団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

日本で買えないメイド・イン・ジャパン

2014年12月09日 | Weblog

  イタリアのヴェネッィア(ベニス)に『トスカーナ』というレストランがある。私はそこで生まれて初めて生ハムなるものを食べた。旨かった。私は一口食べて生ハムの魅力のとりこになった。ハムとソーセージは違うが私の少年時代、丸善のホモソーセージはご馳走だった。ひもじさから食通しか口にできない食べ物でも時々食べることができるまで階段をのぼるように時代を生きてきた。

  日本では“生ハム”と呼ぶ。日本人は“生”という言葉に新鮮さを感じる。刺身を英語でraw fish(調理されてない魚)と野蛮なイメージであると知り幻滅した。十代後半にカナダの学校へ行き、「日本人は魚を生で食べるのか?」とよく質問された。カナダ人は日本人が生きた魚にがぶりと噛みついて食べるとでも思っていたようだ。そんな誤解をされていた刺身も寿司の普及で世界の多くの国々で食されるようになった。

  生ハムはイタリア語ではProscitto(プロシュット)。英語でuncured ham(保存処理されていないハム)。刺身と同じく何となく危ない感がある。実際アメリカ人を家に招いて生ハムを献立に加えたが友人は口にしなかった。アメリカ人でも生ハムを食べ慣れている人はいる。その友人には馴染みがなかっただけだ。彼は「私は豚肉を生で食べません」と言った。それ以上私が言うことはなかった。

  『トスカーナ』で食べた生ハム自体にも感動したが、特製の台車の将棋盤のようなまな板に置かれたモモ一本丸ごとを包丁で一枚一枚薄紙のように切る技術には目を丸くした。私は食べ物は重厚長大を好しとする。生ハムだって厚いほうがいい。貧乏性の症状の一つである。しかし生ハムは薄ければ薄いほど好いのだ。イタリア料理が私の一位である理由は、ここまで食材を活かそうとするこだわりである。リゾット、パスタのアルデンテに仕上げる感性。盛り付けに見られる芸術性。私はイタリア人の食文化にぞっこんである。

  いつの日か私も生ハムを原木(生ハムの腿一本丸ごとを指す呼び名)で買って包丁で一枚一枚紙のように薄く切ってみたいと思っていた。高島屋デパートのローズサークルの積立金が満期になったので早速出かけた。デパ地下の生ハム専門店の主と話した。ショック。何と私の一番のお気に入りであるサンダニエールの原木が27万円。買えない。帰宅してネットショッピングで調べた。原木で3万円とか4万円で売っていた。ここまで値がひらくと眉に唾したくなる。

  生ハム用のカット台とナイフもネットで調べた。新潟県燕市の吉田金属工業がGLOBALの商標で製造販売している生ハムサーモン専用ナイフを見つけた。問い合わせると日本国内では販売していないと言われた。「だったらカタログに載せるなよ」と腹を立てた。その話を日本に住むイタリア人の友人に話した。彼はネットでイタリアから取り寄せてくれた。2週間で届いた。持つべきものは良き友である。

  高島屋の生ハム専門店でサンダニエールの小さいブロックをひとつ買った。GLOBALの包丁で生ハムを切った。よくしなりおそろしくよく切れた。素人の私でも薄く切れた。指4本に切り傷をつけたのにも気が付かないほど繊細に切れる。血が流れた。私は反省した。日本で販売しないのは、日本人の生ハム文化がイタリアの水準に達していないのだと。理由があってのことなのだ。プロ仕様なのだ。それでもイタリアで日本の生ハム専用包丁が使われていることは嬉しく誇らしい。


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