孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

レバノン 今日9年ぶりの総選挙 内戦を踏まえた“奇妙”な選挙制度とそれがもたらす複雑な政治状況

2018-05-06 21:57:47 | 中東情勢

(議員定数は宗派ごとに予め上記のように細かく規定されており、選挙結果によってイスラム教議席が増えるとか、シーア派議席が増えるということはありません。【2014年4月17日 橘 玲氏 より】)

【「モザイク国家」と周辺国干渉が生んだレバノン内戦 シリア内戦の影響で国内に混乱、選挙も延期
18の宗教・宗派が入り組んでいる中東の「モザイク国家」レバノンでは今日6日、2009年以来の9年ぶりの国会議員選挙(定数128議席)が行われています。

2013年の現議員の任期切れ後も、選挙制度改革で各宗派の折り合いがつかず選挙を延期してきましたが、昨年6月に合意が成立。ようやく選挙にこぎ着けたとのことです。【5月5日 朝日】より。

ただ、“選挙制度改革で各宗派の折り合いがつかず”ということの背景には、宗派間の対立・周辺国の介入・干渉というレバノンの極めて不安定な情勢・経緯があります。

レバノンは“第五次中東戦争”とも呼ばれる「レバノン内戦」(1975年~1990年)に長く苦しみました。
この内戦を、きわめて簡略に説明すれば以下のとおり。

****レバノン内戦****
1975年、キリスト教勢力とアラブ人のPLOの衝突。シリア、イスラエルが介入して国際的紛争となり、1990年まで続いた。
 
1975年に、レバノンのキリスト教勢力(マロン派)とパレスチナ解放機構(PLO)を主力としたアラブ人との内戦。他の宗教各派がからみ、さらにシリア、イスラエルが介入して泥沼化し、約15年にわたって続きレバノンを荒廃させた。
 
1943年にフランス委任統治領からレバノンが独立したが、民族的、宗教的に複雑で、キリスト教系とイスラーム教徒の争いが絶えなかった。

1948~49年のパレスチナ戦争によってパレスチナ人難民が多数移住し、さらに複雑な民族・宗教攻勢となった。

そこに1970年にヨルダン内戦で追われたPLOが多数のパレスチナ難民とともに移ってきて、ベイルートを拠点に対イスラエル武装闘争を展開した。

レバノン内戦の勃発
ヨルダン内部では宗教・民族対立にパレスチナ勢力がからみ、1975年からレバノン内戦となった。

内戦はまずキリスト教徒マロン派民兵組織のファランジュ党(ファランジスト)対イスラーム教徒・パレスチナ人(PLO)の連合軍という構図であったが、途中から隣国のシリア(アサド大統領)が介入、キリスト教徒側についてPLOと闘い、一応は終結させたが、パレスチナ人はレバノン南部に拠点を確保し、PLOもベイルートに残った。

それ以後もシリアの影響力が強まったが、1982年にはPLOの排除をめざしてイスラエル軍が侵攻し、首都ベイルートを攻撃した。PLOはそれによってベイルートを退去し、チュニジアに移った。
 
またこの時、マロン派民兵ファランジストは、ベイルート周辺のパレスチナ難民キャンプを襲撃して非戦闘員を含む多数を殺害し、その残虐行為は国際的な非難を浴びた。
 
レバノンでは80年代後半からはイスラーム教シーア派の民兵組織ヒズボラ(神の党)が台頭し、特に南部では実質的な独自政権を樹立しており、内戦状態が続いている。【「世界史の窓」】
***************

実際には、マロン派右派政権とイスラエルとが結びつくことを恐れたイスラム諸勢力がこれに反発してイスラエル軍へのテロ攻撃を続けるとか、シーア派内でアマルとイラン型のイスラム革命を目指すヒズボラ (神の党) との対立が激しくなったことから,いったん撤退したシリア軍が再びベイルートに進駐するとか、複雑な経緯をたどっています。

こうしたきわめて不安定な状況にあるレバノンでは、シリア内戦の影響を受けて、シリア難民が100万人を超える規模で流入、住民の4人に1人が難民という状況になり、失業率は30%と混乱が拡大。

レバノン国内でもシリア反体制派を支援するスンニ派とアサド政権を支援するシーア派ヒズボラの対立が激化して、
繰り返される大規模テロで多数の死傷者が発生、更にはイスラエル軍の関与も疑われるヒズボラ指導者の暗殺もあってイスラエルとヒズボラの緊張が高まる・・・等々、一時はレバノン内戦再燃も懸念されるような状況にありました。

