goo blog サービス終了のお知らせ 

巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

カバーレター「その上、わたしは次男です。」

2004-08-21 22:13:22 | 異文化コミュニケーション
イノガミさんの「無想亭日乗」の記事「application」の中に「どの文化圏であれ、ある特定のシチュエーションでは、特定の言動や文章を求められることがある。」という文章があった。これを読んでわたしはかつて、それにぴったりの文面を思い出した。それはアメリカ系企業の日本法人に、日本人の大学生が提出した採用応募書類のことだ。

いまから12年前のことなので、もう当事者たちのだれも傷つかないと思うので書いてみよう。イノガミさんの記事に相応しい例だと思う。

当時わたしは、米国系証券会社の投資銀行部に、シニア・セクレタリーとして派遣されていた。わたしの上司はアメリカ本国から来た、30歳になったばかりのエクスパット(=expat、本社から派遣される特権階級の管理職)の男性リックだった。この歳でシニア・ヴァイス・プレジデントという肩書きをもっており、かなりの実力があった。この証券会社の日本法人は中途採用も盛んだが、日本の大学生の卒業にあわせた新卒の採用も行なっていた。

翌年社会人となる大学生からの採用応募書類が集まり始めた、ある日のことだった。リックがある大学生の応募書類を見て「ゥワオゥ!」とさけんでのけぞり、狐につままれたような顔をした。わたしをふくめ周りにいた日本人スタッフ数名が、なにごとかと彼の回りに集まった。

「一体、このカバーレターは何なんだ?」そういうと、彼はある日本人の大学生採用応募者のカバーレターを読みあげはじめた。カバーレターは日本で応募する際に履歴書に添えるいわゆる「添え状」だが、この採用応募者のカバーレターの文面は、日本語に訳すとこういうものだった。

わたしの名前は○○です。わたしは○○歳です。私は○○大学の4年生です。わたしは○○を専攻しています。わたしには1人の兄弟(兄または弟)がいます。わたしの父の職業は○○です。私の趣味は…


昔々の英語の教科書の自己紹介の文例に出てくるような文ばかりが並んでいる。手紙をのぞき込むと、文面は文法やスペルのミスは一切ない。でもこんなカバーレターをみたら、アメリカ人なら「君の家族構成には興味がない。ましてや父親の職業なんかに興味はない。それに一体君はなにを言いたいんだね?」と言うことだろう。

アメリカ人が書くカバーレターは、あくまで応募する職種に自分が相応しいことをアピールしつつ、履歴書では表現できない応募のポジションに対する熱意を示す場所だ。だから、「わたしは○○を専攻している」で文章を止めてはだめだ。「わたしは○○を専攻しXXを学んだので、応募要件のココを満たしている」にしなければ、何も言っていないことになる。このような考え方があるため、しばしばアメリカ人が書いたカバーレターの内容は、しばしば次のような強気な文章になる。

○○新聞○月○日付けの御社の投資銀行部の、アナリストの募集広告を読み応募しています。私の資質が御社の求めている資格にいかにマッチしているのかを、以下に記します。
(以下、採用広告に書かれている資格 (requirements) の一つ一つの項目について、応募者が持つ資質 (qualifications) のどの部分が対応するかの記述が続く…)


さて、この日本人大学生のカバーレターの致命的欠陥はまだあった。

この大学生はカバーレターの中で、自分の長所を列挙していた。成績が良いこと、大学でも部活動でも積極的であること、運動能力があり、高校時代は陸上部に所属していたこと。しかし、長所に関する最後の一文は、次のようなものだった。

そのうえ、わたしは次男です。


一般的に英語圏では、兄弟姉妹について、誰が先に生まれ誰が後に生まれたかについては、日常ではほとんど注意が払われない。英語には兄と弟、義姉と妹と区別する単語がないのがその証拠だ。しかし日本では、家族のなかで生まれた順番は非常に重要だ。なにしろ兄か弟かがわからないと、日本語にならない。仕方がないので "I have one brother." という英文に「わたしには一人の"兄弟"がいます。」という訳文をあててみたりする。この生まれた順番は、日本ではたとえ双子であっても重要な意味を持つ。

たとえば、日本人のほとんどは、荻原健司と荻原次晴という双子の兄弟の健司氏のほうが、兄であることを知っている。しかし、たとえ荻原兄弟をまったく知らない人間だとしても、この2人の名前を読めば、どちらが次男であるかがわかる仕掛けになっている。弟に名前に「次」という漢字をつかっているからだ。

