団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

暗誦

2012年10月05日 | Weblog

  母親が自分の産んだ子をゴルフ練習クラブで撲殺したり、ナイフで刺し殺すという痛ましい事件が続いた。身につまされる。元妻は二人の子どもを残して駆け落ちした。その後、私の子育ては何度も挫折しそうだった。子どもと死のうと弱い心が囁いたこともある。私が殺人者にならなかったのは恩人たちがいたからだ。その恩人のひとりは私が十代後半に留学したカナダの学校の先輩のアメリカ・ワシントン州シアトルに住む日系アメリカ人の夫婦である。私の娘を預かって我が子のように育ててくれた。夫はすでに他界した。

  『これは日本の歴史で有名な豊臣秀吉が木下藤吉郎と呼ばれていたときの話です。藤吉郎はその頃、名高かった尾張の国の大名織田信長につかえて非常に信用されていました』 

 癌との長い闘病を経て、6月に初来日した70歳を超えた恩人が、車の中で聞かせてくれた暗誦である。彼女は日本語を話さない。理解もできない。

  アメリカに帰国する前の夜、車で東京へ送った。横浜で氷川丸を見物して品川のレストランで娘一家と落ち合った。娘夫婦は私たち夫婦と恩人の最後の食事にお好み焼きを選び予約をしてくれた。成田へは娘一家が見送ることになっていた。成田に近いほうが良いとの計らいで、日本最後の夜、東京の私の娘の家に泊った。家に戻って私は娘に電話で恩人の暗誦文を録音してもらうよう頼んだ。4ヶ月過ぎて、やっと先週の土曜日に聞き取りで文章化してメールで送ってくれた。恩人がアメリカのワシントン州立大学の学生だった時、日本語を学んだ。日本語の教科書に載っていたのか、先生の手作りの教材だったのかはわからない。今から50年以上の前の話である。結局恩人は、日本語を修得することができなかった。暗誦した文章が役に立ったことは一度もなかった。思い出すこともなかったそうだ。

 来日前「観光旅行はしなくてもよい、あなたたちとあなたたちの家でゆっくり時間を過したい」と再三言われた。彼女の来日が決まった頃、私は京都、奈良、広島、日光、浅草を案内しようと抜かりなく盛りだくさんな計画を練った。恩人の希望通り、結局観光旅行に行くことはなかった。家のある町の近くを案内するに終った。この暗誦文が披露されたのは、小田原市の二宮尊徳記念館を観た後の車の中だった。古い民家が彼女の日本人の血を刺激したのかも知れない。記念館で民家や農機具、生活用品、家財道具を熱心に見入っていた。貧しい昔の日本がそこにあった。恩人は祖父がアメリカに移民する前の生活をなぞっていたのかもしれない。突然暗誦文が口に出たという。

 脳の働きの凄さに感服する。50年も前に暗誦したとはいえ、その後何の役にもたたず思い出すことさえなかった文章である。それが二宮尊徳記念館に行った後、スラスラ口に出たというのだからすごい。いったい脳の中にどのようにして記憶されていたのであろうか。何をきっかけに突如よみがえったのか。人間は神秘の塊である。

  先日、私は知人を訪ねても、鉄道の駅の名前は覚えていたが、バスの停留所はからきし思い出せなかった。私のように暗記が苦手、記憶力が低い頭の悪い者でも自分の脳を褒め称えることがある。パソコンも携帯電話もすごいと思う。それでもやはり自分の脳のほうがすごい。競争して、その成果で比較されれば、私の脳のほうが負ける。しかしパソコンや携帯電話にはできないことがある。私には感情がある。感情に私の脳は瞬間的に反応できる。わずかなきっかけで遠い昔のことでも人の顔でも言われた言葉でも味でもニオイでも色でも温度でも伴って思い出せることがある。

 人にはそれぞれに異なる脳の能力がある。優劣はあるが、基本は同じである。だれの脳にでも何の役にも立たないと思われるささいな記憶や暗誦が詰まっている。複雑な回路が何かのきっかけで突然つながり、流れ星が飛び込んでくるかのように記憶や暗誦が戻る瞬間を分かち合えることも幸せである。幸せは仕合わせとも言う。恩人の暗誦が私に感動を、驚嘆を、し合わせてくれた。私の脳の細胞のどこかにこの共有された記憶が留まる。拍手。

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