そうした、レバノン内戦を生んだ不安定な状況、シリア内戦の深刻な影響があっての“選挙制度改革で各宗派の折り合いがつかず”ということです。

サウジ対イランの対立のなかで、注目されるヒズボラの伸張
****レバノン総選挙、投票始まる スンニ派対シーア派の構図****
中東のレバノンで6日午前(日本時間同日午後)、9年ぶりの国会議員選挙(定数128)の投票が始まった。

経済政策や東隣のシリアの内戦への対応が争点で、サウジアラビアが支援するハリリ首相のスンニ派勢力と、イランが支えるシーア派組織ヒズボラが対立する構図となっている。

近年、影響力を強めているヒズボラが躍進するかに注目が集まっている。(中略)
 
ヒズボラはレバノン国軍をしのぐ軍事力を持ち、近年はシーア派を超えて支持が広がるなど、存在感を増している。レバノン・アメリカン大学のイマッド・サラメイ教授(中東政治)は「ヒズボラはレバノンの中のもう一つの国家のようになっている」と指摘する。【5月6日 朝日】
*******************

****9年ぶり議会選投票=イラン支援のヒズボラ躍進か―レバノン****
レバノンで6日、国民議会(一院制、定数128)選挙が9年ぶりに行われた。レバノンはサウジアラビアとイランの「代理戦争」の舞台で、互いが支援勢力をてこ入れする中、イランが後ろ盾のイスラム教シーア派組織ヒズボラが躍進するかどうかに関心が集まっている。
 
即日開票され、早ければ7日に大勢が判明する見通し。

多くの宗教・宗派が共存する「モザイク国家」のレバノンでは権力均衡を図るため、議席配分はイスラム教徒64、キリスト教徒64などとあらかじめ決められている。
 
首相はサウジが支援するイスラム教スンニ派から選ぶのが慣例で、ハリリ首相が続投する公算が大きい。ただ、有権者には汚職や既存政治への不満も強く、事前の予想ではハリリ氏陣営は議席を減らし、ヒズボラが勢力を伸ばす可能性が高いとみられている。【5月6日 時事】 
*******************

サウジアラビアが支援するハリリ首相のスンニ派勢力と、イランが支えるシーア派組織ヒズボラが対立する「サウジ・イランの代理戦争」とか、近年勢力を拡大しているヒズボラがどこまで伸びるかが焦点・・・といった様相です。

サウジアラビア・イランの確執は、昨年11月、ハリリ首相がサウジアラビア訪問中に、ヒズボラに命を狙われているとして辞意を突然表明するという“奇妙”な事件でも世界の注目を浴びました。

レバノン国内では、ヒズボラに宥和的なハリリ首相がサウジアラビアに軟禁され、辞意を強要されたと受け止められています。

その後、ハリリ首相はフランスの仲介でレバノンに戻り、大統領の慰留もあって、首相職を続投しています。

挙国一致内閣に参加して、政権の死命を制する力を有するヒズボラが敢えてハリリ首相を暗殺する動機も乏しく(ハリリ首相を殺したところで、首相はスンニ派から選出するルールになっています)、サウジアラビアのムハンマド皇太子のカタール断交など一連の強引・性急な行動を併せ考えると、レバノン国内でのとらえ方が真相に近いようにも思えます。

独特な宗派主義の選挙制度 それがもたらす複雑な政治状況
レバノンの選挙は、各宗教・宗派で議員数があらかじめ決まっている独特の制度で行われます。

****レバノンの選挙制度****
レバノンの選挙制度 レバノンは18の宗派が共存し、対立回避や権力均衡を重視するため、国民議会(定数128)の議席配分はイスラム教徒64(うちスンニ派とシーア派はともに27)、キリスト教徒64などと宗教・宗派ごとに決められている。

ただ、同じ宗教・宗派内でも、それぞれの党派が宗教・宗派を超えて複雑に同盟関係を結ぶことがあり、一枚岩ではない。
 
首相はスンニ派、国会議長はシーア派から選出が慣例。

伝統的に隣国シリアと関係が緊密だが、前回2009年の議会選ではハリリ現首相を中心とする反シリア派が過半数を獲得した。【5月5日 時事】
*********************

一方、イスラム系武装勢力とされヒズボラは、シーア派枠で12議席を有する政党でもあります。

****ヒズボラ:政治・社会活動****
ヒズボラは一般に過激派組織と見なされているが、パレスチナの過激派ハマースのように選挙に参加している政治組織である。

独自の議会会派「レジスタンスへの忠誠」を結成して、議会選挙では1992年8議席、1996年7議席、2000年12議席と議席を毎回獲得し、2005年7月には連立内閣に参加した。

