孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

日中国交正常化50周年 今のナーバスな状況 時代を動かした熱意 中国残留孤児の問題

2022-09-24 22:27:54 | 日本
(日中国交正常化交渉に臨む田中角栄首相と周恩来首相【2015年7月29日 DIAMONDonline】)

【政治情勢とコロナでナーバスな雰囲気のなか、50周年記念イベント開催】
今月29日に日中国交正常化から50周年を迎えるということで、その関連ニュースがいくつか報じられています。

****日中行事ウルトラマンショー中止 コロナ対策が困難と説明****
北京のショッピングモールで24日に始まった日中国交正常化50周年の記念イベントで、在中国の日系企業が中心となり計画していたウルトラマンのショーが中止となった。中国側が求める新型コロナウイルス対策への対応が難しいためだと説明している。

当初は、ウルトラマンと怪獣がメインステージで約10分のパフォーマンスを繰り広げる計画で、24日に2回、25日に1回予定していた。イベント関係者はショーが「争いを想起させる」ため中止になったと話していたが、説明を変えた。
 
イベントの実行委員会は、ウルトラマンのグッズをプレゼントする抽選会に変更した。【9月24日 共同】
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記事にあるように、当初は中止理由として「争いを想起させる」と説明されていました。
なぜ理由が変わったのか・・・よくわかりませんが、別報道によれば、音楽パフォーマンスで予定していた「剣の舞」のビデオ上映も「争いを想起させる」という理由で変更が求められたとか。

少なくとも、50周年を迎えて“お祭りムード”と言うことではなく、台湾問題で日米と中国の対立が強く意識される雰囲気のもとで、ナーバスな感じがうかがえます。

微妙な政治情勢で、中国当局の開催許可が出たのは今月に入ってからのこととか。
“8月下旬、新型コロナに感染した岸田文雄首相に習近平国家主席が見舞いの電報を送ったことで、「日中関係を落ち着かせ、コントロールしようとする中国指導部のシグナル」(日中外交筋)との受け止めが広がった。”【日系メディア】とのこと。 岸田首相のコロナ感染も無駄ではなかったようです。

上記のように“ナーバス”な雰囲気ではありますが、10年前は尖閣国有化に反発する反日デモで記念行事どころではなかっただけに、今回記念イベント開催が実現しただけでも素直に喜びたい・・・という関係者の本音も。

****在中日系企業団体が北京で日中50年記念イベント****
在中国の日系企業などは24日、北京市中心部のショッピングモールで日中国交正常化50年の記念イベントを開いた。

現地の中国人に日本文化に興味を持ってもらうことを狙っており、垂秀夫(たるみ・ひでお)駐中国日本大使は開幕式で「時間がかかっても、国民レベルでの相互理解を通じて信頼を醸成していくことが、日中関係打開の王道であると信じている」と強調した。

中国に進出する日系企業の団体である中国日本商会などがつくる「日中国交正常化50周年記念事業在中国実行委員会」と、中国外務省傘下の中国公共外交協会が共催した。開催に当たっては、中国で事業を行う日系を中心とした企業から協賛金を募って約600万元(約1億2千万円)が集まった。

開幕式で、中国日本商会の池添洋一会長は「新型コロナウイルスの影響などでイベントの準備は困難に直面したが、日中双方の関係者が協力することで困難を克服して開幕を迎えることができた」とあいさつした。

開幕式には、中国側から中国外務省の劉勁松(りゅう・けいしょう)アジア局長や、中日友好協会常務副会長の程永華(てい・えいか)前駐日大使らが出席した。

イベントは25日までの2日間。会場には、ホンダの電気自動車(EV)など日本の商品を展示しているほか、日中両国の料理を組み合わせた創作料理の紹介なども実施。

24日には会場前に行列ができ、モールの上階から会場を興味深そうにのぞき込む親子連れらの姿も目立った。同日午前には会場で安全検査を実施していたが、午後には検査をなくして自由に入場できるようにした。

イベント開催にあたっては、日中関係の難しさが影を落とした面がある。中国公共外交協会との共催は、今月に入りようやく決まったという。また、音楽のパフォーマンスで予定していた「剣の舞」のビデオ上映は中国側に変更を求められた。「争いを想起させる」という理由だったといい、関係者は「コロナ対策と政治的な要素に関して、中国側はかなり神経をとがらせている」と指摘する。

