ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

苦しみの理解と流されなかった涙を流す、ということについて

2012-08-14 09:08:00 | コンサルテーションとカウンセリング

再び「命のカウンセリング」を読んで、のことです。


オーラソーマのクリアの色の意味には、「苦しみの理解」「流されなかった涙の井戸」というものがあります。

人は本当に辛いときに自分を押し殺してしまって、泣けないということがある。

でもそれをそのまま凍結してしまってはいけない。

一度、温めなおしてちゃんと流すべき涙は流さないと本当の癒しがやってこないのだ、というような意味です。


そして、それほどの辛い経験をしてこなかった人にも誰しもが生まれたことそのものがトラウマなのだから(心地よい羊水のなかでたゆたっていたら、大人の都合で押し出されて、この世にお母さんと分離されて生み出された、という意味では。)、一度タイムラインのヒーリングをする必要は誰にもあるのだ、ということは概念上では理解したつもりでした。

しかし、実際にどうやってもう1度泣くのか?

B26なり、B87なりとワークしているうちに自然にこみ上げるものがあって、わーっと泣いちゃった、という人はこれ幸いでしょう。

しかし、そうじゃない人はどうすればいいんだろう?

ただひたすらに自分のなかの想像力をたくましくして、もう1度そのときの自分を心の中で思い描き、そのときの気分になってみて、そして泣くしかないのだろうか・・?

それがどうしても私の中ではもやもやと「?」のままいつもいるのでした。

やっぱり、クリアと言う色は、光を当ててつくる色としては、“すべてを含んでいる色”ですからね。

このクリアのことが理解できないと、私はせっかくオーラソーマをやっていても上っつらを撫でているだけのようなことで、実際には何もわかってなんかいないんじゃないか、という気がしていた、ということもあります。

そして「命のカウンセリング」で実際のグループセラピーのことがまざまざと書いてある事例を見て、初めて「あぁ、こういうことか。」と納得しました。


ある事例では、阪神大震災で奥様をなくされたご主人のことが書かれていました。

ご主人は震災後のごたごたのなかで奥様のまともなお葬式もあげることができなかったそうです。

そして、そのご主人は奥様を亡くされてから、これまで1度も泣いたことがない、と言うのです。

泣いたことがない、というより“泣きぞこなった”という表現のほうがぴったりのようです。

でも、そのご主人はそういう話をするとき、いつも笑顔でニコニコとしているんだそうです。

「命のカウンセリング」の著者であり、車椅子カウンセラーである長谷川さんは、(これはおかしい。何かを彼は我慢している。)と気付きました。

そして、彼のためにグループセラピーでもう1度お葬式をやってみることにしました。

なるべく本格的に、参列者役、奥様役、と花を用意して、参列者の人たちに順番に亡くなった奥様役の人に花を手向けていくということをやってみたそうです。


そうして最後に夫であるそのご主人が奥様に花を手向けて、最後のお別れの言葉を言う、というときになりました。

奥様役の人とそのご主人の間はわずか1.5メートル。

しかし、その1.5メートルがどうしても硬直してしまって、そのご主人は歩み寄ることができません。

これこそがもう1度、彼が本当に奥様を亡くしたことで悲しむための距離だったのです。

3歩進んで花を置き、一言かける。

普通なら3秒でできることを、彼は10分かかったそうです。

その間、参列者は誰ひとりとして「さ、さ、早くしてください。」「もう少しですよ。」などとは声をかけません。

みんなが彼の心情を察して、息をつめるようにしてじっと待っていました。

そしてついに彼は、花を置きながら、

「どうして俺を残して先に逝ってしまったんだ~!」

「うぉ~!!!」と泣き叫ぶことができたそうです。

彼は3年間我慢して、1時間泣き続けました。

大震災のように周囲の誰もが同じ目にあっているようなときは、「周囲もつらいのだから、自分だけ辛いとか言ってはいけない。」というように感情を心の奥底に抑え付けてしまいがちです。

彼の慟哭を聞き、参列者役の人たちそこにいた全員が、みな彼の気持ちに共鳴し、一緒に大声を出して泣いたそうです。


この涙が、ただの悲しみや同情の涙ではなく、浄化の涙だ、ということはさすがの私にも容易に想像できました。

「浄」とは汚れがなく清らかなことです。

1点の濁りもくもりもなく、清廉潔白なことです。

それはすがすがしいですよね。

泣くだけ泣いて、自分がどんどん清らかになっていく感じがしたら、どんどん恐れるものもなくなっていくような気がします。


そのほかの例も、「もう1度そのときの気持ちになってみる」ためには、「もう1度そのときと同じ状況設定をする」ということがポイントになっているように思いました。

確かに私自身、ラハシャ博士の「カウンセリングスキルコース」を受けて、あれはもう3年くらい前のことになりますが、今だに一番よく覚えているのは、自分が話し合いたいもうひとりの人がそこにまさにいるかのように椅子を設定して行う、というカウンセリングでした。

人によっては、こんな芝居をするようなマネはやだね、と反発を感じる人もいるでしょう。

その気持ちもわかりますが、私は表現アートセラピーでエリ先生がおっしゃった「解放は必ず大勢の前で行われなければいけない。」という言葉をまた思い出しました。

そう言われたときにはその理由はわかりませんでしたが、ただ「そうだ! そのとおりだ!」と自分が共鳴していることがわかりました。


それを今思い出します。

結局、解放のあとに、人は「自分という人間が他者にほんとうに受け容れられたんだ。」という実感を得なければいけない、ということなのでしょう。

ううん、受け容れられたんだ、という実感を得る権利が誰にもある、と言ったほうがいいかもしれません。

そしてそれは美しい瞬間に決まっています。




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