また、貧困層への教育・福祉ネットワーク(2002年のデータで、学校9校、病院3ヶ所、診療所13ヶ所を運営)を作っており、それ故に貧困層からの支持は厚い。 2007年のイスラエルとの戦いの際にも、被害を受けた人々の直接的な援助を行っている。

インターネット上に複数のウェブサイトを開設しており、テレビ局「アル=マナール」、ラジオ局「アン=ヌールー」、週刊誌「アル=アフド」も運営している。【ウィキペディア】
*******************

各宗教・宗派ごとに議席配分が決まっているのに、選挙する意味がどれだけあるのか?
イスラム教徒人口が増加しているなかで、キリスト教徒とイスラム教徒の議席配分が1:1に固定されていることへの不満はないのか?(レバノンではフランス委任統治時代の1932 年に人口調査が実施されて以降、公式の人口統計は発表されていません。1990年推計ではイスラム教徒65%に対し、キリスト教徒35%とも)

いろいろ素朴な疑問がわきますが、レバノンの宗派主義制度は、過去のレバノン内戦をもたらした宗派間の対立が激化しないようにとの意図で制定された制度です。(1:1などの犠牲配分を変更しようなどしたら、内戦再燃も必至でしょう)

また、宗派間の犠牲配分が決まっていることで、選挙戦の当面の敵は異なる宗派ではなく、同じ宗派の異なる政治勢力ということになり、レバノン特有の投票制度もあって、宗派間の連携(ときには“奇妙な連携”)を生み出す土壌ともなっています。

そうした“連携”によって、ヒズボラは現有議席12という数字以上の影響力をすでに有しています。

****モザイク国家レバノンが生み出した奇妙な政治制度の背景にあるもの「橘玲の世界投資見聞録****
歴史学者トインビーは、“文明の交差路”に位置するレバノンを「宗教の博物館」と呼んだ。(中略)人口450万人のこの小さな国は、国民のほとんどがアラブ人であるにもかかわらず、20ちかい宗教・宗派が共存しているのだ。

このような複雑な社会では、私たちが想像すらできないようなことが起きる。(中略)

レバノンの宗教三権分立
レバノンが宗教の博物館だとしても各宗派が並立しているわけではなく、社会の中核となる宗教組織はイスラム教のスンニ派とシーア派、マロン派を中心としたキリスト教各派の3つだ。(中略)

この三派のなかでもっとも信者が多いのはキリスト教各派だが、それでも人口の3割超にしかならない。ムスリムは全体の半数を超えるが、スンニ派とシーア派はそれぞれ2割程度だ。そのうえこれは概数で、宗派対立を助長するとして1930年代以降、正式な人口調査は行なわれていない。

レバノンでは建国以来、「三権分立」が実行されている。だがこれは私たちが馴染んでいる立法・司法・行政の三権のことではなく、宗教の主要3派に権力を分配する仕組みだ。

不文律により、大統領はキリスト教マロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派に国家の首脳ポストが割り当てられているのだ。(中略)

主要3ポストのなかでもっとも大きな権限を持っているのは元首である大統領で、首相を指名して組閣を指示できる。だがその大統領は国会によって選出され、実務は首相の下で行なわれるのだから、レバノンの政治はこの三者が協調しないと動かないようにできている。

宗派ごとに議員の割合が決まっている選挙制度
こうした制度では、政治の場で自らの意思を実現しようとすれば国会で多数派を形成する以外にない。

だがさらに驚くのは選挙制度で、宗派別に議員の人数が割り振られている。その仕組みはきわめて複雑だが、『レバノン 混迷のモザイク国家』(安武塔馬氏)に基づいてできるだけわかりやすく説明してみたい。

レバノンの国会は任期4年の一院制で、議員定数は128。これがキリスト教徒とイスラム教徒の権力折半の原則によって、それずれ64議席ずつ割り当てられる。

もともとはキリスト教徒6に対してイムラム教徒5の割合だったが(だから議員定数が11の倍数になっている)、内戦を終結させるターイフ合意(1989年)で5対5に改定された。

宗教への配慮はこれだけではない。議員定数は宗派ごとに以下(冒頭グラフ)のように細かく規定されている。

レバノンは大選挙区制で、それぞれの選挙区の信者数で宗派別の定数が割り振られ、選挙民は定数分だけ投票する。といっても、これではなんのことかわからないだろうから具体例を挙げてみよう。

