5月13日の月曜日、名古屋の愛知県芸術劇場に三輪明宏さんの舞台「黒蜥蜴」を見に行って来ました。
すごくミーハーなんですが・・ きっと世間の大方と同じく去年の紅白歌合戦での三輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」があまりにすごかったので、こりゃあ彼(彼女?)の舞台を1度は見ておかなきゃ、って思ったクチです。
それともう1つには・・
三輪明宏さんって年齢を感じさせない、っていうか(それ以前に人間を感じさせない、っていうか・・)、そういうところがありますが、やはり人間である限りは肉体的な衰えがいつかはやってくることでしょう。
それがある日突然でないとは言えないではないか。その前に一目・・
という思いもありました。
しかし舞台を縦横に使い、ときに妖艶な夫人を、ときに男性並みの張りのある声を、と三輪さんはこちとらの「年齢が・・」という下々の心配など蹴散らし、やはり人間とは思えぬ存在感とパワーで「黒蜥蜴」を見事に演じあげたのでした。
こりゃあまだまだ10年でも20年でも上演されそうだわ・・
マジでそんな気になります。
舞台は14:30~18:00までの3時間半の長丁場。
間に15分の休憩を2回はさんだものの3時間の熱演です。
その休憩のとき、私の前列に座ってらしたご婦人が急に私に話しかけてこられました。
「私さぁ、三輪さんのファンだからやっぱり1回は『黒蜥蜴』は観ておかなくっちゃって思ってきたんだけど、なんだか難しいお芝居だねぇ。全然わけわかんないわ。」と。
私も、
「そうですねぇ。帰ったら一度、原作を読んだりして勉強しなきゃいけないかもしれないですねぇ、って私も思ってたところです。」と言いましたが、正直、全然わけわかんない、ということはなかったです。
なかったですが、この美意識っていうのはちょっと現代人には通じにくいかも、とは思いました。
「現代人には・・」というような時代のせいにするのは良くないかもしれませんね。
個々人の感覚の違いかもしれませんが。
ただ、三島文学に通じる美意識、退廃、ロマンチシズムというのは働かなくても食べて行ける華族、財閥、あるいはそれらが斜陽を迎えた昭和初期の頃の日本を知っている人でないと理解が難しいのかも、と思ったのでした。
実際、三島由紀夫その人自身がたいへんなエリート家庭の出身です。
生まれたときから家の中には家政婦さんやら庭を手入れする人やら使用人がうじゃうじゃいるのが当たり前の環境。
そして成長して「働く」ということをしなくてもお金というのはどこからか自然に吸いあがってくるもの、という認識の中で育った人たちというのがどういう感覚になるのか私にはよくわかりません。
そしてこの「黒蜥蜴」の主人公、三輪明宏演じる緑川夫人もそんな人なのでした。
そういった環境で生きてきた人というのは、たぶん生きる「よすが」というものを人との心の交流や触れ合いのなかには求めませんね。
自分と同じような境遇の人たちとのうわべの付き合いのなかで学ぶのはきっと「信じられるものは決して自分を裏切ることのない、悪魔のように美しいものだけ」「そんなものにしか自分は惹きつけられない」ということでしょう。
生きることそのものが退屈になってしまうのだ、という中で刺激を求めるのか、緑川夫人はそのまままっとうに生きても何不自由なく生きて行ける暮らしなのにもかかわらず、「エジプトの星」という世にも美しいダイヤが欲しくて宝石商の娘を誘拐するのです。
ダイヤのことを彼女がこんな風に語るシーンがあります。
「ダイヤには心なんてないから美しいんじゃないの。人間の心なんていうちっぽけなものを受け付けないダイヤだからこそ、それは永遠に澄んだ輝きを放つんじゃないの。」と。(※セリフとして正しくはありません。うろ覚えです。こんなような意味のことを語るシーンがある、とだけ受け取ってくださいね。)
ここに彼女の人生哲学が秘められているように思いました。
お金のようにその価値がコロコロ変わるようなものに私は惑わされたくはない。
永遠に変わらない価値のあるもの、って何だろう?と考えたとき、それは宝石でしかない、という結論に至ったのよ。
だから私はそういう宝石だけが欲しいのよ。
陳腐な人間の人生になんて興味はない。
欲しいものは永遠に変わらない価値のあるものだけ。
そんな彼女の苦しいほどの叫びが秘められているようでした。
けれど、たいていの庶民にこの感覚がわかるはずもありませんね。
「はぁ? 何言うてまんのや、このオバハン。毎日その日に食べる米にも困ってぴぃぴぃ言うてるこちとらには全然わからん感覚ですわ。まぁ、どのみちダイヤ持ってたってそれでおまんま食えるわけやありまへんのでな。うちらには関係ない世界でおまんのやけど・・ うちやったらダイヤよりちょっと良いお肉のステーキでも食べたいわぁ。まぁ、そんなことつべこべ言うてんと、はよ、こっちきてたこ焼きでも一緒につままんかな。」
・・・というような吉本新喜劇のほうがよっぽどわたいらの感覚に沿うてますし、人生勉強にもなりますわぁ。
「黒蜥蜴」、ちょっとむずかしすぎでおますなぁ。
まぁ、こんな感じですかねぇ。(しかし、どうして庶民的な話をしようとすると大阪弁になってまうのやろ?)
