住んでいる集合住宅の前に並ぶ12本のセコイヤが一斉に葉を落とし始めた。下の道路はセコイヤの落ち葉で埋め尽くされた。12月1日から天気は荒れ模様である。雨が降ったり、風が強く吹いた。2日は1日よりもっと風が強くなった。台風並みに吹き荒れた。セコイヤの葉は9割が落ち、残るはあとわずかである。地面はセコイヤの葉でいっぱいかと思いきや、ほとんどが風に運ばれてしまっていた。
2日の午後、散歩に出た。寒かった。風が厚手のジャージ生地を抜けて肌に感じる。体重70キロの私でも川にかかる欄干のない橋の上で突風に飛ばされそうになった。空は快晴。青い空が美しい。向かい風が吹くたびに空気が壁になって抵抗となり歩きにくい。いつもより消費エネルギーが多い気がした。良い運動になるとやせ我慢。
途中、私が好きな真っ赤な実をたわわにつける樹木のある家の前に来た。万両という木だと思うが正しい名前は知らない。相変わらずずっしりと枝がしなるくらい重そうに実が付いている。足元を見ると地面に赤い実が散乱していた。
私の家の前は陽の光を浴びた黄金色のセコイヤの葉、そして今度は真っ赤な万両の実。ゲーテは「一本の美しい木ほど神聖で模範的なものはない」と言った。私は木を見ると不思議でたまらない。この地球に生命が誕生して何十億年という時間が経つ。木だって細胞を持つ生き物のはずである。最初の一個の細胞から生命体すべてが進化したなら、木も人間も生物としてつながるはずだ。木に脳があるのかないのか、感覚があるのかないのかも知らない。木は喋りもしない。屋久杉のように樹齢が1千年を超すものもある。
我が家の居間にねむの木の鉢植えがある。昼間葉を開いているのに、夜になると葉をピチッと閉じる。朝日が昇ってしばらくすると、まるで寝起きの悪い小学生のように「おはようございます」と挨拶するように徐々に葉を開く。そのさまが何とも愛らしい。その毎日の健気な繰り返しに心惹かれる。私もねむの木に毎朝声をかける。日課である。
高倉健が菅原文太が落ちた。残念、無念。私にどうすることもできない。順番なのだ。
最近、私は無性に陽当たりが恋しい。陽にあたっていると嬉しく心地よい。伊藤整が「夕映えが美しいように老人の場所から見た世界は美しい」と書いた。私も自然に目を向けると世界は美しいと思える。健さんも文太さんもきっと晩年はそう感じていたに違いないと信じたい。