2009年の国政選挙ではトリポリ選挙区の定数は8で、信者数によりスンニ派に5議席が割り当てられ、マロン派、ギリシア正教、アラウィー派が各1議席となっていた。

この場合、有権者は8票を投じることができるが、それはこの議席配分に厳密に従っていなければならない。自分がスンニ派だからといって8票すべてをスンニ派の候補に投票すると無効にされてしまうのだ。

この選挙方式がとてつもなく複雑だということは誰でもすぐに気づくだろう。スンニ派の有権者は、それ以外の宗派の候補者にはなんの関心もない。

だが選挙で有効票を投じようとすれば、自分の選挙区の宗派別割り当てを調べたうえで、各宗派の候補者の名前を書かなければならないのだ。これほど難易度が高いと投票の大半が無効になってしまいそうだ。

この問題を解決するために各政党が考えたのがリスト方式で、安武氏はこれを定食にたとえている。「主菜A、副菜B、ご飯C、汁物D」のように、「スンニ派A、マロン派B、ギリシア正教C、アラウィー派D」のようなリストをあらかじめつくっておき、有権者は支持政党のリストを持って投票所に行くのだ。これならたしかに混乱はなくなり、有効票も増えるだろう。

だがその結果、なにが起きるのだろうか。

選挙区の区割りをめぐる政治抗争
大統領がマロン派から選出されるとしても、レバノンのキリスト教徒の利害が常に一致しているわけではない。

トリポリはレバノン第二の都市だが、そこに住むキリスト教徒は、大統領はベイルートではなく自分たちの町の出身者がなるべきだと考えるだろう。

だがキリスト教徒内の単純な多数決では常にベイルート派に負けてしまう。そこで彼らに対抗するためにイスラム教徒との提携するのだ。

話をさらに複雑にするのは、選挙区の区割りによっては多数派の候補が勝てるとは限らないということだ。

キリスト教マロン派の住民がほとんどを占める地区があるとする。ふつうに選挙をすれば、住民たちが支持する候補者がマロン派の議席を独占するはずだ。

だが他派がこれを不都合だと考えた場合、選挙区の区割りを変えることで選挙結果を左右できる。その隣にムスリムが多数派の地区があったとすると、その選挙区と合体してしまうのだ。

これによって、ムスリム地区の有権者にもキリスト教系の候補者に投票する資格が生じる。他派が別のマロン派候補をリストに載せると、ムスリム票によって、その選挙区に住むキリスト教徒の意思とはまったく関係のない候補が当選してしまうのだ。

こうしてレバノンでは、まず選挙区の区割りをめぐって激しい政治抗争が起きる。それが一段落して選挙が始まると、こんどは現在の選挙区を所与として、自分たちにもっとも利益のある同盟を模索することになるのだが、その結果、誰も想像できなかった奇怪な事態が生じる。

複雑怪奇な政治状況
(中略)
こうした複雑怪奇な政治状況を見ると、レバノンで起きているのが宗教対立かどうかもあやしくなってくる。宗教・宗派の違いに地域対立が加わって利害が複雑に錯綜した結果、どの組織がどこと提携し、どこと敵対しても不思議はなくなってしまったのだ。

だがそこには、ひとつの原則がありそうだ。

レバノンでは1975年から86年にかけて、キリスト教徒とムスリムのあいだで血で血を洗う内戦が起きた。この悲惨な殺し合いがようやくのことで終結したとき、双方に死体の山が積み上がっているだけで、利益を得た人間はどこにもいなかった。

この愚行を体験したレバノンのひとたちは、二度と内戦を起こしてはならない、ということだけはかたくこころに刻んだ。そのためには、宗派間の決定的な対立はなんとして避けなければならない。

このようにして、それぞれの派閥が合従連衡し、敵対しては和解する政治の仕組みが生まれたのではないだろうか。レバノンの政治体制は不合理きわまりないが、それは日常的な対立によって致命的な対立が起きないようにするための、ひとびとの知恵かもしれないのだ。【2014年4月17日 橘 玲氏】
*******************

選挙結果は早ければ明日にも判明しますので、改めて結果について取り上げることもあるかもしれませんが、レバノンの状況、選挙制度について、ある程度の予備知識がないと、単に“ヒズボラが増えました”では見えない部分が大きいと思い、あえて今日はレバノンの状況、選挙制度について触れてみました。

なお、昨年6月に合意した選挙制度改革の内容について知りませんので、ひょっとしたら上記のような話にも変更箇所が生じているかも。(情報がないということは、そんな大きな変更ではなかったのかも)
そのあたりはまた追って。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする