二日休んで申し訳ありません。ところで、前報ですが、ずいぶんと、えげつないことを書いているようにお思いになった方は多いでしょう。でも、尾崎正志さん(工房OMの社長)とのかかわりの50%ぐらいに押さえているのですよ。もっと重要なエピソードはあるのです。それは私がこのブログの世界では、『いつも、40%に抑えて置きます』と、言っている路線に従っています。
それに、1998年の話でしたから、もう13年近くが、過ぎているので、『時効かな』と思うところもあるから書きました。
そして、プリントハウスOMは、もしかしたら、今は、大量に出回っている草間弥生の版画なども引き受けているのかもしれません。となると、お金回りはよいはずです。
不思議ですね。お金は、天下の回り物といいますから、我慢をしていれば、待てば海路の日よりありで、回復の日も来るのです。
私自身も今はほっとしている段階ですが、一時期厳しい時期があって、OMが、一時期、ファックス代の50円100円をも厳しく管理していたというのもわかります。(そういえば今はメールの時代で、そういう意味では、通信費は安くなりました。が、メールは、ファックス以上にはっきりと、把握をされる、その恐れはあります)
その、草間弥生のドット一杯のかぼちゃの版画ですが、あそこまで世の中に蔓延すると、芸術とも思えなくなってきます。私なんか、1999年ぐらいまでは、熱烈に草間をひいきしていた方だけど、今、一枚10万円で売られているかぼちゃの版画が、何種類も色を変えて出ていて、ほぼ一億円単位の商売になっているらしいのを知ると、何の色香も感じないとなります。そして、もちろん彼女は何の支援も、私に対して求めていないのですが、私も支援の気持ちもともかく、作品に対しても、惚れない事となってきています。あの版画からは、機械的な感じ(つまり、工業生産品であると言う感じ)しか受けません。
アメリカの俳優は、アメリカ国内のテレビコマーシャルには、出ないのだと聞いたことがあります。それは、露出が多いと、結局は自分の損になるからだそうです。草間にマネージャーが居るのか、居ないのかは知りませんが、あのかぼちゃの版画は、版画として出す企画そのものを、もう、お断りになった方がいいと思いますけれど。
ところで、草間から尾崎さんへ戻ります。ひとつだけ普遍性を持つことを言い落としていました。それを述べます。
それは、男としてひとかどの人になった男性のパートナーは、容姿において地味な人が多いという事です。
今、話題がそこへ集中している岡本太郎の夫人(戸籍上は養女)の敏子さんなど、三国一のお嫁さんといってよいでしょう。有能な秘書でもあるのだけれど、受身を超えていて、能動的に太郎をプロデュースして行ったと思います。
対称的なのがカラヤンです。年齢が離れて若い、奥さんは、超がつくほどの美人です。でも、カラヤンを、本当の意味では、愛していなかったとか、理解していなかったとか、言う人が多いですね。でも男性って、若いときは特に、容姿や、セックスアッピールにこだわるから、美しい女性を伴侶に娶って、結果、幸せになれなくて、その後、それほど、伸びられないケースが多い模様です。
東大卒で、一流企業勤務で、豪華な結婚式を挙げて、でも、幸せではなかったりして。いや、ご夫婦ともに、『こんなものだろう。人生は』なんて思っていても、本当は、幸せとは遠かったりして。
~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、ここで、わき道にそれますが、前報の中で数時間真夜中には、さらしていたが一万字を超えてしまったので、引っ込めた岡本太郎への、考察がありますので、それを、ここに、再度、入れさせてくださいませ。そして、さらに考察を付け加えます。
今、岡本太郎が、神格化さえされているほどもてています。それは、敏子夫人(戸籍上は養女)の献身の結果ですが、二人の住まいが公開されているのを見て、非常に豊かな、かつ、静かで、きちんと整理をされた生活をされていた事を知りました。