さて、「なぜコレが長所なんだ?」と、リックは答えをもとめて、周囲の日本人を見回した。リックにとってなによりも解せなかったのは、次男だということが、なぜ自分の長所になりうるかだったのだが、そのとき周りにいたのは、日本語より英語のほうが母国語となっている、海外生活のながい帰国子女ばかりだったため、みな肩をすくめるだけ。しかたがないので、日本で生まれ育った極めてドメスティックなわたしが「正しい解釈かどうかはわからないけれど…」と前置きして説明を始めた。

次男であることが企業にとって良いと思われる考え方は、日本の伝統的な考え方に基づいているかもしれないこと。長男は日本の家族制度では、家を継ぐ者として扱われ、両親の扶養義務や家を守る義務があると考えられること。そのため、長男はモビリティ(=mobility 移動性)が低くなり、転勤や単身赴任をさせにくくなるため、そのような義務を負わないと考えられている次男は、企業にとってより好ましい存在にと解釈される可能性があること。実際に、金融サービス業や大手企業では、かつて長男は雇わなかったところが、かなりあったらしいこと…

この説明で、とりあえずそこにいた全員が納得したが、リックは呆れ顔でいった。
「でも、ここはアメリカの会社だよ。そんなことは関係ないってことが、わからないのかな?」
??そう、わからないのである。「その上、わたしは次男です。」と書かれた意味が、リックに理解できなかったのと同様にわからないのだ。

さて、残念ながら、この大学生のカバーレターは、まるっきり日本人のわたしでも説明のつかない最後の文章で大トドメをさした。それは次のようなものであった。

Are you interested in me?


どういうつもりで書いたのかわからないが、期待される文章の一例とは次のようなものだ。

御社のニーズ、そしてわたしがいかに御社に貢献できるかについてを、話し合いたいと存じます。このエキサイティングかつチャレンジングなチャンスに関して、お会いして話し合いができることを楽しみにしています。


かくして、この大学生はスクリーニング(書類選考)でさっさと落ちてしまった。

もしこの採用応募者の大学生が、アメリカ企業が期待するカバーレターのサンプルのひとつでも事前に手にしていたら、きっとアメリカ人の期待するようなカバーレターを書くことができたと思う。そして、あの米国系証券会社には落ちてしまったが、きっと自分にあう会社に就職できたことと思う。なにしろ彼は天下の東京大学の学生だったのだから。

トラックバック:
「application」 (無想亭日乗)


異文化コミュニケーション研究は役立っているのか

2004-07-02 23:18:26 | 異文化コミュニケーション
以前、わたしは「異文化コミュニケーションという研究分野」という記事のなかで、異文化コミュニケーションを、研究分野として「お勧め」だと、書いたことがある。がその一方で、異文化コミュニケーションの研究が、実際の状況でどれだけ役に立っているのかについては、疑問を感じることが多い。

すべての研究というものは??ものすごく、クサい表現だが??少なくともすべての人々 [注] が幸福になるために行なわれるものであると、個人的には思っている。 (ああ、書いちゃったよ。クサーッ!)

すべての分野におけるすべての研究において、一見まとはずれな仮説を立てるのも、「ええ? こんなもんが、研究対象になるの?」というようなものを研究のテーマにするのも、すべてみんなの幸せのためなのだと思う。その結果が認められて富や名声が得られれば万々歳なのかもしれない。が、そういうものは結果としてついてくるものであり、研究の第一目的はあくまで「みんなの幸せのため」だと思っている。 (「そんなでかいことを言う前に、先ずは家族の生活費だろっ!」と、家族から一喝されそうな気がするが…)

さて、わたしの研究分野である異文化コミュニケーション(現在はコンピューターを媒介した異文化コミュニケーションを中心に調べているのだが)が、本当に役立っているのか疑問に思っているのには、以下のような理由がある。

ひとつは、アメリカのあまりにも自国中心的な姿勢だ。

現在の異文化コミュニケーションの研究は、文化相対主義の影響を受けている。文化相対主義とは、熊本大学の池田光穂教授の表現を借りれば:

文化相対主義とは、すなわち他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。

「他山の石」 http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000316crelat.html


つまり、お互いの「違いを認める」ということだ。

異文化コミュニケーションの目的を、異文化理解のためと考える人もいるが、わたし個人は、異文化を完全に理解することが可能だとは思ってはいない。第一、もっとも身近で、「人類最大の異文化」といわれる男と女の間の理解ですら、それほど上手くはいっていない事実がある。

