日本の文房具が好きだ。鉛筆には思い入れがある。高校受験の日、家を出ようとしていると父が何も言わずに筆箱を私に手渡した。私の筆箱だった。「あれ、忘れたのかな。でも昨夜私は受験の前の持ち物点検を確かしたのに」といぶかった。
受験した高校で試験が始まった。筆箱を開けて驚いた。私と違う削り方で鉛筆が削ってあった。父は職人なので刃物の扱いが上手かった。手が器用で木彫りも上手かった。筆箱の謎が解けた。
高校受験の前、中学3年生の12月の初め、私は急性肝炎で入院した。受験勉強がほとんどできなかった。退院したのは受験日の1週間前だった。団塊世代のトップランナーの世代で倍率は1.18倍だった。定員490名に580名を超す受験生がいた。約90名が不合格になる。当然私もその内の一人になることは容易に予想された。父も覚悟はしていたと思う。しかし合格してしまった。後で知ったことだが、浪人して一番成績が伸びるのは中学浪人だそうだ。私には浪人という時間が成績にも健康にも必要だったと思う。入学しても入退院を繰り返した。成績もよくなかった。病院から病院で作ってもらった弁当を持って通学した時期もあった。
とにかく私は子どもの頃から病気ばかりしていた。その上あだ名は“準内地米”。 「ジュン、泣いちまえ(い)」と泣くまでいじめられた。泣けば許してくれるから、ウソ泣きも上手かった。歳をとり余計涙もろくなってきている。兵庫県の元県会議員ほどではないが。彼の号泣会見を見た時、他人事とは思えなかった。
そんな私をシベリア帰りの父は歯がゆかったに違いない。父の私への願いと実際はうらはらなことが多かった。脚は遅い、楽器は演奏できない、野球は下手、手は不器用。それでも父は私をかわいがってくれた。カナダへの留学も大きな負担を承知で許してくれた。帰国して若すぎる結婚も許してくれた。子どもが二人生まれた。土地を買って家を新築した。離婚した時、報告すると父は「そうか」と言っただけだった。72歳で父は亡くなった。再婚した妻に父は会ったことがない。
息子が他県の寮のある高校を受験した時、私は父にしてもらったのと同じことを息子にした。父のような芸術的に削ることはできなかった。カミソリナイフで3本の鉛筆を削って渡した。息子は合格した。私の狙い通りに息子は異郷の地で寮生活をしながら家庭の問題から離れて、のびのびと学んだ。その息子の息子が今年の春、中高一貫校を受験した。息子が孫の鉛筆を削ってやったかどうかは知らない。孫は合格した。だからきっと鉛筆削りをしたのだろう。
28日8時30分に妻の甥の合格発表だった。1次試験を通って2次試験を受けての発表である。妻は一日中やきもきして勤務先で妹からの一報を待っていた。私も合格を信じて吉報を待った。その日結局連絡はなかった。妻はメールで合否を尋ねることをしなかった。妹一家の心中を慮ってのことである。29日の夕方、妻は思い切って「大丈夫?」とメールを送った。「だいじょばない」の短い答えが返ってきた。妻は私に「何がいけなかったのかな?」と聞く。私は「鉛筆かな」と言いそうになった。
いよいよ受験シーズン到来である。鉛筆削りで合格できるなら、だれもこれほど受験で苦労もしなければ悩みもしない。それでも受かってもダメでも、黙って一緒にすぐそばにいてあげることはできる。