『芸術は、爆発だ』という言葉が、大喧伝をされていますが、一方で、『思考・熟考をへて、あの絵画は、描かれたのだ』と、この間、BS朝日の特集番組内で、伝えられていました。それは、元の絵を、白い絵の具で塗りつぶしたキャンバスが出てきて、『キャンバスを買えない時期もあったのではないか』とかいう、世間に流布しているイメージとは異なった、生活への推測も披露されました。
その番組は相当に冷静な方でした。で、好ましい方のものでした。でも、その中の、一節には違った解釈を、ここで、私が提示したいと感じます。
『キャンバスを買えなかった時代があったのは、岡本太郎が、絵を売りたくないとして、売らなかったからだ』という部分です。だから貧乏だったとなります。
BS朝日内では、太郎(もしくは敏子さんの言葉として)
『大勢の人に見てもらいたいから、売らなかった。うると、個人宅に死蔵されてしまう。それをやりたくない』という事で、絵を売らなかったと発表をされています。
誰もその裏側の、真実を言いませんが、
岡本太郎さんには、非常に、特殊な条件が重なったので、ご自分から『売らない』と宣言することができたのです。だから、あに、上に上げた理想論からだけ、そうなったとは思えません。ちょっと、神格化への足を引っ張るようで、またまた、「あなたはつむじ曲がりで、へそ曲がりで、ひがんでいるから、そういう風に感じるのでしょう」といわれるかもしれません。
が、自分も絵を描き、身銭を切って、9回も個展をした身であれば、さまざまな裏事情がわかるのです。
で、なぜ、売らないで済んだのか、その原因を、羅列してあげていきましょう。
* 両親の遺産があり、食うには困らなかったこと。両親の作品からくる印税などの収入で、衣食住を満たす、最低限の生活は安泰であったこと。家そのものも、きちんとした邸宅が残されていたこと。相続が戦前であったので、広い地所が残ったこと。
* それと、抽象画は、売れないという状況があり、それを納得していたこと。
* 日本画が、高い値段がつくことと、比較すれば、プライドを傷つけられるような値段でしか売れないので、パリ帰りのプライドが傷ついたであろうこと。
* また、日本では美大や芸大の閥で、画家としての、知名度が左右し、画廊からの支援等も、岡本太郎側から見れば、不平等に見えることもあったであろうこと。そういう世界には、自分が関与できないし、損をすることを知っていたこと。で、不利になって安い値段で、取引されることには、我慢がならなかったこと。
だから、かかわりたくないと思い、別の道を探ったこと。
* 幸い文才があったこと、両親とは異なった分野で文章を書いても、やはり、知名度があり、コネと信用があるので、敏子さんが動けば、出版が可能でもあり、そちらで、かつかつの収入があり、知名度も、そちら側で上げられる面があったこと。
そういう中で、自治体からの依頼で、たくさんの仕事が来るようになり、そちらでも、名声や、収入が上がるようになれば、平面という類の(一般的に言えば絵といわれるもの)を売る必要性がなくなったこと。
そして、そのような好循環が始まった後で、亡くなる。が、彼を信奉し熱愛する敏子さんが、(養女だが実質的には奥様)が、愛ゆえに、太郎を理想化していく。
その結果、『売らない。個人に死蔵をされるのが嫌だ』というすばらしい話になった、と、私は推定するのです。
が、以上のような条件は、普通の収入しかない作家(アーチスト)には当てはまりません。だから「売りません」などと、いえるわけがないのです。そして、作品が売れることは嬉しいことです。
~~~~~~~~~~~~~~
で、さらに真実を言えば、岡本太郎の平面も、立体もシンクロしていて、ほとんど傾向が同じものです。個性は横溢しています。だが、別の言葉で言えば、乱暴です。で、乱暴だから、高い値がつきません。でも、突然に、美術系の人気作家になり、今は神格化される勢いです。その一番のブレイクスルーポイントは、万博の会場を飾るモニュメントだったとは、誰もが認めることでしょう。