そして、実際のところ、この庶民感覚のほうが圧倒的に正しい。
「そのとおりでっせ~、オバハン!」と言ってしまったら、チャンチャン、とこの「黒蜥蜴」のお話はなぁんも語る必要なし、でここで終わってしまいます。
終わってしまってもなぁんも問題はなし。
だってダイヤより人の心のほうが大切だ、なんて結論はそこらの幼稚園児だって知ってる話だし。
でも、どうしてもその誰もがわかっている幼稚園児のレベルに下りてこられなかったのが三島由紀夫だったのでしょうね。
だから彼は割腹自殺というセンセーショナルな方法で死ぬしかなかった。
そして、庶民のレベルの方が正しいのよ、ということを知りつつ、では市井の1人として名もなき庶民として毎日コツコツと生きていくという道も選べないのよ、というのが三輪明宏さんだ、という気がしました。
「ヨイトマケの唄」で表現されている世界観もそうですし、彼(彼女? ええい、めんどくさいわ、いちいち。)は「まっとうな庶民が一番本当は美しいのだよ。」ということを知っている人だ、と思います。
けれど、三島由紀夫の美意識も、わかる。
その美意識と寸分違わない生き方をするには人はどこかで死ぬしかない、というのも、わかる。
それを知りながら私は死なない。
三島由紀夫のような美意識をもった一部の人種から見れば、そうして生き続けることは「生き恥をさらし続ける」ことだろう。
その「生き恥をさらし続ける」人生に「あぁ、そういうことだからこの人は死なないのだね。」というタグをつけるには「表現者」、つまり三輪明宏さんの場合、歌手であったり役者であったりという道を選ぶしかなかったのだろう、と思いました。
私が三輪明宏さんのことをステキだ、と思うのは彼のそんな美意識と当たり前の庶民感覚の肯定という両面の狭間の中で揺れている感じなのです。
それは彼が「生き恥をさらしてわたくし、生きております。」という羞恥を知っている人間だから、ということなのでしょう。
いったいいつの時代のどこの国の人?と問いかけたくなるような豪奢なドレスや着物をとっかえひっかえ身に着けて現れる緑川夫人と三輪明宏がダブるのもそういうところでしょう。
緑川夫人こと黒蜥蜴という強盗は、私立探偵の明智小五郎に恋をしてしまいます。
宝石のように永遠に変わらぬ輝きを放つものではなく、揺れる心を持つ生きた人間に恋をしてしまったのです。
それは彼女のなかでは自分の信念に反することですから、決して誰にも知られたくなかったことなのです。
けれど、死んだと思い込んでいた明智小五郎自身に実は自分の恋心を告白してしまっていた、ということを後に知り、その恥辱から彼女は自ら死を選びます。
それが唯一「黒蜥蜴」が「黒蜥蜴」としてのアイデンティティを守り抜く方法だったからです。
そしてそんな彼女のことを最後に明智小五郎自身がこう発言して舞台は幕を下ろします。
無事に自分の手元に「エジプトの星」が戻ってきた宝石商が、「明智君のおかげだ。」と喜び、
「あぁ、この世でもっとも美しい宝石が戻ってきた。」と言うと、明智小五郎が、
「いいえ、この世でもっとも美しい宝石は今ここで死んでしまいました。」と。
これがこのお芝居でのテーマでもありますね。
それを主人公に最後に言わせて舞台が終わる、というのは三島由紀夫にしてはちょっと説明的に過ぎるっていうかこれ、あなたの美意識としては恥ずかしいことじゃなかったんですか、って聞いてみたい気もしましたが。
もともとこの「黒蜥蜴」は江戸川乱歩原作の小説ですが、それを三島由紀夫がぜひとも三輪明宏に演じてもらいたい、と彼のために戯曲として書き下ろしたものです。
三島由紀夫も三輪明宏も緑川夫人もどこかで互いに似たところのある同じ種類の人間だ、という匂いをかぎとっていたのでしょう。
だからでしょうか、この「黒蜥蜴」という舞台が主演が三輪明宏さん以外には考えられないということで他の誰も演じていないのは。
観客もどこかで緑川夫人という架空の登場人物を別の人間である三輪明宏が演じているだけだ、とは思っていないようなところがあると思います。
そこは緑川夫人と三輪明宏を重ね合わせて観ているのですよね。
そういう意味でやはりこの「黒蜥蜴」は他では観ることのできない唯一無二のものとして一度観ておいてよかった、と思いました。
そして、私自身がどこか自分の美意識のためには命さえ捨ててもかまわない、という屈折した人間に惹かれる部分を持っている、ということを認識いたしました。
そしてそれを認識しながら実にそんなことは本当はちっぽけな矜持にしか過ぎない、ということもどこかでわかっていて奥底ではそんな自分を恥じている、という人が好きです。
恥を知る、ということは実に大切なことだと思います。
三輪明宏さんがよく、「今の日本が忘れたホンモノ」を私は訴えたい、とかそういう人やモノが好きだ、と言う発言をなさいますが、それは「恥の感覚を知っている」ということなのではないか、と思ったのでした。
それを「くだらない。」と吐いて捨てるように言える人は幸いです。
いや、ほんとに。
皮肉ではなく。
そのほうがまっとうに決まってますもん。
そんなもん、なんで死ぬ必要があったんか、さっぱりわけわかりまへん。
「好きや~、わて、今まで自分がアホやったことに気付いたんや。宝石なんかよりもっと大事なものがこの世にはある、ってことがわかったんや。」で、何がいかんのん?
そんだけのことやろ?
(なんでまた大阪弁になってまうのやろ・・)
そういう人はこの「黒蜥蜴」を観る必要なんてありまへん。
確かにここでは「そんなこと、子どもでもわかることやん。」ということをやってるだけです、ハイ。
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