垂大使は24日、産経新聞などの取材に対し、日中関係に関して「民間による役割は非常に重要で大きい」と指摘。その上で「中国にいれば『両国関係の基礎は民間にある』とよく耳にするが、そのことを実感するのは難しい。両国の政治関係が悪化した場合、真っ先に影響を受けるのは民間の往来や交流、活動だ」と懸念した。【9月24日 産経】
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【李克強首相 日本の経団連の会長らとオンライン会談】
50周年を前に、李克強首相は日本の経団連の会長らとオンラインで会談し、関係拡大を訴えています。

****中国首相 経団連と会談 日中関係の発展と中国への投資拡大訴え****
中国の李克強首相は日本の経団連の会長らとオンラインで会談し、両国関係の長期的な発展や中国への投資の拡大などを訴えました。

国営の中央テレビによりますと、22日に経団連の十倉会長らとオンラインで会談した中国の李克強首相は、「あと数日で国交正常化50周年を迎える。中日は互いの発展を客観的かつ理性的に見つめ、中日関係が長く安定的に続くよう推進しなければならない」と訴えました。

その上で、「互いに尊重して相違点を適切に処理し、平和な外部環境と安定した周辺環境を守り、中日と地域国家が共に発展することを望む」と述べました。

また、新型コロナの感染拡大やウクライナ情勢などを念頭に、「今年は予想を上回る要因の影響で中国経済の下押し圧力が強まっているが全体的には回復基調だ」と強調。

「市場化、法治化された国際ビジネス環境を構築して透明で予測可能な監督管理ルールを明確にし、知的財産権を厳格に保護する」として、中国市場に積極的に投資するよう呼びかけました。

さらに李首相は、両国の協力関係拡大のため、RCEPの有効活用や適切な新型コロナ対策を行うという前提のもと、日本との直行便を増やす考えも示しました。【9月22日 TBS NEWS DIG】
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【お膳立てがない異例の交渉 政治家の熱意が時代を動かす】
日中国交正常化当時のエピソードで、久しぶりに田中眞紀子氏もメディア登場。

****50年前の日中国交正常化 田中角栄・周恩来会談 娘の眞紀子氏が披露****
毒を盛られるかもしれないから、眞紀子は連れて行けない。50年前に日中国交正常化を実現させた田中角栄元総理。当時の“命がけの覚悟”のエピソードを、娘の眞紀子氏が披露しました。

田中角栄元総理の長女・眞紀子氏は、22日に都内で開かれた日中国交正常化50周年を祝うレセプションであいさつ。東西冷戦の真最中に中国へと渡った父親の思いを紹介しました。

「夢は眞紀子を連れて世界の要人に会わせることだ」と語っていた角栄氏。ただこの時は、「中国は駄目だ」と言われたといいます。「あれ、約束が違う」と思う眞紀子氏に、角栄氏は。

「これは命がけだ。相手があるし、中国は数千万の人たちが日本によって殺されている。お父さんが行って、毒を盛られるかも、切られるかもしれない。お父さんは議員なんか辞めても死ぬ覚悟で本当に行くんだ。誰かがやらなきゃいけないんだ。眞紀子は一人っ子だから、2人で殺されたり毒を盛られたら、ご先祖に申し訳ない。将来、お前たちの社会が自由に笑顔で交流できる時代を作るためだ」と語ったといいます。

また、角栄氏は交渉相手だった当時の中国の首相・周恩来氏を高く評価していたといいます。

「世界の要人、あらゆる国の人と会ったけれど、周恩来は最高だったと。素晴らしかったと言っていました。私は2人とも本当に英明な政治家であったと思うし、肝胆相照らす(関係だった)」

眞紀子氏は、角栄氏から聞いた首脳会談のエピソードも披露。

周恩来氏は角栄氏に対し、「あなたが命をかけて来てくれたのはわかっているけれど、何千万の中国国民のほとんどは、あなたの訪中を歓迎していませんよと。その前提で交渉しましょう」と切り出したということです。そんな周恩来氏について、角栄氏は「あれだけのこと、事実をスパッと言うんだと、気に入ったね」と振り返っていたといいます。