しかし、あれが発注された当時は、『実は、二流の仕事だ』とみなされたいたと感じます。
ともかく、派手なもの、新規なもの、目立つものが求められる会場には、普通の彫刻や立体では、目立ちません。
戦後の彫刻界で有名な人としては、私が思い浮かべるのは、建畠覚造、佐藤忠良、船越保武、新宮晋などですが、それらの人が、たとえ頼まれても、求められる大きさを聞いて、「いや、それは、できません」といった可能性は大きいです。
物量として大きい作品を作った作家としては、北村西望がありますが、あの人に制作を頼んだら、大変長い時間が要求されると感じます。そして、予算も高いでしょう。
特に「万博が終わったら、壊す」と言う条件があったので、上に名前を挙げた作家は、みんなそれも嫌がって、断ったと考えられます。
だから、あの、『太陽の塔』は、失礼な言い方ながら、一種の宣伝のために、看板として制作をされたのです。純粋な彫刻(現代では、立体とよく言われる)として、依頼をされたのではないと推察もされます。岡本太郎ご自身も、それを引き受けたときは、そのことを、納得をしていたと思います。
でも、「そんなことを、俺に頼みやがって、失礼だ」とは、かれは、思わなかったのです。それは、どうしてかというと、パリから日本に帰国した後、長い雌伏の時があったと考えられるからです。先ほど言ったように、日本の芸大とか、武蔵野美大、多摩美大の卒業生ではありません。今なら、高校から海外の音大や、美大へ直接進学するケースも結構知られている事となりましたが、岡本太郎が少年時代には、それは、まれなことで、おなじ、パリがえりでも、日本の美大を経て留学した人たちとは、友達関係を作ることはなかったと推察できます。
だから、太郎は、不遇だった時代が長くて、あれ(宣伝のための看板)でもいいと、一種の覚悟を決めて、取り組んだと考えられます。
その際、日本美術界で、不遇だったことは、むしろ、幸運として機能しました。なんら、後顧の憂いなく、あの注文を引き受けることができたからです。
宣伝のための、一種のゲテモノを作るという事に、他者の批判を恐れる必要がなかったからです。他者の批判でも、特に困るのが、知人や友人、または、同輩からの批判です。
でも、岡本太郎が、何も感じていなかったと考えてはいけません。彼はとても繊細に、状況を捕らえていたでしょう。で、恥の感覚とか、批判への対抗策、または、克服策として、あの『爆発だアー』という過激なパフォーマンスが生まれたと、私は考えます。『彼は、本当はとてもシャイな人間だった』と考えると、すべてが、納得をされてきます。
私は、本当は、洗練をされたものが好きです。だから、岡本太郎の作品はよくわからないのです。
でも、『だから、上のように、けなしたのだ』と思われると、それも困るのです。私は岡本太郎とも敏子さんともなんら接点がなくて、意地悪をされたこともありません。だから、復讐をする必要もないのです。でも、なぜ、世間に逆らって、あれこれ、マイナスに近いことを言うかというと、過剰に一人の人に、人気が集中することが嫌いなのです。
これが、芸能人とかミュージシャンとか、歌手と成ると、許せるのですが、美術の分野だと、自分がそこに居るからこそ、真に深いものを求めるために、違和感のあるものに対する嫌悪感はひどいのです。今、何が違和感かというと、生誕100年を期して、突然の神格化が始まったことに、ひどい違和感を抱くのです。
私から見れば、ある一定のラインより上のアーチストは、みんな等価値なのです。それなのに、こういう一極集中が、起きるのはマスコミの動きゆえです。それを非常に嫌うのです。
そして、こういう風に言う私を、岡本太郎自身はほめてくれると思います。「その通りだよ」と言ってくれるでしょう。そして、彼と敏子さんが二人だけの時は、太郎は静かな、地味メの人だったと確信しています。
太郎が亡くなった以降、敏子さんが太郎復活というか、太郎を、売り込むことに非常に熱心だったということは、敏子さんがなくなったときに出た雑誌形式の特集で知りました。
