命を知る 第三弾星座ボトル
5月  天命を知る 第四弾3STARS
6月  オーラソーマタロットで読み解くコンサルテーション
7月  守護天使を知ろう
8月  生命の樹から読みとくボトル
9月  感じるオーラソーマ
     カラーエッセンスとポマンダーから色を感じる
10月 親との関係を考える
11月 色を音で聴く
12月 2020 イヤーボトル 

 
 参加希望の方は、ご連絡ください。
 chakra@aura-soma.name まで。


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さて、今日も「こいしいたべもの」 著:森下典子 を読んでふと気付いたことです。
この小編のなかに、彼女が父親のカレーライスを食べるときの音にイライラした、というシーンが出てきます。
カレーライスというのはルーとライスを最初からスプーンで全部混ぜるタイプの人と、一口ずつ食べるたびに掬うタイプの人がいますが、彼女のお父さまは前者でした。
皿の上でご飯とルーを徹底的にかき混ぜる。
その音が
「にちゃにちゃにちゃにちゃ」
と聞こえて、彼女は中学生になったぐらいの頃からこのぬかるみをこねるような音が耳につくようになったのだ、と言います。
中学生といえば、思春期。
思春期といえば、何事にも心が繊細で鋭敏になってくる頃。
だからだったんでしょうか。
後者のタイプの彼女はイライラするようになったのでした。(ちなみに私も後者タイプです。ピビンバのようなものすら、さして混ぜて食べたくはない。韓国の人には絶対もっと混ぜたほうがおいしいよ~と言われそうだけど、味よりビジュアル的にイヤだ)



しかし、自分でイライラするだけでお父さんに
「ちょっとやめてよ」
などとは言わない彼女は優しい子どもだったのですね。
そして言わないから、お父さんは彼女の苛立ちに気付かない。
彼女は、イライラしているから、やたら食べるのが早くなり、あっというまにカレーライスを平らげてしまう。
するとお父さんはまた、
「もう食べたのか。早いなぁ。お前もカレーが好きなんだなぁ。ほら、おかわりしてもっと食べなさい。うちはみんなカレー好きだ」
とにこにこして勘違いしたことを言うわけです。
森下さんは、そんなどこまでも優しいお父さんに対する持って行き場のない苛立ちをどうしていいかわからなかったのだ、と言いながら、だから自分では優しいけれど頼りなげな男性より、もっと力強さのある男性のほうが好きだ、と思ってきたけれども、自分が還暦になってみて、
「ほんとうは私、強くて男らしい人より優しい人が好きでした」
と気付いた、というお話です。



食べる時の音についての似たような経験が私にもあるので、私はまた父のことを思いだしました。
あれは・・ 私がいくつぐらいの年齢のときのことだったか思い出せません。
たぶん、高校生か大学生、良い大人になっていた年齢の頃だったと思います。
私の父は、食べるときに舌を打つ、っていうか、文字通り
「にちゃにちゃにちゃにちゃ」
と音を立てるんです。
まだ森下さんのお父さんのようにカレーのルーとご飯を混ぜるときの食材の音の「にちゃにちゃ」ならいいじゃないか、と思いました。
いくら親子とはいえ、他人の口に入っているものの咀嚼する音が「にちゃにちゃ」では、食べているこちらが気持ち悪くなってしまう。
あるとき、私は冷たく、
「その音立てて食べるの、やめてくれない? こっちの食欲が落ちるわ」
と言いました。
すると父は私に一瞥もくれることなく、食べ物に視線を落としたまま、
「歯が悪いんだからしょうがないだろ」
と言いました。
それを聞いて私は、
(あ、そうなのか。悪いこと言っちゃったな)
とすぐに反省の念が湧いたんです。
身体の不自由な人に、まさにそのどうしようもない障害のことを責めちゃった、みたいな感じ。
父がそんなに歯が悪いなんて知らなかったので。
そうしたら、一瞬湧いた私のその反省の念を見事に吹き飛ばすように、今度は母が父や私に一瞥もくれることなく、やはり食べ物に視線を落としたまま、
「いいえ、違うわよ。お父さん、歯なんて悪くない昔からずっとそういう音立てて来たから」
と冷ややかに言ったのです。