この日行われた国交正常化50周年のレセプションには、中国の孔鉉佑大使ら300人以上が出席したということです。

孔大使は「歴史のバトンはわれわれの手に渡され、中日関係の今後の発展の重任は我々の肩にかかっています」と強調。両国が交わした政治文書の精神を堅持し、「一層成熟し安定した、健全かつ強靱な姿で、中日関係の次の50年を迎えるようにしなければなりません」と訴えました。

福田康夫元総理は、国交正常化50周年の機会に、先人の思いを思い出し、実現するためにどうしたらいいか、相談し合いながら順調な歩みを続けたい、とあいさつ。「これからの中国は、国際社会の中で安定した平和な勢力であるということ。これを私はこの際お願い申し上げたい」と呼びかけました。
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当時、中国側は毛沢東主席と周恩来首相 日本側は田中角栄首相と大平正芳外相。

“毒を盛られるかも、切られるか”はともかく、田中・大平の日本外交には台本のない交渉に政治生命をかけてガチで臨み、相手との信頼関係を築き、将来に向けて時代を動かそうという“熱意”が感じられました。
昨今の日本外交、あるいは日本の政治家の言動からはあまり感じられないものです。

****中国の覇権主義、大平外相が予言 「低姿勢、50年後変わる」―日中国交正常化****
1972年9月29日、日本と中国は国交正常化を果たした。日本側は首相の田中角栄と外相の大平正芳が主導。日中共同声明をめぐる交渉は一時難航したものの、中国側は総じて融和的な姿勢を取った。だが、その中でも大平は、覇権主義的な動きを強める現在の中国の姿を予言していた。(肩書は当時、敬称略)

◇見切り発車
「中国は低姿勢だったが、50年たったら態度はガラッと変わる。大きく経済発展して日本を見下すようになるよ」。9月29日の共同声明調印式を終え、中国から帰国する日本航空特別機の中で、大平は娘婿でもある秘書官の森田一(88、後に運輸相)にこう語り掛けた。

日本は52年に中華民国(台湾)と日華平和条約を締結して以降、台湾と良好な関係を維持してきた。しかし、71年7月に米大統領ニクソンが自身の訪中計画を電撃的に発表した「ニクソン・ショック」を契機に、中国との国交正常化へ大きくかじを切る。

72年7月の自民党総裁選を制した田中は、首相就任後初の記者会見で「日中関係正常化の機は熟した」と宣言。中国首相の周恩来からは直後に訪中招請が届いた。だが、「決断と実行」の田中がこの時ばかりは「これで失敗したら辞任だ」と迷いを見せたという。

当時、自民党内には親台派の議員も多かった。当初は外務省も法眼晋作事務次官をはじめ日中交渉に反対していた。

田中の長女真紀子(78、元外相)によると、「(中国から)戦争の損害賠償を言われたら日本の財政なんて吹っ飛ぶぞ」と懸念していた田中は、中国側の賠償放棄の意向が漏れ伝わると、「これだ」と腹を決めた。「誰かがやらなきゃ片付かない問題だ。見切り発車するしかない」。

◇「大学出が考えろ」
田中と大平は9月25日に北京に乗り込み、周らとの会談に臨んだ。外交当局のお膳立てがない異例の交渉。森田によれば、最も難航したのは戦争の終結をめぐる書きぶりだった。

日中共同声明調印をもって戦争状態終結だと主張する中国側。日華条約締結時に終結したとしている日本の立場とは相いれなかった。

交渉が行き詰まった26日夜。先行きを悲観する訪中団の重苦しい雰囲気を変えたのは、高等小学校卒を売りにしていた田中の一言だった。

「お前ら大学出は全然だめだなあ」。「じゃあ、どうすりゃいいんですか」と尋ねる大平に、「大学出たやつらが考えるんだ」。これで場は和み、大平は「戦争終結は表現の問題で解決できる」とひらめいたという。

