ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

母が守ってくれていたこと

2012-08-15 09:03:00 | 身辺雑事

はぁ~。

お盆もですけどオリンピック、終わっちゃいましたねぇ。

まるで自分も一緒になって選手達と戦ってきたような錯覚におちいって、「ふぅ、この後、少しぐらい休んでもいいだろ・・」なぁ~んて気になり、我に帰り、「いかん、いかん。何言ってんだ。私は何もやってない。むしろ、選手達の戦いをテレビ観戦して、仕事してないじゃんか!」ということに気付き(おいおい、そこで気付くのかよ・・)、あたふたと仕事の書類を探したりするのでした。

そんななか、終盤戦の女子バレーの銅メダル、やっぱり感動いたしました。

なかでも私は大友愛選手に注目していました。

彼女は北京オリンピックを最後に結婚して引退しましたが、その後、一児の女の子をもうけたあとに離婚し、ふたたび一線に復帰したのでした。

そんな彼女は「復帰して、ただでさえ娘には毎日寂しい思いをさせているのだから、メダルを持って帰れなければ意味がない。」ときりりとした表情で、ほかの選手にはない決意をにじませていたように見えました。

そして、銅メダルを奪取して、オリンピック会場のスタジオでメンバーや監督とインタビューを受けていたときも、「今、何が一番したいですか?」と聞かれ、「娘に会いたいです。」と答えていました。

たいていの選手が「ゆっくりと寝たい。」とか「お腹いっぱい好きなものを食べたい。」とか言うであろうから、たぶん、インタビュアーもそんな答えがかえってくるのでは、と思っていただろうけれど、彼女の思いはやはり娘さんなのでした。

「早く帰って抱きしめてあげたい、って感じですか?」と再び尋ねられると、

「いえ、私のほうが娘に癒されたいです。」ときりりとした表情のまま答えていました。

彼女の娘さんに対する強い思いを聞いて、同僚の選手達はどう思ったことでしょう。

きっと、「自分の子どもができる、っていうことはこんなにも強い絆を感じて、支え、支えられるってことなんだな。」と思い、

「いいなぁ、私も早く結婚して子どもが欲しくなっちゃった。」ときっと思うんじゃないでしょうか。

まぁ、そこまで性急ではないにしても、「私もいずれ結婚したときには、絶対、女の子がほしいなぁ。」とかね。

少なくとも、こういう光景を身近にして、「私には結婚はいいわ。子どもも欲しくない。」と思う人はいないんじゃないかと思います。

そういう考えであった人の思いまで理屈抜きでひっくり返すような力が、このときの大友選手にはあった、と思います。


だって、私が見てて、そう思いましたもん。

「もし私が20代で、大友選手のような同僚が身近にいたら、絶対、私も結婚して子ども産みたくなったなぁ、って思うだろうなぁ。」って。


しかし、どれだけ振り返ってみても、私の周囲には子どもがいることの素晴らしさを体現してくれるような存在はいなかったなぁ。

小さい頃から、母に「あんたを産んだときはほんとうに大変だった。丸2日の陣痛が続いてねぇ。もう2度とこんな思いをしたら死んじゃう、と思ったよ。だから二人目の子どもを欲しいと思ったことなんてない。あんたも別に結婚して子どもを産む、っていう人生を歩まなくてもいいよ。これからは女性だって自分の食べるぶんくらいは男女雇用平等で稼げるんだから。食べて行けるなら独り身のままでいたっていいんだから。」とさんざ言われて大きくなった私は、その母の言葉どおり、子どもが欲しいという女性としての本能のような願望をどこかに置き忘れてきたまま育ちました。

そして社会人になってからも類は友を呼ぶのか、私の周りには特に子どもに対して思い入れが強い、という友人や同僚はいませんでした。


だから私は「私には、自分の子どもを産んで、その子を立派に大きく育てる。」という使命はないんだな、どこかほかにやることがあるから、そういう部分にはなるべく関わらなくてもいいんだよ、という場面ばかりのなかで生きてきたんだろう、というようにこれまで解釈してきました。

でも、このときに限っては、なぜか本当にそうだろうか・・

それだけで終わってしまってはど~も私の魂は喜んでいないような気がする・・と思ってちょっとじっと考えていました。

すると、ふっと湧き起こってきた考えがありました。

それは、自分の周囲に育児に関してズックリと関わっている人がいなくてそういう思いを見てこなかったから、「子どもを産んで育てる、という私には使命がないんだ。」と考えることよりも、「自分が何も外敵(?)からわずらわされることなく、傍若無人にふるまってこられた子ども時代を送ってきた、ということは母がどれだけ私をそういうものから守ってきてくれていたのか。」ということでした。

母の教えは、子どもなんて産んでも産まなくてもどっちだっていいけれど、その代わり、あなたはしっかりと自分の好きな仕事を見つけ、それにまい進し、それをやり遂げることが大切なんだからね、ということだったはずです。

そのためになるようなことで母はこれまでダメ出しをしたことはありません。

小さい頃から、勉強に関することで「あの本が欲しい。」とか「あの塾へ行きたい。」とか言って「ダメダメ。うちにはそんな余裕なんてないんだから。」と言われた記憶はありません。

「洋服買って~」とか言ってそう言われたことはありますが、こと勉強に関するものをねだってしぶられた、とか買ってもらえなかった、ということはないんです。

大学も「東京に行きたい。」と言うと、母なりに東京へ行ったほうが、大学の数が少ない中部よりはいい大学へ行けるかもしれないし、いろんな経験も出来るだろう、と思ったのかすぐにOKでした。

自宅から通わせるのと東京でひとり下宿させるのとではかかる費用に雲泥の差があるにもかかわらず、そのことで一言もグチられたことはありません。

つまり、母は私が「勉強する。」ということに関しては、それ以外のことでわずらわされることがなく、思う存分無心に勉強できるように、全部、お金に関する問題や、環境を黙ってととのえてくれていたのでした。(その割には、それを利用しただけで、勉強してこなかったなぁ。)

何かを強く願えば、反対側にある何かは見捨てられたように見えることもある。

私はこれまで、母の育て方のせいで、人との関わり方、特に自分より目下の庇護してあげなくてはいけない存在に対する愛情の持ち方を教わってこなかった、ということばかりをあげつらっていました。

しかし、見方を変えれば、母は小さい私に「そんなことは気にしなくていいから、これが自分を支えてくれているんだ、っていう仕事を見つけなさい。自分の生き方を見つけなさい。」ということを教えてくれたわけです。

そしてそういう意味では私は、母がなってほしかった職業についてはいないと思うけれど、十二分にその教えを守り活かして生きている、といえます。

これは母の育て方のおかげですね。

いつもいつも母には反発ばかりして生きてきて、何だか自分の生き方を阻害する眼の上のたんこぶのような存在だと思ってきましたが、そしてそう感じながらも、母の描いたレールの上に乗っかっている部分もあるような自分がまたイヤでイヤでしょうがなかったりもしましたが、私が強く「好きな仕事にだけ関わって生きていきたい。」という生き方を選んでいるのは、それが母がずっといろんなことから防波堤のようになって守ってくれていたからなんだな、と気付くことができました。





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