敏子さんがもてはやされたのは、かまいません。彼女がもてはやされたのは、かの女自身の実力と、能力のもたらすところだと思うからです。それに、それほど、彼女が頑張ったのは、彼女自身をうりだすためではないことも奥ゆかしいことですから、許されるのです。
それも、美術家としての岡本太郎が、彼女の思うほどの高さで、評価されていなかったからでしょう。日本のオーソドックスな美術界は、彼を、自分たちの輪には入れていなかったと感じます。死後も。
ところで、私は洗練をされたものが好きだとは言っても、上に上げたようなオーソドックスな日本の美術界に、くみしているわけではありません。むしろ太郎以上に、そこから排除され、攻め立てられ、無視されている存在です。だから、不遇、極まりない存在です。
だけど、ひがんで上のようなことを言っているわけではないのです。真実を追究したくて言っているわけです。
この際の最高の真実とは、恵まれない仕事でも、きちんと最善を尽くせば、そこから幸運が来るという事です。岡本太郎にとって、大阪万博の太陽の塔とはそういうものだったと思います。
最近メキシコに残されていた、壁画を敏子さんが発見して持って帰って、それが修復され、渋谷駅の(多分?)井の頭線に向かう広場に設置されました。
それは新たに、太郎の画業を世に広めるわけですが、
その前に、数寄屋橋公園の時計塔を上げないといけませんでしょう。それは大阪千里の太陽の塔のミニチュアーみたいなものです。でも、それゆえに、撤去されることなく、半永久的にそこに飾られていて、太郎の芸術がどういうものだったかを後世に伝えます。
これは、非常に幸運なことですが、それもこれも、大阪万博の仕事を引き受けたから訪れたものでした。
~~~~~~~~~~~~~~
ここが、私にとって、非常に感動的なのは、今、私が不遇だからです。この私だって周りから過剰にちやほやされたことはあるのですよ。マスコミからではなくて、知っている人たちの間でですが、そういう時期もありました。人生に二度会った時期は記憶にはっきりと残っています。だけど、今は不遇です。でも、そういうときに何をしていたらいいかというと、岡本太郎の選択は非常に参考になります。
天運を引き寄せるにはどうしたらよいかというポイントです。ただし、私の場合は子や孫が居るので、その分だけでも、既にある種の幸運だから、そこは勘案しないといけません。
岡本太郎と敏子さんは、子供を生むことを、避けたわけですから、その分、仕事上の恵みが天から降ってきたのです。あれこれ、欲張って、望んでもいけないのです。
~~~~~~~~~~~~~~
現在の大騒ぎを嫌うものの、これほどの大騒ぎを招き寄せたのは、敏子さんです。で、話が変わりますが、今日のもうひとつの結論、『男がひとかどの仕事をしようとしたら、地味メの女を選ぶこと』が、結論として出てきました。
だけど、この真実がわかっている男の人って、なかなか居ないでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~
この一文は、本当は都知事選挙に及ばないといけません。が、今日は(水曜日の深夜)は、非常に疲れたので、ここで、ひとつのまとまりとして、終わらせてくださいませ。
銀座の画廊へ普段の二倍ほどの数、出かけていたのです。他の人には単なる遊びと見えることかもしれませんが、私は短い時間内で、すべてを感得しようとするので、大変なエネルギーを消耗します。
しかも、たった、3分か五分で、リセットして、(つまり、60兆といわれる細胞のすべてから前の記憶を消し去って)次の画廊へ向かいます。私にとっては、なれているとはいえ、大変なエネルギーを消耗する行いです。
有名な美術評論家というのは、それほどの数は回りません。お目当ての作家が居る場所しか回らないのです。で、すごいことをしているのですが、それが、今、できる事ですから、岡本太郎ではないが、今できることを黙々とやるのです。それで、頭脳も、体もすっきりとしてきます。