結局、戦争終結の時期は明確にせず、日中の「不正常な状態」は「共同声明が発出される日に終了する」と表現することで決着。北京入りから5日目、調印にこぎつけた。

◇超大国の影
一連の交渉を間近で見た森田の脳裏には、中国側の腰の低さが焼き付いていた。周は戦争の損害賠償放棄を宣言し、日米安全保障条約を事実上容認。「経済力で中国は20世紀末になっても日本のレベルに到達できない」と持ち上げた。

中国側は事前に田中の食の好みを調べ上げ、訪中団をもてなした。真紀子は後に、周夫人のトウ穎超から、夜型だった周が田中の首相就任後、田中に合わせて朝型の生活習慣に変えたと聞かされた。「中国はそれほど真剣だった」と振り返る。

森田も当時、「なぜ中国はこんなに譲るのか」と疑問に思っていた。背景にあったのは、当時の超大国ソ連と中国の対立激化。大きく譲歩してでも対日関係を早期に正常化させた方が得策だという「高度な判断」があったと回想する。

「軍事大国には決してなりたくない」「私たちが台湾を武力で解放することはない」。周は田中との会談でこう語っていた。

それから半世紀。中国は日本を抜いて世界第2の経済大国となり、軍事面でも台頭した。今や米国と世界規模で覇権を争い、東アジアは「発火点」となる危険をはらむ。

そんな中国に今後どう向き合うべきか、森田に尋ねた。「だんだん中国との付き合いは難しくなるよと、当時、大平と話した。大平もどうしたらいいか答えが出ないまま、死んじゃった」。【9月24日 時事】
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【中国と日本の狭間で翻弄されてきた中国残留孤児】
50年を経過した日中関係では、政治・経済・文化以外にも多くの側面が。なかには取り残されたような“陰”の面も。

****日中国交正常化50年 “認定”されず中国に…「自分は一体何者」 2世は支援受けられず 残留孤児…それぞれの今****
29日、日中国交正常化から50年を迎えます。中国と日本の狭間で翻弄されてきた中国残留孤児の今を取材しました。

中国東北部・ハルビンで妻と暮らす白凱躍(はくがいやく)さん。白さんは、残留孤児の認定をめぐり翻弄される人生を送ってきました。

白さん「実の親すらも知らない。無駄に人生を生きてしまった」
中国残留孤児は戦後、旧満州などに取り残された日本人の子どものことで、日中国交正常化を機に本格的な調査が始まりました。

これまでに残留孤児と認定されたのは2818人。しかし、白さんは、「証拠が足りない」との理由から、認定されていません。

白さんが出生を知ったのは35歳で養父の仕事を継ごうとしたときでした。
白さん「養父から“君は私が拾った 日本人の残された子どもだ。将来日本に帰るかもしれないから 仕事を継がせても無駄になるかも”と」

白さん「(事実を知ったとき)農場で号泣したよ」
このとき、養父から渡されたのは1歳ほどで拾われたときに自分がくるまれていた服です。実の両親との唯一のつながり。内側に記された「日本語」が、両親が日本人である“証し”ではないかと寝るときも枕元に置いています。

白さん「日本は自分が日本人だと認めてくれない。中国も中国人だと扱ってくれない。自分は一体何者なんだ」

一方で、日本に帰国しても苦しむ人々がいます。
岐阜県に住む佐藤龍雄さん。親が残留孤児と認定され、1984年に帰国した“残留孤児2世”です。

68歳になった今でも日本での生活になじめず生活相談などを受けています。自宅での妻との会話は「中国語」。今も中国での生活に思いを馳せるといいます。

佐藤さん「(最初は)私は日本に戻りたくなかった。でも父が家族バラバラではだめだと」
職を転々とした佐藤さん。去年、体調を崩して仕事を辞め、今は、貯金をとり崩して生活しています。

佐藤さん「1984年のときは日本語の勉強の制度もなくて、国から(支援も)なくて」
残留孤児1世に対しては年金の支給などはありますが、佐藤さんのような2世への国の支援はありません。
佐藤さん「2世の人はみんな困っている。みんな苦しい」

国交正常化を機に調査が始まった中国残留孤児。50年がたった今もそれぞれがもがき続けています。【9月24日 日テレNEWS】
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