たとえば、わたしは「男心」が理解できない。(ごめん、難しすぎるんだ。) だが、男心が理解できないからといって、それが世の中の人類の半分を占める男性とのコミュニケーションを、断絶する理由にはならない。「相手を理解すること≠相手とコミュニケーションを成立させること」と、わたしは考えている。理解しがたい相手ともコミュニケーションを成立させるためには、相手と自分は違うのだということを、認識する必要がある。

日本の異文化コミュニケーション研究というのは、アメリカで行なわれている異文化コミュニケーション研究の影響をかなり受けており、この分野の多くの研究者は、アメリカへ留学し研究してくる。アメリカは多民族国家であるため、もとより自国内で異文化問題を抱えていたため、かなり早い時期に異文化コミュニケーション問題に取り組んだ。そのため、異文化コミュニケーション研究の先進国と考えられているのだ。

が、そのアメリカが、アメリカ型民主主義を他の文化にナイーブに押しつける姿を見ていると、「異なる文化との違いを認めている」とはどうしても言いがたい。アメリカの異文化コミュニケーション研究も文化相対主義に基づいているはずなのだが、一体どうしたことなのだろう。国内と国外は違うのか。それとも、建前と本音は違うのか。

ひるがえって、日本の異文化コミュニケーションの実情はどうか。

近年新設されている大学の学部や講座には、やたらと「国際」と「コミュニケーション」に関するものが多い。その多くが「国際人」を目指すべく、異文化コミュニケーションを扱う。でも必ずしもそれが、相手との違いを認めることには通じていないように感じるのだ。

国内に多くの外国人がいるにもかかわらず、日本人の多くは、いまだに一部の「ガイジン」と呼ばれる人たち以外にしては不寛容だ。

たとえば、日本国内の多くのアジア系の外国人に対しては、以前にもましてきびしい目が向けられているように感じる。犯罪が起こったときに、犯人が外国人であれば、犯罪が起こった理由を安易に「外国人であること」のせいにしてはいないだろうか。「日本人に受け入れられたければ、日本人と同じように行動し、同じように考えろ」と、彼らに有言無言の圧力をかけてはいないだろうか。

その結果、異文化コミュニケーションが、「欧米系の外国人たちとの円滑な付き合いやビジネスのコミュニケーション」(「わたしは英語を話すときは人が変わるから大丈夫よ」のレベル)とか、「中国人従業員を管理する方法」とかいった、自分が精神的/物質的に満足を得るためのコツを扱うものだけに、なりさがってはいないだろうか。

これには、日本においてこの分野を研究したり教えたりする側の問題もある。

悲しいことではあるが、国内外の大学院で異文化コミュニケーションを研究し、コミュニケーション科目を教えながら、「○○さんとは話の内容が合わず、本当にコミュニケーションが取れない」「どうしてIT関係の人って、ああいう話し方をするのかしら」と、日本人同士の意思疎通の困難を、一方的に相手のコミュニケーション・スタイルのせいする人たちが存在する。もちろんそういう人たちは少数だ。しかし、そういう人間に限って、「異文化コミュニケーションのエキスパート」を任じていたりするのだ。

わたしは、異文化コミュニケーション研究の存在意義を信じている。ヒト・モノ・カネ・情報が、以前にはなかった速さと規模で国境を超える現在でこそ、必要なものだ。でも、この研究が、どれだけみんなの幸せに寄与しているのだろう。もしそのための役立っていないのなら、この研究は研究者の自己満足のためのものに過ぎなくなってしまう。


[注] 「人類のためだけか?」といわれると、仏教の影響を大きく受けている身としては、「生きとし生けるもののため」ぐらいは、豪語したいものである。しかし残念ながら人間のエゴで、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の生きる権利などにはかまっていられないし、もっと身近なところでは、ゴキブリをみると反射的に殺虫剤をかけてしまうのである。


異文化コミュニケーションという研究分野

2004-06-18 17:22:21 | 異文化コミュニケーション
ブログのカテゴリーを少しいじった。投稿した記事が140を超えており、思いのほかアクセス数も増えたので、これ以上記事が増えると、手に負えなくなるからだ。そのうちブログ内検索機能もつけようと思っている。

新しいカテゴリーでは、インターネット関連の記事は、CMCも含めてひとつのカテゴリー「インターネット (CMC)」とした。あまり細かくわけても意味がないと思ったからだ。「政治と選挙」でひとつカテゴリーを作ったのは、政治・選挙関連の検索ワードを使って、サーチエンジン経由でこのブログに入ってくる人間が、意外に多いからだ。

新しく作ったカテゴリーの中で一番わかりにくいのは、「異文化コミュニケーション」だろう。この研究に触れたことがないと、「レターサイズ」「ウィリアム・ハン」「黒人にスイカ」等がこのカテゴリーに入る理由が、ピンとこないかもしれない。そこで、少しばかり「異文化コミュニケーション (Intercultural Communication)」という研究分野について、説明しておこう。

異文化コミュニケーションは、きわめて学際的な研究分野だ

もともと「コミュニケーション」といっただけで、研究範囲は対人コミュニケーションからマスコミュニケーションやマスメディアまで、さらには「コミュニケーション"ズ"」 (communications 情報工学や技術) の部分まで入ってしまう。

おまけに研究分野としてのコミュニケーション研究というのが、学際分野である。つまり、心理学、認知科学、社会学、言語学、経営学、教育学、宗教学、倫理学…等、さまざまな学問が関連する分野であり、これらの研究から理論を自由に借りてくることができる。

さらに「異文化」となると、文化人類学、比較文化研究等の学問が入り、その上で、何を「文化」の単位としてとらえるかで、ぐっと研究対象がひろがる。「アメリカ文化」「フランス文化」などといった、一般的に「文化」と認知されているものを取り上げるもよし、組織文化、世代間の「文化」の違いを扱うもよし、人類最大の異文化である「男」と「女」からのアプローチも可能だ。

これらからの範囲と理論で、いったいどの部分を掘っていくか? 実はこれもさまざまだ。

アイデンティティ、ステレオタイプ、フェイス、帰国子女問題、カルチャーショック、国際ビジネスコミュニケーション、チームワーク、モチベーション、リーダーシップ、国際経営、異文化経営…エトセトラ、エトセトラだ。

そこでわたしのように、本来は経営・人事管理に近い分野であり、個人への応用においては教育学や心理学的理論の入ってくる「エンプロイアビリティ」を、異文化コミュニケーション理論を応用しながら、取り扱うことも可能になる。経営学も教育学も心理学も、すでに異文化コミュニケーション研究の中に取り込まれているからである。

このように「異文化コミュニケーション」は、便利なニッチ分野だが、学際的な分野であるために、かえって大変なこともある。

たとえば、あるトピックに対して、だれかが社会言語学的アプローチをとると、別のだれかが学習心理学の理論をもちだす。さらに別のだれかが「認知科学では…」を言いだし、収拾がつかなくなることがある。それだけ大変な分野だが、知らないことには何でも首をつっこみたがるわたしのような人間には、うってつけの研究分野だ。

研究分野としてはおもしろいので、なかなかおすすめだ。ただし、金銭面や社会的地位の保証はまったくないし、わたしみたいなオタッキーな人間のオタク度が、さらに上がってしまっても、責任はもてない。


レターサイズ:あるいはアメリカの陰謀

2004-06-11 11:44:35 | 異文化コミュニケーション
「アメリカ人ほど、世界中の進出した先々で、現地の人間に『アメリカ流』を押しつける国民はいない」とは、しばしばいわれることだ。それを裏付けるかのようなアメリカ企業の日本での「あひゃひゃ」な行動なら、個人的にはかなり経験してきた。だがこれは大体においては許すことができる。

しかし、わたしがいくつかのアメリカ系企業で、さすがに「このぐらいは日本に(というより世界標準に)あわせろよ」と、あきれたことがある。それは「オフィス内の紙の基準のサイズが、レターサイズ (letter size) だった」ことだ。アメリカでは圧倒的なシェアを誇るレターサイズだが、このサイズを使っているのは北米(つまりアメリカ合衆国とカナダ)のみで、海外では入手しにくいサイズだ。おまけにA4の大きさに近い。だから、こんな汎用性のないサイズを何も極東の現地法人でわざわざ使わずに、さっさとA4の紙を使用すべきだと思うのだが…

sheet_sizes.gif念のために記しておくと、レターサイズとは用紙のサイズの規格で、幅 8.5インチ×高さ11インチの用紙のことである。これをミリに直すと、215.9mm×279.4mmというサイズになる。現在日本企業がビジネスで広く使用しているA4の用紙のサイズは210mm×297mmなので、この2種類の紙を重ねると、幅はレターサイズのほうがわずかに広く、高さは逆にA4のほうが多少高くなる。(図を参照)