2011年3月2日から3日へかけて書く。 雨宮舜
それに、1998年の話でしたから、もう13年近くが、過ぎているので、『時効かな』と思うところもあるから書きました。
そして、プリントハウスOMは、もしかしたら、今は、大量に出回っている草間弥生の版画なども引き受けているのかもしれません。となると、お金回りはよいはずです。
不思議ですね。お金は、天下の回り物といいますから、我慢をしていれば、待てば海路の日よりありで、回復の日も来るのです。
私自身も今はほっとしている段階ですが、一時期厳しい時期があって、OMが、一時期、ファックス代の50円100円をも厳しく管理していたというのもわかります。(そういえば今はメールの時代で、そういう意味では、通信費は安くなりました。が、メールは、ファックス以上にはっきりと、把握をされる、その恐れはあります)
その、草間弥生のドット一杯のかぼちゃの版画ですが、あそこまで世の中に蔓延すると、芸術とも思えなくなってきます。私なんか、1999年ぐらいまでは、熱烈に草間をひいきしていた方だけど、今、一枚10万円で売られているかぼちゃの版画が、何種類も色を変えて出ていて、ほぼ一億円単位の商売になっているらしいのを知ると、何の色香も感じないとなります。そして、もちろん彼女は何の支援も、私に対して求めていないのですが、私も支援の気持ちもともかく、作品に対しても、惚れない事となってきています。あの版画からは、機械的な感じ(つまり、工業生産品であると言う感じ)しか受けません。
アメリカの俳優は、アメリカ国内のテレビコマーシャルには、出ないのだと聞いたことがあります。それは、露出が多いと、結局は自分の損になるからだそうです。草間にマネージャーが居るのか、居ないのかは知りませんが、あのかぼちゃの版画は、版画として出す企画そのものを、もう、お断りになった方がいいと思いますけれど。
ところで、草間から尾崎さんへ戻ります。ひとつだけ普遍性を持つことを言い落としていました。それを述べます。
それは、男としてひとかどの人になった男性のパートナーは、容姿において地味な人が多いという事です。
今、話題がそこへ集中している岡本太郎の夫人(戸籍上は養女)の敏子さんなど、三国一のお嫁さんといってよいでしょう。有能な秘書でもあるのだけれど、受身を超えていて、能動的に太郎をプロデュースして行ったと思います。
対称的なのがカラヤンです。年齢が離れて若い、奥さんは、超がつくほどの美人です。でも、カラヤンを、本当の意味では、愛していなかったとか、理解していなかったとか、言う人が多いですね。でも男性って、若いときは特に、容姿や、セックスアッピールにこだわるから、美しい女性を伴侶に娶って、結果、幸せになれなくて、その後、それほど、伸びられないケースが多い模様です。
東大卒で、一流企業勤務で、豪華な結婚式を挙げて、でも、幸せではなかったりして。いや、ご夫婦ともに、『こんなものだろう。人生は』なんて思っていても、本当は、幸せとは遠かったりして。
~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、ここで、わき道にそれますが、前報の中で数時間真夜中には、さらしていたが一万字を超えてしまったので、引っ込めた岡本太郎への、考察がありますので、それを、ここに、再度、入れさせてくださいませ。そして、さらに考察を付け加えます。
今、岡本太郎が、神格化さえされているほどもてています。それは、敏子夫人(戸籍上は養女)の献身の結果ですが、二人の住まいが公開されているのを見て、非常に豊かな、かつ、静かで、きちんと整理をされた生活をされていた事を知りました。
『芸術は、爆発だ』という言葉が、大喧伝をされていますが、一方で、『思考・熟考をへて、あの絵画は、描かれたのだ』と、この間、BS朝日の特集番組内で、伝えられていました。それは、元の絵を、白い絵の具で塗りつぶしたキャンバスが出てきて、『キャンバスを買えない時期もあったのではないか』とかいう、世間に流布しているイメージとは異なった、生活への推測も披露されました。
