団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

2012年10月25日 | Weblog

 以前『千の風になって』「♪私のお墓の前で♪泣かないでください♪」という歌が流行った。私は既製の墓に入りたくない。東日本大震災以後、ますますそう思う。いろいろな宗教があってもその信仰によって自然災害や人災の被害の軽減はない。東日本大震災からすでに19ヶ月が過ぎた。新聞やテレビの報道で墓地がよく映る。歳のせいか最近テレビの宣伝に墓石とか墓地の宣伝が目に付く。埋葬も墓でなくて樹木葬とか海への散骨とか選択肢が増えているらしい。多くの墓地も住宅や施設と同じく津波によって根こそぎ流され破壊された。墓地で永眠していた遺骨も流された。捜索はままならない。家や家族を何より大事にする人々は、家を建てるより早く墓を高台の墓地に新設移転させた。しかしその墓の多くに遺骨は納められていない。先の戦争で中国、朝鮮、シベリア、アジア各地で戦死した人々の多くの遺骨は帰国できなかった。海で沈んだ船の事故、飛行機の墜落事故でも遺体が見つけられないこともある。遺体があり荼毘にふし無事に墓に納骨されるのを当たり前と考えるほうが、能天気なことかもしれない。

  外務省医務官を14年間勤めた妻について6カ国(ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、クロアチア、チュニジア、ロシア)で暮らした。それぞれの地に私は妻と自分の髪の毛と切ったツメを集めておいて秘密の墓をつくり埋めてきた。なぜそんなことをしてきたのか。最初の妻の任地のネパールでは、1992年着任の前にタイ航空の墜落事故があり日本人乗員1名と乗客20名も犠牲になった。飛行機に乗ることが好きだった私が飛行機恐怖症に変わった。飛行機だけではなかった。交通事故、テロ、強盗、疫病。日本では考えられない危険にさらされた。それぞれの地で私は常に命の危険を感じた。

 ネパールで妻は無事任務を終え、次の任地がアフリカのセネガルと決まった。妻の後任者のために家を片付けホテルに移る日住んでいた借家の庭の片隅に誰にも知られぬように前日に妻と私の髪の毛と爪を埋葬して手を合わせた。これがどの妻の任地でも恒例となった。飛行機による頻繁な移動、ユーゴスラビアではNATOの爆撃、チュニジアでは雇った運転手が運転する我が家の自家用車で交通事故に遭い車は大破して私は胸を強打して骨折などなど。またチュニジアで狭心症の発作を起こし、日本へ緊急帰国して心臓バイパス手術を受けた。手術前、こんどこそ絶体絶命と死を覚悟した。辞世帳と題して遺書を書いた。手術の日、妻、二人の子どもに手を振って手術室に入った。そして手術台に上がる前、私にはすでに地球のあっちにもこっちにも墓があることを思った。私しかその場所を知らない墓である。その数と地球規模の拡がりが私の気持を大きくさせてくれた。「よしこれでいい。いい人生の最後・・・」 麻酔が効き、オリーブ畑に黄色の花がびっしり咲く野原に浮遊した。手術終了後、集中治療室で意識が醒めると家族がベッドのまわりを囲んでくれていた。死ななかったのだ。

 私はこの先死んでも七つ目の墓に入りたくない。フランス映画『最強のふたり』を観た。良い映画だった。最強のふたりでも最後は別々な道に分かれていった。妻と私も二人にとって良好な関係にある。死んだらその証しに二人の遺骨をプレート(株式会社エターナルジャパン 東京都墨田区など多数の専門会社有)にして接着剤で貼り合わせて海に、できればイタリアのヴェニスの近くに沈めてもらえればいい。すでに墓はある。墓標も墓銘碑も戒名もない。私たちの髪の毛と爪だけを一緒に埋めた穴に土をのせただけのモノだ。私がその地に戻って、探しても見つけられないに違いない。そのことが何だか愉快で、心強くさせてくれる。辞世帳書きはまだ続く。おかげで今日も精一杯、のんべんだらりんと書いて読んで食べたいものを食べ、わがままいっぱいのオタク爺として過せそうだ。


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