このレターサイズの用紙は、日本では売っているところが少ない。レターサイズのコピー用紙は、メーカーに注文すれば入手可能だが、国内でそれほどのシェアがないために店頭には置いてないし、単価がA4の紙よりかなり割高になる。

ところが、一部のアメリカ系企業の日本支店や日本法人では、このレターサイズの用紙がごろごろ…というよりは、すべての文書がレターサイズの紙で回っているのだ。コピー室にある大量のコピー用紙もレターサイズが中心。そう、日本人顧客向けの日本語の印刷物にもレターサイズの用紙を使ってしまう。時おり「官公庁の規則により、A4の用紙で提出しないと受け付けてくれない」という印刷物を作るハメになると、大量のレターサイズの用紙の束をかきわけつつ、「ええっと、A4はどこにあったっけ…ああ、ここだ。」などと、いうことになる。

レターサイズの用紙には専用のパンチがあり、これは三穴だ。当然、穴を開けた紙を綴じこむリングファイルも三穴だ。この三穴パンチとファイルは、最近ではオフィス・デポに行けば手に入る。さすが外資系のショップだ。しかしそのオフィス・デポだって、レターサイズのコピー用紙等のOAペーパーは売っていない。(特別に注文してくれれば入れてくれるかどうかは、定かではない。)なんでアメリカ人はこんな面倒くさいことに、わざわざ固執するのか。

さて恐ろしいことに、このレターサイズの用紙の上にかかれた英語の文書を、数ヶ月間ひたすら眺め続けていると、英語という言語の印刷物には、美的観点からレターサイズの用紙のほうがふさわしいように思えてくるのだ。アルファベットにA4の用紙は、「縦長」で似合わないと感じてくるのだ。レターサイズというローカル規格の用紙が、なんだか愛しくなりはじめるのだ。

しかしこう思い始めたら要注意。アメリカ文化の毒素が、頭の中にまわりはじめている証拠だ。

アメリカ系の企業数社で、レターサイズの用紙を一生分使った後に行った企業は、イギリス系だった。イギリス本社から来る書類はすべてA4だった。「縦長」の紙にびっしり英語が印刷されていた。

ここで目が覚めた。そう、世界標準はA判だ。こちらが国際標準化機構(ISO)の認める国際規格なのだ。レターサイズなんて、あくまでもローカルな規格でしかない。

ところで、日本でワープロソフトとして圧倒的シェアを誇るマイクロソフトWordの日本語版に入っている英文テンプレートは、用紙のデフォルトが「レターサイズ」に設定されている。そしてBlank Documentの余白は上下25.4mm、左右31.7mmと中途半端だ。この余白の大きさは実は上下1インチ、左右1.5インチなのだが、さすが、アメリカのソフトウェア。アメリカ流をそのまま押し付けてくるなんて。

ISOに準拠せず、ソフトウェアの中にひそかにアメリカ規格を仕込むなどとは、アメリカ帝国の陰謀だ。いや、じつはなにも考えていなかっただけかも…


虹の色

2004-06-07 19:45:22 | 異文化コミュニケーション
rainbow.jpg

本日の夕方に出た虹。さて、何色みえるだろう?

虹の色を何色と考えるかは文化によって異なり、2色から8色ぐらいの間で差があるということは、結構知られている。日本では一般的に7色だ。通常、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫という順番で、虹の色を数える。

英語でも「虹の色は7色である」ということを覚えるために、各色の頭文字をとった単語 "vibgyor" (Violet, Indigo, Blue, Green, Yellow, Orange and Red) がある。紫から数えていくわけである。

が、わざわざ単語を作って、覚えなければならないところに苦しさがある。というのは、英語圏では「虹は6色」という考え方が一般的だからからだ。"Rainbow Colors"という歌にもあるように、Purple, Blue, Green,Yellow, Orange, Redの6色だ。一応子供は学校で「7色」と教えられるが、日常では虹を6色として扱うことがことが多いので、7色と教えられても、いつのまにか6色になってしまうのだそうである。

かなり昔の話だが、通訳中に "all six colors of the rainbow" とイギリス人に言われて、訳が数秒間止まってしまったことがある。大昔、大学時代の心理学の授業中に、「英語圏の人は虹を6色と考える」という話は聞いていたので、知識としてはわかっていた。が、虹の色を「六色」などといわれると、やはり「えっ?」なってしまうものだ。

そのときとっさに訳出したことばは、「七色」だった。勝手に数を変えてはいけないのは分かっていたが…