その番組は相当に冷静な方でした。で、好ましい方のものでした。でも、その中の、一節には違った解釈を、ここで、私が提示したいと感じます。
『キャンバスを買えなかった時代があったのは、岡本太郎が、絵を売りたくないとして、売らなかったからだ』という部分です。だから貧乏だったとなります。
BS朝日内では、太郎(もしくは敏子さんの言葉として)
『大勢の人に見てもらいたいから、売らなかった。うると、個人宅に死蔵されてしまう。それをやりたくない』という事で、絵を売らなかったと発表をされています。
誰もその裏側の、真実を言いませんが、
岡本太郎さんには、非常に、特殊な条件が重なったので、ご自分から『売らない』と宣言することができたのです。だから、あに、上に上げた理想論からだけ、そうなったとは思えません。ちょっと、神格化への足を引っ張るようで、またまた、「あなたはつむじ曲がりで、へそ曲がりで、ひがんでいるから、そういう風に感じるのでしょう」といわれるかもしれません。
が、自分も絵を描き、身銭を切って、9回も個展をした身であれば、さまざまな裏事情がわかるのです。
で、なぜ、売らないで済んだのか、その原因を、羅列してあげていきましょう。
* 両親の遺産があり、食うには困らなかったこと。両親の作品からくる印税などの収入で、衣食住を満たす、最低限の生活は安泰であったこと。家そのものも、きちんとした邸宅が残されていたこと。相続が戦前であったので、広い地所が残ったこと。
* それと、抽象画は、売れないという状況があり、それを納得していたこと。
* 日本画が、高い値段がつくことと、比較すれば、プライドを傷つけられるような値段でしか売れないので、パリ帰りのプライドが傷ついたであろうこと。
* また、日本では美大や芸大の閥で、画家としての、知名度が左右し、画廊からの支援等も、岡本太郎側から見れば、不平等に見えることもあったであろうこと。そういう世界には、自分が関与できないし、損をすることを知っていたこと。で、不利になって安い値段で、取引されることには、我慢がならなかったこと。
だから、かかわりたくないと思い、別の道を探ったこと。
* 幸い文才があったこと、両親とは異なった分野で文章を書いても、やはり、知名度があり、コネと信用があるので、敏子さんが動けば、出版が可能でもあり、そちらで、かつかつの収入があり、知名度も、そちら側で上げられる面があったこと。
そういう中で、自治体からの依頼で、たくさんの仕事が来るようになり、そちらでも、名声や、収入が上がるようになれば、平面という類の(一般的に言えば絵といわれるもの)を売る必要性がなくなったこと。
そして、そのような好循環が始まった後で、亡くなる。が、彼を信奉し熱愛する敏子さんが、(養女だが実質的には奥様)が、愛ゆえに、太郎を理想化していく。
その結果、『売らない。個人に死蔵をされるのが嫌だ』というすばらしい話になった、と、私は推定するのです。
が、以上のような条件は、普通の収入しかない作家(アーチスト)には当てはまりません。だから「売りません」などと、いえるわけがないのです。そして、作品が売れることは嬉しいことです。
~~~~~~~~~~~~~~
で、さらに真実を言えば、岡本太郎の平面も、立体もシンクロしていて、ほとんど傾向が同じものです。個性は横溢しています。だが、別の言葉で言えば、乱暴です。で、乱暴だから、高い値がつきません。でも、突然に、美術系の人気作家になり、今は神格化される勢いです。その一番のブレイクスルーポイントは、万博の会場を飾るモニュメントだったとは、誰もが認めることでしょう。
しかし、あれが発注された当時は、『実は、二流の仕事だ』とみなされたいたと感じます。
ともかく、派手なもの、新規なもの、目立つものが求められる会場には、普通の彫刻や立体では、目立ちません。