私はびっくりしました。
そのびっくりにはいろんな感情や父や母の背後にあるストーリーを読み取ろうとする探りも入っていました。
いったい母も父のこの「にちゃにちゃ」にはもう勘弁してもらいたい、というイライラが募っていたところだったのだろうか?
それを私が言ったから喝采を叫びたかったところへ、父が「歯が悪いんだからしょうがないだろ」と言い放ったので、「それよりずっと前からだろーが!」と言い返したくなったんだろうか・・
いずれにしても私は一瞬、父に対して悪かったなぁ、という気持ちになりかけた気持ちをぐいっと
「そんな反省なんてする必要ないわよ。この人の言ってること、ウソだから」
と母に正された感じがしました。
それはまるで冷えて曲げようがなくなる前に熱したガラス棒を一発で綺麗にまとめてグラスを作らなくちゃ、というほどの早業でした。
なんだか私は気持ちの持って行きどころがなくなって途方にくれた子犬のような表情をしていたと思います。
それからは全員、ただ無言のまま食事は進みました・・



今、思うのは、父のそんな「にちゃにちゃ」が気になったのも、私たちが両親とわたし、という3人しかいない単位で家族をしていたからだろう、ということです。
私が結婚してから、父はダーリンと私に食事をおごるのをいつも楽しみにしていました。
理由がないと私たちもおいそれとご相伴にはあずからないのを知っているので、
「年末だから」とか、
「正月だから」とか、
「最近鍋を食べていないけれど、それは1人や2人じゃ食べられないから」とか、
なんだかんだと理由をつけては私たちを食事に誘おうとしました。
私たちは出来る限り一緒に食事をしていたのですが、ふと気付けば、4人で食事をするようになってからは父の「にちゃにちゃ」が気にならなくなったのです。
なんでだろう・・?
外食をした店のテーブルの大きさというのがうちの家のテーブルより大きかったから、距離があったのであまり気にならなかった・・?
ほかのお客さんたちのザワザワした雰囲気のおかげで音が気にならなかった・・?
それらも無論ありましょうけれども、1番はダーリンが1人加わっただけのことで、話題が良い意味で散漫化するからでしょう。
毎日毎日顔を合わせている親子で食事をしたって、そんなにアットホームな会話が毎食繰り返されるわけではない。
しかも、父と母がお互いのことについて会話をすることなんてまずないから、その3人がいれば話題はたいてい私のことになるわけです。
私の事ばかりに集中する、というのが私はイヤだった。
思春期の頃なんてなおさら。
「どうだ、学校は?」とか、
「部活動は面白いか?」とか改めてかしこまって訊かれても答えようがないし、ご飯がまずくなろう、ってもんだ。



小さなお膳を囲んで無言で食事をしていたら、「にちゃにちゃ」も気になるだろうけれど、
「そういえば、あれ・・」とか、
「ケンちゃんの方のご両親は元気かね?」
とかあちこちに飛ぶ会話をしていたら、私は話題から外れていることも多く、リラックスしてご飯を食べることができた。
そういうことかなぁ。
ということは、ですね。
よく、小さいころから
「1人っ子だから、何もかも1人占めでいいだろうけれど、親の関心もひとりで全部受けなければならないだろうからそれはそれで大変だろうね」
と言われ続けてきましたが、その意味がようやく分かった気がしたのでした。
ずっとそう言われても、
(そりゃそうでしょうよ。私しかいないんだから)とだけしか思わなかったけれども、1人加わるだけで、こんなにも場の空気というのは違うものか、ということを身に染みて感じたのでした。
私の親との葛藤は私が1人っ子だった、ということも要因として大きなものだったかもしれない、ということを初めて想ったのでした。
もし私に誰かあと1人兄弟姉妹がいたら、親の性格も私の性格も環境も起こった出来事も何も変わらなくても、親との関係というものはまた全然違うものになっていたかもしれない、という気がしました。
そして、「にちゃにちゃ」なんてしょーもないレベルのことは何とも思わなかったかもしれないなぁ、と。


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