戦後の彫刻界で有名な人としては、私が思い浮かべるのは、建畠覚造、佐藤忠良、船越保武、新宮晋などですが、それらの人が、たとえ頼まれても、求められる大きさを聞いて、「いや、それは、できません」といった可能性は大きいです。
物量として大きい作品を作った作家としては、北村西望がありますが、あの人に制作を頼んだら、大変長い時間が要求されると感じます。そして、予算も高いでしょう。
特に「万博が終わったら、壊す」と言う条件があったので、上に名前を挙げた作家は、みんなそれも嫌がって、断ったと考えられます。
だから、あの、『太陽の塔』は、失礼な言い方ながら、一種の宣伝のために、看板として制作をされたのです。純粋な彫刻(現代では、立体とよく言われる)として、依頼をされたのではないと推察もされます。岡本太郎ご自身も、それを引き受けたときは、そのことを、納得をしていたと思います。
でも、「そんなことを、俺に頼みやがって、失礼だ」とは、かれは、思わなかったのです。それは、どうしてかというと、パリから日本に帰国した後、長い雌伏の時があったと考えられるからです。先ほど言ったように、日本の芸大とか、武蔵野美大、多摩美大の卒業生ではありません。今なら、高校から海外の音大や、美大へ直接進学するケースも結構知られている事となりましたが、岡本太郎が少年時代には、それは、まれなことで、おなじ、パリがえりでも、日本の美大を経て留学した人たちとは、友達関係を作ることはなかったと推察できます。
だから、太郎は、不遇だった時代が長くて、あれ(宣伝のための看板)でもいいと、一種の覚悟を決めて、取り組んだと考えられます。
その際、日本美術界で、不遇だったことは、むしろ、幸運として機能しました。なんら、後顧の憂いなく、あの注文を引き受けることができたからです。
宣伝のための、一種のゲテモノを作るという事に、他者の批判を恐れる必要がなかったからです。他者の批判でも、特に困るのが、知人や友人、または、同輩からの批判です。
でも、岡本太郎が、何も感じていなかったと考えてはいけません。彼はとても繊細に、状況を捕らえていたでしょう。で、恥の感覚とか、批判への対抗策、または、克服策として、あの『爆発だアー』という過激なパフォーマンスが生まれたと、私は考えます。『彼は、本当はとてもシャイな人間だった』と考えると、すべてが、納得をされてきます。
私は、本当は、洗練をされたものが好きです。だから、岡本太郎の作品はよくわからないのです。
でも、『だから、上のように、けなしたのだ』と思われると、それも困るのです。私は岡本太郎とも敏子さんともなんら接点がなくて、意地悪をされたこともありません。だから、復讐をする必要もないのです。でも、なぜ、世間に逆らって、あれこれ、マイナスに近いことを言うかというと、過剰に一人の人に、人気が集中することが嫌いなのです。
これが、芸能人とかミュージシャンとか、歌手と成ると、許せるのですが、美術の分野だと、自分がそこに居るからこそ、真に深いものを求めるために、違和感のあるものに対する嫌悪感はひどいのです。今、何が違和感かというと、生誕100年を期して、突然の神格化が始まったことに、ひどい違和感を抱くのです。
私から見れば、ある一定のラインより上のアーチストは、みんな等価値なのです。それなのに、こういう一極集中が、起きるのはマスコミの動きゆえです。それを非常に嫌うのです。
そして、こういう風に言う私を、岡本太郎自身はほめてくれると思います。「その通りだよ」と言ってくれるでしょう。そして、彼と敏子さんが二人だけの時は、太郎は静かな、地味メの人だったと確信しています。
太郎が亡くなった以降、敏子さんが太郎復活というか、太郎を、売り込むことに非常に熱心だったということは、敏子さんがなくなったときに出た雑誌形式の特集で知りました。
敏子さんがもてはやされたのは、かまいません。彼女がもてはやされたのは、かの女自身の実力と、能力のもたらすところだと思うからです。それに、それほど、彼女が頑張ったのは、彼女自身をうりだすためではないことも奥ゆかしいことですから、許されるのです。
それも、美術家としての岡本太郎が、彼女の思うほどの高さで、評価されていなかったからでしょう。日本のオーソドックスな美術界は、彼を、自分たちの輪には入れていなかったと感じます。死後も。
ところで、私は洗練をされたものが好きだとは言っても、上に上げたようなオーソドックスな日本の美術界に、くみしているわけではありません。むしろ太郎以上に、そこから排除され、攻め立てられ、無視されている存在です。だから、不遇、極まりない存在です。
だけど、ひがんで上のようなことを言っているわけではないのです。真実を追究したくて言っているわけです。
この際の最高の真実とは、恵まれない仕事でも、きちんと最善を尽くせば、そこから幸運が来るという事です。岡本太郎にとって、大阪万博の太陽の塔とはそういうものだったと思います。
最近メキシコに残されていた、壁画を敏子さんが発見して持って帰って、それが修復され、渋谷駅の(多分?)井の頭線に向かう広場に設置されました。
それは新たに、太郎の画業を世に広めるわけですが、
その前に、数寄屋橋公園の時計塔を上げないといけませんでしょう。それは大阪千里の太陽の塔のミニチュアーみたいなものです。でも、それゆえに、撤去されることなく、半永久的にそこに飾られていて、太郎の芸術がどういうものだったかを後世に伝えます。
これは、非常に幸運なことですが、それもこれも、大阪万博の仕事を引き受けたから訪れたものでした。
~~~~~~~~~~~~~~
ここが、私にとって、非常に感動的なのは、今、私が不遇だからです。この私だって周りから過剰にちやほやされたことはあるのですよ。マスコミからではなくて、知っている人たちの間でですが、そういう時期もありました。人生に二度会った時期は記憶にはっきりと残っています。だけど、今は不遇です。でも、そういうときに何をしていたらいいかというと、岡本太郎の選択は非常に参考になります。
天運を引き寄せるにはどうしたらよいかというポイントです。ただし、私の場合は子や孫が居るので、その分だけでも、既にある種の幸運だから、そこは勘案しないといけません。
岡本太郎と敏子さんは、子供を生むことを、避けたわけですから、その分、仕事上の恵みが天から降ってきたのです。あれこれ、欲張って、望んでもいけないのです。
~~~~~~~~~~~~~~
現在の大騒ぎを嫌うものの、これほどの大騒ぎを招き寄せたのは、敏子さんです。で、話が変わりますが、今日のもうひとつの結論、『男がひとかどの仕事をしようとしたら、地味メの女を選ぶこと』が、結論として出てきました。
だけど、この真実がわかっている男の人って、なかなか居ないでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~
この一文は、本当は都知事選挙に及ばないといけません。が、今日は(水曜日の深夜)は、非常に疲れたので、ここで、ひとつのまとまりとして、終わらせてくださいませ。
銀座の画廊へ普段の二倍ほどの数、出かけていたのです。他の人には単なる遊びと見えることかもしれませんが、私は短い時間内で、すべてを感得しようとするので、大変なエネルギーを消耗します。
しかも、たった、3分か五分で、リセットして、(つまり、60兆といわれる細胞のすべてから前の記憶を消し去って)次の画廊へ向かいます。私にとっては、なれているとはいえ、大変なエネルギーを消耗する行いです。
有名な美術評論家というのは、それほどの数は回りません。お目当ての作家が居る場所しか回らないのです。で、すごいことをしているのですが、それが、今、できる事ですから、岡本太郎ではないが、今できることを黙々とやるのです。それで、頭脳も、体もすっきりとしてきます。
2011年3月2日から3日へかけて書く。 雨宮舜
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます